~日刊スポーツより~
日本ハムで2204安打を放つなど活躍した大島康徳氏が6月30日に死去していたことが分かった。70歳だった。
がんで治療中であった元中日、日ハムで活躍した大島康徳さんが亡くなりました。
6月までNHKで解説をしていたり、
週刊ベースボールではずっと連載をしていたりと活躍されていましたから、
まだ信じられない思いです。
しかし病気を公表して果敢に戦い、
最後までスポーツマンらしい勇気を我々に示してくれました。
元来中日ファンではないワタシですが、
大島選手のことを強烈に覚えているのは、
なんといっても82年の巨人との決戦ですね。
確か9月下旬?
巨人が2連覇を目指して快調に飛ばして、
それを中日が追うという形のペナントレースは終盤の天王山、
名古屋での巨人ー中日を迎えました。
その第1戦。
巨人はエース江川を立てて必勝を期していました。
他しか江川はこの試合まで19勝。
連続の20勝へ王手をかけていたと記憶しています。
あの頃の江川はまさに無双状態。
3点取ればまず勝ち、2点でも勝つ可能性が高い・・・・
というようなピッチャーでしたね。
去年までの菅野のようなものでした。
9回までは快調に飛ばして6-2と楽勝ムード。
エースと呼ばれるピッチャーは完投が当たり前というこの時期のプロ野球。
当然に9回も江川がマウンドへ。
しかしここから、
中日の誇る「恐竜打線」が信じられないような反撃を見せました。
連打、連打であっという間に4点をもぎ取り同点。
テレビで見ていたワタシも、
しばしあっけにとられるような猛攻でした。
そして同点の延長10回、
試合を決めたのは大島。
ストレートをたたいた打球は強烈にセンターへ。
この瞬間、
ペナントレースの流れは中日が全部持っていっちゃって、
巨人を大逆転で葬り去るのですね。
大島のサヨナラヒットからヒーローインタビューという一連の流れ、
良~く覚えています。
優勝した年に発売される「燃えよドラゴンズ」。
ばんちゃんが歌うこの82年バージョンは、
♪1番田尾が塁に出て、
2番平野が送りバント、
3番モッカがタイムリー
4番谷沢がホームラン。。。。
いいぞがんばれドラゴンズ~ と続いて、
5番大島よみがえる
6番宇野が狙い撃つ
となっていきます。
大島は、
決してチームNo1のバッターではありませんでした(谷沢がチームの中心軸でしたね)が、
中日の恐竜打線には欠かすことのできない、
本当にいいバッターでした。
この82年の中日、
この試合をきっかけにペナントレースを制し、
日本シリーズで”初出場”の西武ライオンズと戦うわけです。
あの頃セ・リーグの熱狂はすごくて、
パ・リーグとはまだまだ大きな差がありました。
だからというわけではありませんが、
この日本シリーズ第1・2戦が行われたナゴヤ球場は、
西武にとってはまさに「決して足を踏み入れてはならない異世界」でしたね。
怖かった~。
70年代、そして80年代までのプロ野球の応援は、
そりゃあなんでもありで、
モノは降ってくるわ、やじはすごいわ、
ひいきチームが得点すると7色のテープと紙吹雪が舞い・・・・・・・
そんな感じでした。
この日本シリーズ、
西武は1・2戦ともに序盤に大量得点を挙げて連勝するんですが、
ま~両方の試合ともに、
怒った中日ファンが暴走して、
スタンドからのものの投げ入れられ方がえぐかった!!!
今では「熱狂的ファン」といえば阪神がその代表格ですが、
その頃は「広島」「中日」がファンの過激度は両横綱。
日本シリーズでの中日ファン、
よほど腹に据えかねたのかか、
試合後西武の選手がグラウンドを去るまで、
罵詈雑言とモノが降ってくるという惨状が続いたのを、
よく覚えています。
翌年は巨人、
その2年後は阪神と戦うのですが、
この両チームはまだかなりマシに見えたものです。
それはさておき、
中日の打線はすごかった。
90年代ぐらいから現在まで、中日といえば「投手力のチーム」といった感じですが、
この時はまさに「打力一辺倒のチーム」という感じで、
パ・リーグでいうと近鉄に似た「野武士軍団」というたたずまいでした。
田尾、平野というヒットメーカーで確実に作ったチャンスを、
「中日史上最高助っ人」とも言われるモッカが還し、
さらに谷沢、大島という中日の屋台骨を支えてきた両主砲がさらえていく。。。。。
そんな超強力打線でした。
狭いナゴヤ球場は、
そんな打力を持ったチームの”庭”としては、
本当にいい球場でした。
73年の中日ー阪神戦(阪神が勝てば巨人のV9を阻止して優勝のゲーム。巨人のナインは、試合中にナゴヤ球場が見える新幹線に乗って通過。)
94年の10.8決戦(史上初の同率での巨人ー中日の最終決戦。)
これに並んで、
この82年の中日ー巨人戦の大逆転劇も、
この球場を思い出すときに欠かせないものですね。
大島は80年代の後半には日ハムにトレード。
「純パ」の男だったワタシは、
その頃からは「ライバル球団のベテラン」としてずっと対戦したので、
よく覚えています。
その頃日ハムは弱くて、
近鉄、阪急といった関西のライバル球団に比べてその印象はあまり強くなかったのですが、
大島のネームバリューはすごくて日ハムの中では「やっぱりセ・リーグで鳴らした選手は違うな」と思ったりしていました。
00年代にはさらに弱くなっちゃった日ハムの、
東京での最後の数年間監督を務めていたこともありましたね。
過渡期での監督だったので、
本当に大変だったのではないかと思います。
その後は度々いろいろな野球関係の媒体で姿を見かけました。
2200本ものヒットを積み重ね、44歳まで現役を続けた体験を生かして、
様々な場所で活躍をしていましたね。
そうそう、
今資料を読んでいて思い出しました。
79年に大島がまさにMVP級の活躍をしたにもかかわらず、
ベストナインのセ・リーグ1塁手部門には王さんが選ばれたんですよね。
ベストナインは昔も今も記者投票で決まりますから、
「セの1塁手といえば王さん」
という長年の慣習か、
記者は一も二もなく王さんに投票したんだと思うんです。
その報を聞いて王さんが、
「この成績で大島君が選ばれないのは気の毒。おかしいよね」
という趣旨の発言をしていました。
ワタシはそれを聞いて(読んで?)、
「やっぱり王さんは大人物だなあ」
なんて思ったこと、思い出しました。
結局大島は一度もベストナインに選ばれることはなかったとのこと。
同時代に王さんがいたという事で、
不運としか言いようがありませんね。
昔はそんなこと、よくありました。
そんな大島選手、
自らがんを公表し、
頑張って生きている姿を数年にわたり、
ブログにつづっていたみたいですね。
昨日初めてお邪魔して、
少し読ませていただきました。
そして感想は、
「やっぱり名を成したアスリートは、本当にメンタルが強い」
ということ。
そして最後まで気高く、
プライドを持って生きた大島選手に、
大きな大きな拍手をもって、
送らせていただければと思います。
どうぞ安らかに。
合掌。
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