フリーエネルギー
すでに使われています。
その技術を秘匿独占する人たちによって。
しかもそれが良識的に使われているのならまだ良いかもしれません、ですがわたしが見たのはそうではないケースもありました。
これまでの電力に関する嘘は多いそうです。
発電所というものも言われているのとは別の目的に使われているのだろうと自分は思っています。
フリーエネルギー発電には様々な方法があるようです。
空気や音、水や塩水を使うものなど。
大規模なものからコンパクトな、家電の中に収まる大きさのものまで。
現在無線送電が実用化されてきましたが、それ以前から無線送電は行われていました。
自分はその機器も実際に見ています。
それもひとつではなく。
そんな経験からの視点から眺めると、発電施設や発電機器らしきものはわりとあちこちに見かけます。
別の用途に使われていると思わされているものが実際にはフリーエネルギー発電のための機器や施設だと疑われるものがたくさんあります。
その技術を隠しているのは、それを利権としている人々がいるからなのだと思います。
長距離送電は理論上不可能なのだそうです。
となればあちこちに発電装置があることになります。
これも搾取と支配のシステムです。
以前少し書きましたが、自由に自然の中に暮らしていた人々を現在の文明の中に押し込め、便利さと引き換えに搾取管理システムの中に組み込む。
また別の管理システムの中に組み込まれることを選択した人々もあるでしょう。
以前この国にも無戸籍の人々はたくさんいると書きましたが‥
このわれわれの社会とは別のシステムに、それが結社であり、この社会に生活することを選択した人々と連携し、その中の悪辣な人々は私利私欲のために悪事を働き、善良であった人々はそれに対抗するために裏や表の体制に従いながらも機を窺ってきたのだろうと思います。
これがこの国が素人諜報と言われることの所以なのではないかと思います。
日本には海外のような表だった諜報機関はないとされていますが、海外からは素人諜報と言われるように、民間人が諜報活動を行っています。そして結社と無関係だった人々を取り込んだり利用したりしながらその勢力を拡大し影響力を高めてきたのだと思います。
使われている人々にはその自覚がない場合も多くあります。
結社に取り込まれた人々 の中には、それが崇高な理念のためだと言い含められている場合、また弱みに漬け込んだり欲で釣ったりして取り込む場合もあります。
そして秘密を持たされることにより自由でいられなくなります。
また彼らは様々な依頼や指示にによって動きますが、末端にはその指示系統は知らされず、何のためにそれをするのかも知らされません。
依頼によっては良いことも悪いこともさせられます。それも結社よるのでしょうが、依頼を受けない自由のあるところとないところがあるのではないかと推察しています。
自分も数回結社に勧誘されたことがあります、時にそれはVIP待遇のお誘いだったこともあるのですが、その時には「欲しいものは何でも手に入る」と言われました。
結社員同士で便宜を図り合うことにより唯物的欲望を叶えていくということをしていたようです。
ですが見知らぬ人たちを苦しめることにより自分たちが利益を得るというその姿勢に自分は賛同できませんでしたので辞退しました。
それ以前にもそれ以後にも数回お誘いを受けましたが、秘密を持たされるのが嫌なのでそういったことには関わらないようにしていたところ、現在のような孤立状態を招いたということになります。
この国が内部から悪辣な人々に侵食されてきたのは事実ですが、そこに対抗する予定だった結社であっても様々な結社が勢力を拡大するにつれて、秘密を持たされることにより多くの人々から自由な言動が失われていったのだろう、と、
裏社会の力関係により悪事を働かされるうちに悪に染まってしまった組織もあるのだろう、と、
日本の陰湿さを増してきたのは結社にも大きな原因がある、と、
結社とは無関係である自分はそんな気がしています。
「どんな手段を使っても目的を果たす」
この言葉を複数人から聞きました。
それを言った相手は親しい相手にも平気な様子で弾圧行為に及びました。
しかも私が目撃したそれはひとりではなく、複数人です。
結社によっては目的のために自分にとって無害な相手を平気で弾圧します。
彼らは目的のために秘密を持たせて人々 から自由を奪います。
取り込まれれば自分たちの理念に沿った以外の言動が禁じられます。
時に見えない形の攻撃を受ける場合もあります、たとえ身内であっても。
結社に使われること、自覚の有無に関わらずそれは集団の中のひとつになることであり、個人としての自由な言動を阻害されることになる奴隷状態だと言えると自分は思います。
これも協調性や親和性が高く争いを嫌うために同調圧に馴染みやすい日本人の特性 を逆手に取った手法なのだと思います。そして理念や方向性の違いにより対立を煽ったり相手に知らせないようにして利用するあたりなどはいかにも大陸的です。
しかし、そうしなければやられてしまうというような現実もあったのかもしれません。
例えば、数で押してくる相手には数で対抗せざるを得なかった、というような。
薄汚さに対して天真爛漫に接していればいいようにされてしまうことでしょう。
この国においては何事も単純には測れない、そう実感する日々です。
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