男鬼入谷城(おおりにゅうだにじょう)は、
尾根上の3つの頂部と尾根筋を利用して築かれています。
北東の曲輪の北東側には大規模な三重の堀を設けて高取山山頂に伸びる尾根を切断し、竪堀や土塁、そして石積みを加えています。一方、南東側に伸びる尾根にも曲輪群を配置し、土塁や喰い違い竪堀、畝状竪堀群を加えています。
中央の曲輪は規模が小さく南東側に小さい郭群を階段状に設けています。先端部の二重堀切は大規模なものです。中央部の曲輪から西に伸びる尾根にも、竪堀に繋がる規模の大きな堀切を設けて尾根を完全に断ち切っています。
西側の郭は南西側にのみ土塁が築かれています。南に伸びる小さな尾根には堀切を伴う小曲輪群が設けられていますが、最も近い小曲輪は土塁が巡り石積みで補強されています。
この様に見てくると、男鬼入谷城が北東から南方面に対して防御を厚くしているのに対して、北から西側にはほとんどそうした施設が確認されません。北東から南方面の敵に対する備えの城であったことが伺えます。また男鬼入谷城の多くの堀切は岩盤を掘削しており、要所に石積みを用いるなど、高い土木技術が施されていました。人の寄り付かない深山を選び、そこに高い土木技術を用いて城を築いた人物は、いったい誰だったのでしょうか。
一般に近江の戦国時代は、南の六角氏と、北の京極氏・浅井氏との対立の時代として語られます。
浅井氏が京極氏の家督争いに乗じて台頭し、やがて湖北を支配するようになるのが天文年間(1532~1553)の頃。しかしこの頃、浅井氏の湖北支配は盤石なものではなく、京極氏の勢力も侮れないものがありました。
天文19年から22年(1550~53)にかけて、京極高広は、六角氏と抗争を繰り広げます。注目されるのは、この抗争で、高広軍の南下が常に霊仙山系を越え芹川に沿って平野を攻めるという、山越えルートである点です。浅井氏によって平地を追われた京極高広は、坂田郡の山間部で勢力を維持していたと推定されており、抗争で立て籠もる拠点として男鬼入谷城賀築かれたのではないかと考えられています。、、、彦根市教育委員会(私の町の戦国「男鬼入谷城-深山に築かれた謎の城-より)
場所は滋賀県彦根市男鬼町から多賀町甲頭倉にかけての標高685mの高所に位置しており、周囲は見渡す限りの山の中です。
名神高速彦根IC下車、国道8号線を米原方面に進み、佐和山(城址)を左手に見ながら進むと「鳥居本町南交差点」がありますのでここを右折し県道239号線に入ります。仏生寺集落を抜けしばらくすると左側に「林道滝谷武奈線」の分岐があります。そこから約5.6km、舗装されていますが一部に細沿い区間があったりする山岳林道をひたすら男鬼方面に向けて進みます。
林道入り口
林道
途中分岐がありますが、標識がありますので見逃さないように注意します。
林道から男鬼に向かう分岐では、Y字路を右方向斜め下に向かう市道ですが、市道の方が狭くて崖が迫ってくる細い道でした。
分岐
市道
その先にあるT字路を右折して500m程先の右手に「比婆神社鳥居」があります。
T字路
鳥居
この鳥居をくぐって更に進みますが、この道は頂上にある比婆神社本殿に向かう参道です。コンクリートで舗装されていますが、車1台分の幅しかなく、曲がりくねってガードレールもない崖が続く参道なので要注意です。
参道
参道ヘアピンカーブ
約2kmほど登った先に「比婆神社駐車場」の広場があります。車はここに停めてその先にある「本殿」に向かって少し登ります。
本殿手前にある門
本殿
本殿に向かう灯篭の左側、細い登り道が「男鬼入谷城」への登城道です。
