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あみの3ブログ

035 金沢城@石川県金沢市 令和元年(2019)10月21日 

前回のエントリーは→こちら

ラーメン食べ歩きの腹ごなしにお城を巡るというお城ファンにとって不埒な行為ですが、訪ねるとそれなりに深く知りたくなり知ると楽しくなります。
知識が全く無いので先ずは訪ねた先の資料を集め、今後の活動に活かせればいいなと思いに日記代わりに記録していきたいと思います。

北陸・富山に住む者として一番身近なお城は「富山城」
一番身近な大名は高岡開町の祖「前田利長」
その本家本元がお隣の石川県金沢市。兼六園を庭園として有する加賀百万石の「金沢城」であり、「加賀藩主前田氏」です。
まずは身近な存在であるそこらを中心に歩いていきたいと思います。


【復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓が優美な姿を見せる】
金沢城は天正8年(1580)加賀一向一揆の拠点であった金沢御堂を織田信長の佐久間盛政が陥落させ、そこに城を築いたことに始まる。天正11年(1583)前田利家が加賀に入封して、犀川と浅野川にはさまれた小立野台地上の金沢城を加賀支配の拠点とすべく近世城郭へと改修した。基本的な縄張りを行ったのはキリシタン大名の高山右近と言われる。
天守は慶長7年(1602)落雷により焼失。残念ながらその姿については記録が無く不明である。名城の姿を壮美にするために取り入れたといわれる鉛瓦や海鼠壁、唐破風付出窓や二重、三重の多聞櫓なども、加賀百万石の居城に相応しい格調の高さと美しさを見せている。


今回は石垣と復元された建造物を中心に写真で構成しました。(2019年10月21日撮影)
出典、、、金沢城公園webページ→こちら

玉泉院丸口より入城、眼下に
【玉泉院庭園】
二代藩主利常により寛永11年(1634)作庭開始。玉泉院丸にあって、兼六園とは別の藩主の内庭としての意味がある。池泉回遊式庭園、滝と色紙短冊積み石垣が見所。
明治5年に廃絶され面積は失われたが平成20年から5年間かけ発掘、資料を検討し設計のうえ平成25年3月完成。公開。



薪の丸東側の石垣、いもり坂と薪の丸を通って二の丸広場より
【三十間長屋(重文)】出典、、、近代文化遺産見学所→こちら

日本のお城では、倉庫と防壁を兼ねた細長い建物を「多聞櫓(たもんやぐら)」と言いますが、金沢城ではそれを「長屋(ながや)」と呼びます。三十間長屋はその長さから名付けられました。
元々この場所には、江戸時代初期に櫓を持つ三十間長屋が建てられていましたが、1759年に焼失し、しばらくは石の土台だけが残されていました。現在残るこの長屋は、幕末の1858年に再建されたものです。長さは三十間よりも若干短い、26.5間(48.2m)となっています。
建物は高い石垣の上の縁に立っており、入り口は上の画像のように天守の方に向いていますが、そちらは実は裏側で、


石垣側の表側が、城下に睨みを効かせていました。



二の丸広場から見る
【五十間長屋】
 平成13年7月に完成した、延べ床面積1894.23平方mの復元建物で、石川門や三十間長屋と同様、鉛瓦や海鼠塀が外観の特徴です。
 明治以降に建てられた木造城郭建築物としては全国再最大規模で、大径木の事前調達や土台石垣の解体、修築を含め、平成10年3月から実に3年4ヶ月をかけて造られました。
 3層3階の菱櫓と橋爪門続櫓を2層2階の五十間長屋でつないでいます。これらの建物は、戦の際に二ノ丸を守るための施設で、石落しや鉄砲狭間となる格子窓、白塗漆喰壁や海鼠壁で防火構造になっている外壁がその強固さを示しています。
 菱櫓は大手と搦手を見張る物見櫓、橋爪門続櫓は二ノ丸大手の橋爪門枡形を見張る物見櫓、五十間長屋は武器等の倉庫でした。
 復元にあたっては、伝統的な木造軸組工法に加え、階段昇降機やエレベーターなどを設置し、二階まではバリアフリーとなっています。


五十間長屋入館
入り口は【菱櫓】


菱櫓内部は望楼がある、急な階段で2層目3層目に登る
高さ11.7mの石垣の上に建築されており、3階建で、約17mあります。「櫓」とは「矢の倉」とも云われ、武器の倉庫の意味ですが、ここ菱櫓は主に周辺を見張る役割を担っていました。

菱櫓という名前の通り、建物の平面は菱形で、四隅の内角は夫々80度と100度になっています。建物が菱形の場合、柱も菱形です。
この部屋の中に立っている4本の長さ14m、太さ33cmの桧の「通し柱」を始め、使われている凡そ100本の柱も菱形で、これらを使っての建築には大変な技術を要します。


