天正三年(1575)織田信長軍が越前の一向一揆を平定した後、佐々成征が築いた平城。
この城は味真野の扇状台地末端に野々宮廃寺跡の一部を取り込んで造られたもので、本丸、二の丸、三の丸と隅櫓の構造が良く残されている。 本丸の規模は東西45m、南北50m高さは水面から7mあり、四方に10~30m幅の堀が巡らされていた。
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なお、北西の乾櫓から出土した一揆成敗のありさまを刻んだ文字瓦は有名である。この瓦は現在、越前の里郷土博物館に展示してある。
、、、越前市教育委員会、観光資源保護財団
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【概要】
鞍谷川によってできた味真野の扇状地の丘陵に、野々宮廃寺跡の一部を取り込んで築城された平城である。本丸、土塁、堀跡、城門跡、隅櫓跡などが残る。 1932年(昭和7年)には城跡より前田利家による一向一揆勢の処刑の様子が記されているという瓦の破片が出土している。
【歴史】
越前国で起こった一向一揆を収めた織田信長が、府中10万石あまりを府中三人衆に治めさせた。命を受け、三人衆の佐々成政が1575年に築城を開始したが、1581年に成政は越中国に移封され、6年余りで廃城となった。城が未完であった可能性も高い。
※出典、、、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【見どころ】
信長の命で北陸攻めをしていた柴田勝家の与力、前田利家・佐々成征・不破光治(府中三人衆)のそれぞれの城を歩く旅。
他の城は市内にあったため開発で原型を留めないが、こちらは郊外にあって遺構がよく保存されている。
また道路が整備されており向かいにはバス停もある。
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石碑や案内板も整備され、おりしも除草作業した直後で散策が非常に快適であった。
空堀
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土塁
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本丸土塁と空堀
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本丸
石段を登ると忠魂碑があり、削平部が広がる
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本丸から東方、府中方面の展望
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二の丸
本丸下に広がる削平部
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巨石を積んだ虎口は圧巻
本丸から
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切堀側から見た虎口
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巨大で平たい天井岩
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虎口の巨石遺構を観れたことは今回の一番の収穫。
近年耐震補強がされたようだが、巨石の下をくぐる際は少し緊張した(;^ω^)
二の丸、三の丸、隅櫓などへの案内表示や、それぞれの曲輪で説明板などがあればさらに良かったと感じた。
今回の府中三人衆の城と先ごろ訪問した柴田勝家の北庄城がつながった旅であった。
そしで信長の北陸方面軍司令官だった柴田氏は格下だが才気あふれる秀吉に滅ぼされ、柴田氏の与力だった不破は改易、佐々は富山を与えられながらも秀吉に反目して攻められ、最終的に三人衆の中で前田氏だけが生き残った格好。 信長・秀吉・家康と時の権力者にも一目置かれるオーラと自己防衛能力に秀でた戦国武将だったことがわかる。
富山の人間として富山支配の佐々が攻められるのは忍びないが、加賀・能登・越中の国主として盤石の地位を固め、以降400年間連綿として歴史を紡いできた前田氏に思いを馳せたい。
訪問記録は逆になってしまったが、先に訪れた七尾城や小丸山城、そして金沢城は前田利家が。
さらに松任城、守山城、富山城、そして第二代藩主として入った金沢城は嫡男利長が。
その出発点でもある府中の旅でした。
【小丸城】
《》
名称(別名);
所在地;〒915-0026 福井県越前市五分市町28
城地種類;平城
築城年代;天正3年(1575)
築城者;佐々成征
主な城主;佐々成征
文化財区分;福井県指定史跡
近年の主な復元等;本丸、二の丸、隅櫓
天守の現状、形態;不明
地図;
※出典、、、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』