約400mほど進んだところが標高668m比婆山頂上です。
北東側に冠雪した「霊仙」
その手前に「高取山」
男鬼入谷城は高取山の手前右方向でしょうか。
やや下り始めたところで分岐があります。
大きな岩に「⇐男鬼入谷城址20分」のプレートが取り付けられています。
分岐で左に曲がり尾根を下って行きます。
小さなアップダウンを繰り返しますが、最大の高低差は約40mほどあるので帰りの登りはきついです。
目の前に小高い丘のような切岸が現れました。
このロープを使ってよじ登ると、いよいよ城郭に到着です。
ここで縄張図で当日の行程を説明します。
資料は自分が滋賀の山城巡りのバイブルとしている
「近江の山城を歩く」中井均先生編より(ブログ管理者加筆、方位修正)
これに携帯アプリ「ヤマップ」の行動軌跡を重ねるとよくわかります。
西郭の北側に彫り込まれた竪堀
西(ⅲ)郭
西郭と中郭を隔てる巨大な堀切(B)
堀切断面南側
同北側
北側斜面へは竪堀となって落とし込まれています
西郭から中郭への段郭
中郭切岸
中郭(Ⅱ郭)
段郭と堀切
北側階段状曲輪群
北東郭(Ⅰ郭)
北東側の土塁
城址看板
主郭からの眺望(南方向)
北東郭(Ⅰ郭)から北東方向つまり、高取山山頂に向かう尾根に彫り込まれた
三重堀切
落差のある急斜面なのでロープが設置されています
堀切断面
同
一条目堀底から北東郭(Ⅰ郭)切岸を見上げる
三重堀切、二条目・三条目
同断面
北東郭(Ⅰ郭)から南に伸びる尾根に築かれた段郭
看板があります
南郭
土塁
物見櫓台的な高まり
南尾根段郭
横堀とその下に畝状竪堀群
なごりの紅葉
西側に広がる緩やかな谷あい
位置的には北東郭南尾根と、中郭南尾根に挟まれた谷あい
広くて緩やかな形状なので、ここにも大勢の人が収容できそうです。
【重要】
「近江の山城を歩く」の中で紹介されている縄張り図は実際の方位とは180度ズレています。
注目したいのは北を示す矢印 (北を上にして表示)
それだけなら誤植かと思うのですが、本文も方位のズレた縄張り図を基に説明されています。
例えば『Ⅱ郭西面直下の三重堀切A』とか『北尾根上に腰曲輪が三段設けられている』などの表現がそうです。
【番外編】
方位のズレた縄張り図を手にどんどん北東方向へ進んでしまいました。
高取山西麓
おかげで高取山山頂まで行ってしまいましたよ。
この辺りにゆったりした緩傾斜地が広がり、何となく曲輪にも見えました。
逆に言えば、なぜここに城を築かなかったのかな?
岩盤の露出も多いです
左右の岩に挟まれた竪堀にも見える
方位のズレた縄張り図では西郭南尾根、中郭南尾根と思われる方向に進んではみましたが、遺構らしきものを確認することができませんでした。帰路にもう一度足を踏み入れようと思いましたが、体力と時間が限界に迫り危険を回避する意味で帰路につきました。
初心者の自分は100%信じ込んで、これを頼りに行動しているので危うく危険な山中に迷い込むところでした💦
携帯の「コンパス」アプリと「ヤマップ」アプリでなんとか帰還できましたが、難易度の高い山城に向かう際は複数の資料で予習することが重要ですね。
今回行き着くことができなかった、西郭の南尾根、中郭の南尾根を是非リベンジしたいです。
【男鬼入谷城】
《おおりにゅだにじょう》
名称(別名);高取城、男鬼城
所在地;滋賀県彦根市男鬼町、多賀町甲頭倉
城地種類;山城
標高/比高;685m/400m
築城年代;不明(戦国期?)
廃城年代;
築城者;不明(京極氏?)
主な改修者;
主な城主;不明(京極氏?)
