城下町の一杯を「麺匠かぐや」で愉しみ→こちら
いよいよ昼の部「敦賀城跡」散策です。
【敦賀城】
羽柴秀吉の家臣、蜂屋頼隆が三層の天守を持つ敦賀城を築城したが病死したため代わりに大谷吉継が5万石で入城、敦賀城を「水城」として大改修。大谷刑部少輔吉継が関ヶ原で自刃した後は徳川方の結城秀康によって代官が派遣されていたが一国一城令で廃城。その後は小浜藩の役所が置かれ、小浜藩主となった酒井氏によって幕末までの240年余の支配が続いた。
敦賀市民にとってNHK大河ドラマで大谷役をした「片岡愛之助」の人気とも相まって、敦賀に在籍した城主大谷刑部少輔吉継に対する愛着はひとしおです。
また大谷刑部少輔吉継は盟友石田三成が徳川家康打倒を訴えて立ち上がると、再三「三成に勝機なし」と説得。しかし三成の堅い決心を知り、熱意に感じ入ると敗戦を覚悟して西軍に加担した。関ヶ原の戦いでは病気が悪化し、失明してもなお輿に乗って軍勢を指揮し奮戦したが敗北自刃した。これが【義の人】たる所以で、全国に吉継(とりわけ女性)ファンが多い。
写真は2019年『関ヶ原戦国ウォーランド』大谷刑部少輔吉継陣中自刃の場面
地理に不案内で時間を節約するため、昼食の「麺匠かぐや」から近い順路で点在する史跡跡やゆかりの場所を回ったので順不同となっています。
【行程図】
「敦賀城中門が移設されたと伝わる来迎寺」→「三の丸趾碑がある西蓮寺」→「三の丸地蔵」→「大谷吉継奉納品が残る八幡神社」→「敦賀城礎石と堀跡が残る真願寺」→「敦賀城跡・代官所跡石碑がある市立敦賀西小学校」の順に車で移動しました。
【敦賀城中門が移設されたと伝わる来迎寺】
来迎寺の山門は敦賀城の中門であったと伝わっている。
一国一城令で破却された際に移築されたようで、同寺には腰高障子13枚も残っているそうです。
境内側から撮影
柱や扉は未だに朽ちていない
金属製の閂部、腐食はあるが今でも動きそうです
名称;時宗 来迎寺
所在地;福井県敦賀市松島町2丁目5-32
駐車場;あり
地図;
【三の丸趾碑がある西蓮寺】
敦賀城の三の丸があったと伝わっている場所に木製の「敦賀城三の丸趾」の碑が建っている。
建っている場所は西蓮寺の境内ではなく隣接した空き地?
現在は、鬱蒼とした木立に立て掛けてありました。
以前はしっかり地中に打ち込んであったようですが。
名称;浄土宗 西蓮寺
所在地;福井県敦賀市三島町1-3-6
駐車場;あり
地図;
【三の丸地蔵】
名前からこの辺りまで敦賀城の三の丸があったのかと推測させる。
現在は移転しています!!
元の場所には祠の基礎をコンクリートで固めた真新しい痕跡
移転先は路地を200mほど行った「霊山院」の境内で、祠が祀られています。
祠自体は新しく近所の方のお話では「個人で建立したものではないか」との事。
移転した理由については不明です。
名称;霊山院
所在地;福井県敦賀市三島町2丁目15-9
駐車場;不明
地図;
【大谷刑部少輔吉継奉納品が残る八幡神社】
弘治2年(1556)に朝倉義景が本殿を造営し、疋田城主の疋田景継が、同3年5月28日に阿弥陀仏像を奉納し、年々御供米50石を寄進されました。
元亀元年(1570)に織田信長と朝倉義景とが戦った時に罹災したが、天正12年(1584)に敦賀城主大谷刑部少輔吉隆が石燈籠一基を献納。
天正16年(1588)8月羽柴出羽守勝俊が幣帛を奉り、翌17年に大谷吉隆が太刀一口を奉納。、、、福井県神社庁「八幡神社」より抜粋
敦賀城主大谷刑部少輔吉隆が石燈籠一基を献納
拝殿奥の三基並んだ稲荷の祠前にあります。脇には近年建てられた「奉納 大谷刑部少輔吉継」石碑がある。
さらに石造りの鳥居も大谷刑部少輔吉継が奉納したと伝わっている。
(背後にあるのは歴史資料館)
また本殿に掲げてある木彫りの龍の額もそうです。
写真は失念しましたが織田信長が奉納した「太刀」一口も確認されていると本殿入り口の案内板に書いてあったと記憶しています。
ぜひ拝観してみたいものですね。
名称;県社 八幡神社
所在地; 福井県敦賀市三島6
駐車場;あり
地図;
【敦賀城礎石と堀跡が残る真願寺】
大谷刑部少輔吉継、五万石敦賀城の跡
耐震化で建て替えられた真新しい本堂前に「敦賀城礎石」と「大谷吉継 敦賀城跡の石碑」が建っています。