展望する空間は思ったより狭い


菱櫓望楼より続櫓二の丸方面
建物の屋根は普通の瓦ではなく、鉛の板で葺いてあります。まず、木で屋根を作り、その上に、厚さ1.8mmの鉛板を張り付けて造ります。この鉛瓦の鉛には、少量(0.06~0.08%)の銅を添加してあります。銅を添加することにより、強さや硬さ、それに酸に腐食されないための耐酸性を高めます。なぜ、鉛瓦を使うようになったのかは分りませんが、江戸城にも使われており、江戸時代の古文書には、「鉛瓦を使用したのは名城の姿を壮美にするため」と書かれています。


新丸広場方面


【五十間長屋内部構造】
武器等を保管する倉庫と城壁の機能とを兼ね備えた2階建ての建物です。ここには天井板が貼ってないので、大きな松の木の梁など、その木組みをそのままご覧いただけます。木と木は、鉄のクギやボルトで留めるのではなく、木材に「仕口」や「継ぎ手」、或いは「ほぞ」や「ほぞ穴」と呼ばれる凹凸を造って組み合わせ、 木で作ったクサビを打って外れないようにしてあります。 今回復元された一連の建物は、日本古来の柱と梁・桁を持つ「木造軸組工法」と呼ばれる方法で建てられ、それに、土壁と貫(ぬき)という柱と柱を繋ぐ横木を組み合わせた「耐力壁」によって構成され、 地震に対してもきわめて丈夫な構造になっています。

城郭は、柱の間隔も狭く、屋根や床も厚い板を使い、必要以上の強度を保つように造られているので、普通の民家の何倍もの木材を消費する、いわば密度の濃い建物と云えます。
 江戸時代、加賀藩では、杉やヒノキ、ケヤキ等、重要な7種の樹木を保護するため、伐採を禁止した「七木(しちぼく)の制」という条例を敷いていました。
 今回の工事では全体で5,330石(一般的な住宅で約40~50戸分に相当する)という膨大な木材が使われましたが、能登ヒバや杉など、その約7割が石川県産材でまかなわれています。


【続櫓】には吹き抜けの荷揚げ場があった、現在はEVが設置されている
「橋爪門」を見下ろす位置にあり、三の丸から「橋爪橋」を渡り、「橋爪門」を通って、 二の丸へ向かう人々を監視するための重要な櫓で、「橋爪櫓」とも呼ばれていました。


続櫓からの展望、菱櫓方向
五十間長屋の両側にたくさんの窓がありますが、この窓にもちょっとした工夫が施されています。二の丸側は1階と2階と同じ場所にあります。つまり、二の丸から見ると、縦に並んでいますが、三の丸側は、二の丸側と違って、1階と2階が互い違いにずらして造ってあります。この違いは、三の丸側は「戦」を想定して、死角ができないように交互にずらせて造ってあり、二の丸側は美観を考えてデザインされています。


真下の内堀を望む




【鶴丸倉庫(重文)】出典、、、近代文化遺産見学所→こちら
この土蔵は江戸時代後期、1848年に武具倉庫として建てられました。天井裏を土壁で塗り込め、その上に瓦を葺く鞘屋根という構造になっています。幅、奥行きが15m x 22mで、全国のお城の中にある土蔵の中でも最大級の規模です。明治期以降、陸軍によって被服倉庫として使われ、その頃から「鶴丸倉庫」と呼ばれるようになりました。
平成20年(2008年)に国の重要文化財に指定されています。


側面の窓


鶴丸方向、本丸の石垣



続櫓と【橋爪門】
橋爪門の特徴と整備の概要
橋爪門は、寛永8年(1631)の大火後に整備された二の丸の正門です。高麗門形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門形式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇ります。「石川門」、「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられ、また、二の門の床には二の丸御殿と同じ敷き方で戸室石が敷かれるなど格式の高い門でした。文化五年(1808)の二の丸火災で焼失した後、文化六年(1809)に再建された姿を復元しています。
今回の整備では、平成13年に復元された「一の門」に続く、「二の門」と「枡形二重塀」を復元することとし、平成24年6月に工事着工、平成27年3月に完成しました。


橋爪門の枡形


内堀にかかる橋爪門橋


内堀と菱櫓五十間長屋、三の丸方向から望む
菱櫓と五十間長屋には、堀に面して「出し」と呼ばれる出窓が造ってあります。出しの床は開くようになっており、床を開けると真下に堀や石垣が見え、もし敵が侵入して堀を渡り、石垣に取り付いて来た時に、敵を目がけて石を落としたりするためのもので「石落し(いしおとし)」といわれています。


三の丸広場(石川門方向)から望む五十間長屋



五十間長屋方向(三の丸広場)から望む【河北門】
「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。「石川門(重要文化財)」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれていますが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772)に再建されました。
 再建された河北門は、明治15年頃に無くなるまで金沢城の実質的な正門としての役割を果たしていました。
金沢城の実質的な正門である「河北門」が、約130年ぶりに往時の姿でよみがえりました。


石川門方向から見た河北門
約130年ぶりに甦った河北門は平成19年11月に着工し、平成22年4月まで約2年半の歳月をかけて完成しました。
 復元にあたっては、現存する絵図、古写真、文献及び埋蔵文化財の調査結果を踏まえて、史実を尊重し、日本古来の伝統工法によって、戸室石による石垣積み、漆喰仕上による白壁、軸組をはじめとする木工事及び屋根鉛瓦葺きなど、構造・仕上部材の細部にわたり石川の匠の技が発揮されています。


河北門二階入り口と後方に菱櫓
河北門は高麗門である「一の門」、櫓門である「ニの門」、「枡形土堀」及び続櫓の機能を持つ
「ニラミ櫓台」により防御機能を持った構成となっています。
 


【石川門(重文)】
石川門は搦手(からめて)門、つまり金沢城の裏門です。裏門でありながら、特に堅固に造ってあるのは 小立野方面からの攻撃に備えたもので、ここが金沢城の一番の弱点で、攻撃されやすい場所だと考えられていたからです。 石川門の最大の櫓(石川櫓)も菱形になっており、石落しも設けられています。


石川門、三の丸側


石川門、枡形側


【兼六園側、石川橋から見た石川門】出典、、、近代文化遺産見学所→こちら
現在の石川門は金沢城公園の表門として使われていますが、江戸時代までは搦手(からめて)門、つまり裏門として機能していました。前田利家が戦国時代に入城して以降に建てられたものと思われ、石川郡の方を向いていたので石川門の名が付けられました。また金沢城の中でも重要な門として、河北門、橋爪門とともに「三御門」と呼ばれました。江戸時代の中頃、1759年に大火事で全焼し、1788年に再建。その後は幾度もの解体修理を経て、今に至っています。形式は重厚な枡形(ますがた)門で、表門、櫓(やぐら)門、多聞櫓(たもんやぐら)、渡櫓、菱櫓、太鼓塀が組み合わさってできています。
昭和10年(1935年)に旧法により国宝に指定(現行法では重要文化財指定相当)され、昭和25年(1950年)に現行法で改めて国の重要文化財に指定されました。重要文化財指定書には石川門の構成要素として、表門、表門北方太鼓塀、表門南方太鼓塀、櫓門、続櫓、櫓、附属左方太鼓塀、附属右方太鼓塀の8棟が記載されています。



石川橋から見たお堀通り東の丸辰巳櫓方向
【百間堀】は金沢城でもっとも幅が広く規模の大きい外堀でした。
現在、百間堀は埋め立てられて道路になっています。兼六園と金沢城石川門の間に走っている道路なので、バスで訪問する際にはまさに百間堀跡を走ってると思います。
当時の百間堀には土橋が架かっていました。


石川橋から見たお堀通り、百万石通り方向


石川橋兼六園側から石川門方向


お堀通りから石川橋を望む
【百間堀】 出典、、、攻城団、金沢城ガイド→こちら
 ここから見える金沢城と兼六園の間は、かつて百間堀のあったところです。
 金沢御堂(かなざわみどう)陥落(かんらく)後、佐久間盛政(さくまもりまさ)の時代(天正8〜11年、1580〜1583)につくられ、前田利家の入城後、その子利長により改修されたと言われています。小立野台と金沢城とを分断する、防衛上重要な水堀で、長さ約270m、幅約68.4m、水深約2.4mあり、その大きさから百間堀の呼び名がついたようです。明治43〜44年(1910〜1911)の道路工事により、現在のような姿となりました。
 なお、別名蓮池堀とも呼ばれ、その由来については、もと蓮が群生する沼地であったためとも、金沢御堂の時代、極楽浄土に見立てた地名の名残とも言われています。
百間堀の石垣にはたくさんの刻印が見つかりますので、ゆっくり歩いてみるのもいいでしょう。


本丸高石垣



お堀通りから【いもり堀】
かつての「いもり堀」は、金沢城の南西側を囲む外堀で、明治40年(1907)、旧陸軍により上部の削平と埋め立てが行われ、その跡地は、陸軍用地を経て、戦後はテニスコートとして利用されました。
 江戸時代の堀は、幅が広いところで約40m、深さが10m以上あり、水を湛えていました。斜面は土羽で、比較的緩やかな勾配で造られており、南東端には鯉喉櫓台の石垣がありました。





【金沢城】
《多聞が巡り隅櫓並び建つ加賀百万石の大城》

名称(別名);
所在地;金沢市丸の内
城地種類;平山城
築城年代;天正8年(1580)、天正11年(1583)
築城者;佐久間盛政、前田利家
主な城主;佐久間氏、前田氏
文化財区分;平成20年金沢城址として国史跡
近年の主な復元等;平成13年に菱櫓、五十軒長屋、橋爪門続櫓、橋爪一の門、
平成22年に河北門、いもり塀を復元、平成27年に橋爪二の門を復元、玉泉院丸庭園を整備
天守の現状、形態;
追記:兼六園は金沢城の外郭庭園として五代藩主綱紀が作庭、以後さらに整備され江戸時代を代表する大名庭園で、
水戸の偕楽園、岡山の後楽園と並んで「日本三名園」のひとつに数えられている
地図;



※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
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