文化財区分;なし
主な遺構;石垣,土塁,郭,堀
近年の主な復元等;
地図;
北東の曲輪の北東側には大規模な三重の堀を設けて高取山山頂に伸びる尾根を切断し、竪堀や土塁、そして石積みを加えています。一方、南東側に伸びる尾根にも曲輪群を配置し、土塁や喰い違い竪堀、畝状竪堀群を加えています。
中央の曲輪は規模が小さく南東側に小さい郭群を階段状に設けています。先端部の二重堀切は大規模なものです。中央部の曲輪から西に伸びる尾根にも、竪堀に繋がる規模の大きな堀切を設けて尾根を完全に断ち切っています。
西側の郭は南西側にのみ土塁が築かれています。南に伸びる小さな尾根には堀切を伴う小曲輪群が設けられていますが、最も近い小曲輪は土塁が巡り石積みで補強されています。
この様に見てくると、男鬼入谷城が北東から南方面に対して防御を厚くしているのに対して、北から西側にはほとんどそうした施設が確認されません。北東から南方面の敵に対する備えの城であったことが伺えます。また男鬼入谷城の多くの堀切は岩盤を掘削しており、要所に石積みを用いるなど、高い土木技術が施されていました。人の寄り付かない深山を選び、そこに高い土木技術を用いて城を築いた人物は、いったい誰だったのでしょうか。
一般に近江の戦国時代は、南の六角氏と、北の京極氏・浅井氏との対立の時代として語られます。
浅井氏が京極氏の家督争いに乗じて台頭し、やがて湖北を支配するようになるのが天文年間(1532~1553)の頃。しかしこの頃、浅井氏の湖北支配は盤石なものではなく、京極氏の勢力も侮れないものがありました。
天文19年から22年(1550~53)にかけて、京極高広は、六角氏と抗争を繰り広げます。注目されるのは、この抗争で、高広軍の南下が常に霊仙山系を越え芹川に沿って平野を攻めるという、山越えルートである点です。浅井氏によって平地を追われた京極高広は、坂田郡の山間部で勢力を維持していたと推定されており、抗争で立て籠もる拠点として男鬼入谷城賀築かれたのではないかと考えられています。、、、彦根市教育委員会(私の町の戦国「男鬼入谷城-深山に築かれた謎の城-より)
場所は滋賀県彦根市男鬼町から多賀町甲頭倉にかけての標高685mの高所に位置しており、周囲は見渡す限りの山の中です。
名神高速彦根IC下車、国道8号線を米原方面に進み、佐和山(城址)を左手に見ながら進むと「鳥居本町南交差点」がありますのでここを右折し県道239号線に入ります。仏生寺集落を抜けしばらくすると左側に「林道滝谷武奈線」の分岐があります。そこから約5.6km、舗装されていますが一部に細沿い区間があったりする山岳林道をひたすら男鬼方面に向けて進みます。
林道入り口
林道
途中分岐がありますが、標識がありますので見逃さないように注意します。
林道から男鬼に向かう分岐では、Y字路を右方向斜め下に向かう市道ですが、市道の方が狭くて崖が迫ってくる細い道でした。
分岐
市道
その先にあるT字路を右折して500m程先の右手に「比婆神社鳥居」があります。
T字路
鳥居
この鳥居をくぐって更に進みますが、この道は頂上にある比婆神社本殿に向かう参道です。コンクリートで舗装されていますが、車1台分の幅しかなく、曲がりくねってガードレールもない崖が続く参道なので要注意です。
参道
参道ヘアピンカーブ
約2kmほど登った先に「比婆神社駐車場」の広場があります。車はここに停めてその先にある「本殿」に向かって少し登ります。
本殿手前にある門
本殿
本殿に向かう灯篭の左側、細い登り道が「男鬼入谷城」への登城道です。
約400mほど進んだところが標高668m比婆山頂上です。
