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百済寺(ひゃくさいじ)は三山の中では北に位置している天台宗の古刹です。聖徳太子の開基と伝わり、高句麗・百済の僧が関わったとされています。
平安時代末には天台寺院として地位を確立、鎌倉・室町時代には隆盛を誇りましたが世は戦乱の時代となり、百済寺は近江守護佐々木六角氏の支援を得て防備を固めていきました。
この頃、近江に侵攻した織田信長は当初、百済寺を保護しましたが、佐々木六角氏と内通していることが明らかになると、全山焼き払ってしまいます。
全山灰燼に帰した百済寺は近世に至り、徳川幕府や近江の譜代大名井伊家の支援を受け復興します。しかし、往時の繁栄を取り戻すことはできず、本堂を中心にした範囲に限られたものでした。
その後昭和に入り、喜見院、不動堂を移築し、本坊書院の庭園作庭などを経て、現本坊が整備されました。
場所は滋賀県東近江市百済寺町
北陸からだと名神高速「彦根IC」下車、国道306号線を左折し「多賀」方面へ進みます。国道306号線から国道307号線へ直進し、名神高速道路と平行しながら進むと、湖東三山「西明寺」、「金剛輪寺」を左手の山に見えてきます。それらを通り過ごし、「湖東三山スマートIC」から約3Km、「中里」交差点を山に向かって左折、県道508号線を進みます。名神高速のガードをくぐり600mほど行くと案内板があるので、県道229号線の分岐を左折するとほどなく赤門があり、その上にある駐車場に着きます。

駐車場からは表門がすぐ目の前なので、思わず入山したくなりますが、そうするとふもとの方にある赤門や赤門からの参道を見逃してしまう可能性があるので注意が必要です。
自分は開門までに少し時間があったので、駐車場からふもとの方へ下ってみました。
イラストマップ、、、パンフレットより

百済寺遺跡案内図、、、滋賀県教育委員会・埋蔵文化財活用ブックレットより

石塔石仏群の前を通って分岐を左手方向、

バス停や第2駐車場の前を過ぎ「五の谷川」を渡ると案内板と赤門が見えてきました。

「赤門」
百済寺の総門で、通称赤門

赤門の石垣
本堂再建の頃に建立されたと考えられています。石段と両側の石塁は堅固な構えとなっています。

「井伊直滋公墓所」
彦根藩主井伊家二代直孝の嫡子であった直滋は父の勘気に触れ出家した後、この地で没しました。九代藩主直惟の許しでこの地に廟が設けられました。
入り口の石碑

害獣侵入防止柵が張り巡らされ、厳重に施錠されているため、この先の廟にたどり着くことはできませんでした。
猿の楽園状態です。低い柵はイノシシや鹿対策でしょうか?

「堀切」
赤門横の尾根筋を分断する堀切。空堀と言っていいほど堀幅が広い。

「極楽橋」
赤門から表門に至る表参道の五ノ谷川に架かる橋 近年のもので赤い欄干が紅一点。

ここから「表参道の石段」が続きます。

表参道の石垣

宿坊(僧坊)の虎口

排水溝を伴った宿坊虎口

周囲を石垣で囲った大規模な平坦地


中世の石垣を利用して近世に整備されたことを示す箇所があるそうですが、自分にはさっぱりわかりませんでした


表参道終点、この先石垣養生中にて立ち入り禁止です。
もみじの落ち葉で真っ赤に染まった光景は名所の一つです。

表門の高石垣


「表門」

受付
参拝料と御朱印・御城印の販売所となっています。

左が「百済寺城」御城印

「本坊喜見院(きけんいん)」書院と庭園
昭和15年、仁王門南側から現在の位置に移築されました。

石に目が行ってしまいました。

「天下遠望の地」

眺望
遠くは比叡山と琵琶湖の水面、手前右には観音寺城や安土城の山系まで一望できます。

宿坊跡でしょうか?平坦地を取り囲む石塁

仁王門下参道
石段と両側の石垣

「最後の山城の偉容」解説する現地案内板
『城砦化された百済寺城の一部であり、小石を積み上げた石垣であったため、織田信長も安土へ「石曳」をせず、破壊されずに残った』とあります。




仁王門南側にあった本坊喜見院跡の石段

「仁王門」
仁王門正面には約2.5mの大草鞋(わらじ)が奉納されています。現参道や本堂と同時期に再建され、近年に大規模な改修を受けました。

「本堂」(重要文化財)
最盛期を誇っていた中世期末に、織田信長によって全山灰燼と帰しました。近世に入り徳川幕府をはじめ、譜代筆頭大名井伊家などの支援を受け復興しましたが、往時の栄華を取り戻すことはできませんでした。

「鐘楼」
本堂と同じ時期に建立された建物。

※旧本堂や五重塔跡地は防災上の理由により現在、立ち入り禁止となっています。
「三百坊」本堂の西側と北側に広がる数多くの僧坊跡。
宣教師ルイス・フロイスの書簡に『多数の相互に独立した僧坊が建ち並びまさに地上の楽園が、、、」と記録されていたそうです。

規模の大きな僧坊には石垣が現存しています。

旧参道の石垣
中世に利用されていた旧参道には、堂や僧坊跡に入る石段や石垣を見ることができます。

近江源氏佐々木六角氏は自主防衛のため観音正寺と百済寺を石垣で「城塞化」する(観音寺城、百済寺城)と共に鯰江城などの出城を築いてゆきました。織田信長は六角征伐のため近江に軍を進め、天正元年4月7日には百済寺城に入城して鯰江城の総攻撃を開始しました。寺側は六角氏への恩義を感じ、六角氏をかくまっていた鯰江城に食糧米を送ると共にその婦女子を境内の三百坊に預かり保護しました。信長はこの行為を一揆・謀反であると称し百済寺焼き討ちが断行されました。
信長にとって百済寺焼き討ちによる三つの利点があったと言われています。
1,手っ取り早く六角氏を近江から追放できる。
2,田畑の没収で米、すなわち兵力を増強できる。
3,三百坊の石垣を抜くことで六角氏の再起を防げる。
このような状況下で、安土城構想はこの地で着想され、三百坊の石垣や石仏を安土まで運び出したと言われています。(信長の「石曳」)
百済寺城は「山城」の最後の形、安土城は「平城」の最初の形と言われています。、、、現地案内板より抜粋
当日の行程
ヤマップ3D

行程データ
活動時間:1時間23分
移動距離:2.8Km
高低差:登り132m,下り128m

参考:現地案内板、パンフレット
※滋賀県教育委員会・埋蔵文化財活用ブックレット・近江の山寺1→こちら
【百済寺】
webページは→こちら
住所:〒527-0144 滋賀県東近江市百済寺町323
地図: