人生における「ふしぎ」と、それを心の中に収めていく物語が人間を支えている。
世界には「ふしぎ」と「あたりまえ」があふれている。全ての人がそれを同じようには感じない。
何を「ふしぎ」と思い、それをどのように心の中に納めていくのか奮闘することが人生なのかもしれない。
私はいったい何者なのか。何のために生きているのか。どこに向かって生きていくのか。
人生における「ふしぎ」と、それを心の中に収めていく物語が人間を支えている。
世界には「ふしぎ」と「あたりまえ」があふれている。全ての人がそれを同じようには感じない。
何を「ふしぎ」と思い、それをどのように心の中に納めていくのか奮闘することが人生なのかもしれない。
私はいったい何者なのか。何のために生きているのか。どこに向かって生きていくのか。
「生きている最中に自分の一生をひとつの物語だと見る見方は、よりよき生きる助けになるかもしれない。」
こう書かれていたのはA.K.ル=グウィンの『ギフト 西のはての年代記Ⅰ』(2006年 河出書房)である。
物語は生きている限り現代を起点に解釈され、日々更新されていく。
人生はあたりまえの日常の中に、「ふしぎ」が満ちている。
「なぜ、このようなことが起こるのだろう?」
人生における謎に、意味を見いだしていくことが生きるということなのだろう。
そしてそれが人生という物語になっていく。
「いかにして私はここにいるのか」
自身の存在を深め、豊かにする役割を持つために、自分に起こった現象を意味づけ、物語として紡いでいく。
客観的に正しい事実として「科学的」に現象を説明できることはある。なぜ、私は失業したのか。
それは、雇い主が支払う賃金に見合うだけの働きができないから。期待に応えられないから。
それでも、それが私の世界に何をもたらすのか、
私の人生の中にどのように立ち上がってくるのか・・・それが私の物語となっていく。
人に親切にすると、とても幸せな気持ちになる。
これは、永遠の真理です。
ある研究者によると人を助けるとと、人生の目的や意味を実感できます。
それは、科学的な用語では「人間が必要としている基本的な欲求が満たされるから」
と説明されています。
それで、専門家は自分の幸せや健康のためにもボランティア活動をすることを
勧めたりしています。
それは,聖書にも書いてあります。
「受けるより与える方が幸福である。」(使徒20章35節)
聖書には、人生が幸せになる原則が載っていますよ。
なぜなら、人間を作られたのは神様で、
聖書は人間の取扱説明書だから。
仕事を失ったとき、どんな気持ちになりますか?
わたしは、精神的に辛い思いをして、長年(29年!)勤めてきた職業を辞めました。なんとかなるか、と思っていたところにこのコロナ騒動です。
「不安」、「挫折」・・・
仕事を辞めてまず、不安に思うことは収入をどうしよう?ってことです。
この日本において、仕事の種類を選ばなければ、なんとか仕事は得られるものです。わたしは、いわゆるパートタイムの仕事につきました。
得られる収入はホントにわずか。だけれど、私一人が生きて行くには大丈夫。とんとん。
寝るところと着るものはなんとか確保できているので、あとは日々の食事ができれば十分です。
それより、空いた時間をどうする?人生を豊かにするにはどうする?
そこで、お金では買えない大切なことを、あらためて考えてみますね。
お金では買えない、大切なもの。
一つ目。家族の絆。今まで忙しすぎて、実家にはほとんど帰っていませんでした。2年前に心筋梗塞で父が倒れた後も、母に任せっきり。仕事を持てないでいる閉じこもり気味の弟のこともほったらかし。一週間に一回、一緒に食事をしよう。今はそう決めて、片道1時間かけて土曜日か日曜日には実家に顔を出しています。そして、自立してしまって遠くに就職してしまった息子と娘。忙しく働いているときはゆっくり話を聞いてやれなかったけれど、今なら聞くよ。ちょっと遅いけれど。まだ大丈夫だよね。永遠の別れが来る前に、時間を作れて良かったよ。
絆はお金では買えません。一緒に時間を過ごして、愛と気遣いを示すことによって深まっていくのです。
二つ目。今、安らぐ。忙しくてストレスフルな仕事を辞めたんだから、仕事でのストレスからは解放されました。自分のために使える時間ができました。聖書にも、「自分のために地上に宝を蓄えるのをやめなさい。そこでは蛾やさびがむしばみ,泥棒が入って盗みます。 むしろ,自分のために天に宝を蓄えなさい。そこでは蛾やさびがむしばんだり,泥棒が入って盗んだりすることはありません。 あなたの宝のある所,そこにあなたの心もあるのです。」(マタイ6章19~21節)とあります。お金がたくさんあったところで、病気や死から逃れられないものですし、かえって盗まれないかという心配もできたりして。天に宝を蓄えられるほど安らげることはないでしょう。
お金を貯めて安心しようとしても、どこまでも心配は続きます。それより、今あるものに満足して、安らぎを得ましょう。
三つ目。神様を信じる。こう書いたら「危ない人」って思う人がいらっしゃるかも・・・。でも、信じることができたら、これ以上確かなことはありません。「じっと見張っていて,あらゆる貪欲に警戒しなさい。たくさんの物を持っていても,命は所有物からは生じないからです。」(ルカ12章15節)人生で大切なことは、お金とそれで買えるものだけではありません。人生における大きな満足感は「人生のいかに生きるべきか」「どうすれば自分の精神面での必要を満たせるか」を知っていることから得られるのではないでしょうか。
物質主義の人が陥りがちな「飢餓感」から逃れ、幸せと感じながら生きるためには、神様を信じ、神様に喜んでいただける人生をおくること。
1000人以上の患者を看取った医者の大津秀一さんが書かれた『死ぬときに後悔すること25』の中でも24番目に「神仏の教えを知らなかったこと」ってありますよ。どうしたら神様に喜んでもらえるか、幸せに生きることができるか、私も今、その道を歩もうとしているので、一緒に考えてみませんか。
参考 目2013/10
許せないことってありますよね。絶対自分が正しくて、相手をなんとかしたいって思うことって。
聖書はこの終わりの時代に、人々が「全く人に同意しようとしせず、中傷し、自制心がな」い人となる、と予告していました。(テモテ第二3章3節)
そうではあっても、クリスチャンは道理をわきまえて行動することを自分たちの取り組むべき課題です。
それが幸せな生活を送るための扉でもあるんです。
使徒パウロも「あなた方が道理をわきまえていることがすべての人に知られるようにしなさい」(フィリピ4章5節)と助言しています。この言葉の意味は、決して自己満足ではなく、他の人たちから見て「道理をわきまえているひとだなあ」というように見てもらえるように努力することかたいせつということです。
「道理をわきまえる」ための努力点は、次の3つです。
①進んで許すこと
人はだれでも間違いをするものです。その時、処罰を加える恐ろしい者となるよりも、進んで許しを差し伸べられる愛ある者となりたいものです。「必要な場合は毅然とし、可能な場合は哀れみ深く」ありたいと思います。
②状況の変化に応じて柔軟に
自分の中の規準では許せないことがあったとしても、進んで謙遜さを示し、相手の気持ちをくむように順応性を示すべき時があることを心にとめておきまよう。人を統制するためとしてでなく、心を動かすために努めることができたらなんて素敵でしょう。
③自己吟味をすること
自分の好みや考えを他の人に押しつけません。たとえ自分の子どもであっても他の人ですから、支配しようとすることは避けるべきです。もちろん、他の人に期待することはあるでしょう。促すことはしたとしても、圧力をかけるのは控えます。また、他の人が努力しているならそれを高く評価しましょう。相手の立場に立って思いやることができたら素敵です。していないことではなく、していることに目を向けます。
許せない、と思うときにも、人の言うことに耳を傾けましょう。
そして、相手を下に見て自分を高めるのではなく、何が何でも自分を優先するのではなく、手をつなぎ、友となりましょう。
そうした方が幸せな人生を送れるっておもいませんか。
ああ、私も、そのように努力したい!
塔94 8/1 参考