北東側に冠雪した「霊仙」
その手前に「高取山」
男鬼入谷城は高取山の手前右方向でしょうか。
やや下り始めたところで分岐があります。
大きな岩に「⇐男鬼入谷城址20分」のプレートが取り付けられています。
分岐で左に曲がり尾根を下って行きます。
小さなアップダウンを繰り返しますが、最大の高低差は約40mほどあるので帰りの登りはきついです。
目の前に小高い丘のような切岸が現れました。
このロープを使ってよじ登ると、いよいよ城郭に到着です。
ここで縄張図で当日の行程を説明します。
資料は自分が滋賀の山城巡りのバイブルとしている
「近江の山城を歩く」中井均先生編より(ブログ管理者加筆、方位修正)
これに携帯アプリ「ヤマップ」の行動軌跡を重ねるとよくわかります。
西郭の北側に彫り込まれた竪堀
西(ⅲ)郭
西郭と中郭を隔てる巨大な堀切(B)
堀切断面南側
同北側
北側斜面へは竪堀となって落とし込まれています
西郭から中郭への段郭
中郭切岸
中郭(Ⅱ郭)
段郭と堀切
北側階段状曲輪群
北東郭(Ⅰ郭)
北東側の土塁
城址看板
主郭からの眺望(南方向)
北東郭(Ⅰ郭)から北東方向つまり、高取山山頂に向かう尾根に彫り込まれた
三重堀切
落差のある急斜面なのでロープが設置されています
堀切断面
同
一条目堀底から北東郭(Ⅰ郭)切岸を見上げる
三重堀切、二条目・三条目
同断面
北東郭(Ⅰ郭)から南に伸びる尾根に築かれた段郭
看板があります
南郭
土塁
物見櫓台的な高まり
南尾根段郭
横堀とその下に畝状竪堀群
なごりの紅葉
西側に広がる緩やかな谷あい
位置的には北東郭南尾根と、中郭南尾根に挟まれた谷あい
広くて緩やかな形状なので、ここにも大勢の人が収容できそうです。
【重要】
「近江の山城を歩く」の中で紹介されている縄張り図は実際の方位とは180度ズレています。
注目したいのは北を示す矢印 (北を上にして表示)
それだけなら誤植かと思うのですが、本文も方位のズレた縄張り図を基に説明されています。
例えば『Ⅱ郭西面直下の三重堀切A』とか『北尾根上に腰曲輪が三段設けられている』などの表現がそうです。
【番外編】
方位のズレた縄張り図を手にどんどん北東方向へ進んでしまいました。
高取山西麓
おかげで高取山山頂まで行ってしまいましたよ。
この辺りにゆったりした緩傾斜地が広がり、何となく曲輪にも見えました。
逆に言えば、なぜここに城を築かなかったのかな?
岩盤の露出も多いです
左右の岩に挟まれた竪堀にも見える
方位のズレた縄張り図では西郭南尾根、中郭南尾根と思われる方向に進んではみましたが、遺構らしきものを確認することができませんでした。帰路にもう一度足を踏み入れようと思いましたが、体力と時間が限界に迫り危険を回避する意味で帰路につきました。
初心者の自分は100%信じ込んで、これを頼りに行動しているので危うく危険な山中に迷い込むところでした💦
携帯の「コンパス」アプリと「ヤマップ」アプリでなんとか帰還できましたが、難易度の高い山城に向かう際は複数の資料で予習することが重要ですね。
今回行き着くことができなかった、西郭の南尾根、中郭の南尾根を是非リベンジしたいです。
【男鬼入谷城】
《おおりにゅだにじょう》
名称(別名);高取城、男鬼城
所在地;滋賀県彦根市男鬼町、多賀町甲頭倉
城地種類;山城
標高/比高;685m/400m
築城年代;不明(戦国期?)
廃城年代;
築城者;不明(京極氏?)
主な改修者;
主な城主;不明(京極氏?)
文化財区分;なし
主な遺構;石垣,土塁,郭,堀
近年の主な復元等;
地図;