すっかりリニュアルされた山門ですが、以前は「寺名の石碑」があった場所に「大谷吉継 敦賀城跡の石碑」があって、今は本堂の前に移築されたようです。
寺の横にはには堀の跡と思われる水路が今も残る。
大谷吉継が関ヶ原の戦いで石田三成と共に戦い敗れ自刃したのちは、越前北庄城主となっていた家康の次男「結城秀康」が代官を派遣していたが一国一城令により敦賀城は廃城となった。
現在でも真願寺周辺には「結城町」という地名が残り、往時を忍ばせている。
堀跡と思われる水路は敦賀港に繋がる運河に流れ込んでいる。
大谷刑部が敦賀城を「水城」に改築したことも何となくわかる。
「ほんの5万石とはいえ、敦賀は商人が力を持つ土地で、秀吉が東北との流通拠点として整備を促進させた時期。領主には目配り、気配りが求められた」福井新聞記事より引用
なので腹心の部下である「蜂屋頼隆」から「大谷刑部」へと敦賀支配を繋いだと考えられる。
名称;真宗大谷派 真願寺
所在地; 福井県敦賀市結城町14-1
駐車場;あり
地図;
【敦賀城跡・代官所跡石碑がある市立敦賀西小学校】
かつてこの地にあった「敦賀城」やその後の小浜藩による「敦賀町奉行所・代官所」、さらには明治維新で誕生した「敦賀県の県庁」が所在していたことを広く市民に知ってもらうことを目的に、平成九年(1997)11月「敦賀みなとライオンズクラブ」が結成20年を記念して建立したものです。
平成22年(2010)敦賀市教委は3月19日、同市結城町の敦賀西小校庭から戦国武将・大谷吉継が拡張、整備したとの伝承がある敦賀城の建物の一部とみられる礎石が見つかった、と発表した。敦賀城郭の痕跡が発見されたのは初めて。礎石が見つかった同じ土層からは複数の瓦が出土していることから、当時勢力のあった武士たちが出入りしていた建物の礎石とみられている。、、、2010年3月20日福井新聞掲載記事より引用
敦賀城はどこにあったか詳しく解明されておらず謎に包まれた城。
今回訪れたゆかりの場所が、今後明確に証明される日が来ることを期待します。
名称;敦賀市立敦賀西小学校付近
所在地;〒914-0064 福井県敦賀市結城町8−6
駐車場;
地図;
【敦賀城】
《豊臣政権 大谷刑部少輔吉継の城》
名称(別名);
所在地;福井県敦賀市
城地種類;平城
築城年代;天正11年(1583)
築城者;蜂屋頼隆
主な城主;蜂屋氏、大谷氏、松平氏
文化財区分;なし
近年の主な復元等;中門移築現存
天守の現状、形態;なし
※出典、、、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
地図;
最新の画像もっと見る
最近の「城歩き」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
- 城歩き(354)
- 紅葉・桜・花など(109)
- ネイチャー・旅行・まつり(132)
- 映画・コンサート・博物館(56)
- 日記(68)
- 富山県東部(富山市周辺)のラーメン(685)
- 富山県西部(高岡市周辺)のラーメン(353)
- 富山の中華屋さん、食堂系、呑み屋さんのラーメン(100)
- 貪瞋癡(135)
- 石川県(金沢・野々市他)のラーメン(979)
- 石川県(加賀・小松・白山市他)のラーメン(106)
- 石川県(能登地方)のラーメン(92)
- 石川の中華屋さん・食堂系・呑み屋さん(144)
- 石川ビブグルマン神樂・のぼる・TERRA(356)
- 福井市内のラーメン(178)
- 福井嶺南・敦賀・武生・鯖江・坂井・大野他(122)
- 滋賀・京都・兵庫・大阪のラーメン(57)
- 新潟・長野・山梨のラーメン(77)
- 愛知・岐阜・三重のラーメン(69)
- その他の地域(5)
- イベントラーメン(83)
- アジア麺フォー・蕎麦・うどん・パスタ・焼きそば(58)
- まとめとカレンダー(118)
- メシコレ掲載(34)
- 自宅らーめん(5)
- 思い出のランチ(62)
- グルメ(31)
- 親和倶楽部ラーメン部会(56)
- 参考文献・資料(21)
- 家族・友人(65)
- インポート(0)
バックナンバー
2007年
2000年
人気記事