文字の世界と映像の世界で表現できることの限界は、お互いに不可侵です。
映像は言葉で書き表しきれない雰囲気や情感を創り出せますし、言葉は映像では伝えきれない内面や核心を示唆することができます。
映像で表現することが難しいことは、言葉でしか表現できないと思っていたのですが、その問題に果敢に挑戦している映画を観ました。
《フランク(原題:Frank)》(2014、アイルランド・イギリス)です。
(以下、ネタバレになりますが、公開されて時間が経っているのでご容赦下さい。)
主人公ジョンは、ミュージシャンを志す一青年です。ある日、ひょんなことから得体の知れないバンドに加わることになります。
そのバンドには、カリスマ性を持ったフランクという、常時お面を被ったボーカルがいて、メンバーは全員、彼の音楽に心酔しています。
彼らの非凡な音楽に何らかの可能性を感じ取ったジョンは、バンドを売り出して有名になろうとしますが…
フランクを始めとする一種病的な奇才のバンドメンバーに、凡才のジョンが振り回されるコメディといった内容なのですが、私には人間の才能について、あらためて考えさせられるものでした。
才能とは他人に正しく理解され、正しい方法で共有された時に、その真価が発露するのだと思います。
いくら天賦の才があっても、理解されなければその才能に価値が見出されることはないのです。
見出されるかどうかが、その才能自体の真価を左右するものではないのですが、現象としては、その才能を理解でき、共有できる人にしか、その価値を生きたものにできないのです。
それ以外の人間にとっては、その才能は意味をなさない無用物に過ぎません。
一人の人間に対して、「あいつは無能だ」とある人が言っても、他の誰かは「なんて優れた人物なんだ」と思うかもしれないということです。
人の感じることは千差万別です。何に対して価値を感じるかということも、人によって様々なのです。
そういう意味では、理解されずに眠っている才能が、この世の中にはそれこそ星の数ほどあるのだと思います。
多分、それは自分でも気づかないものであったり、認めたくないものであったりするのです。
ジョンには作曲の才能より、マネジメントやプロデュース、売り込みの才能の方が優れているのかもしれません。
フランクの音楽を評価できることもまた才能ですし、音楽を享受できること自体が才能なのです。
「自分には才能がない」と、自分自身を否定することは、自分の可能性を無視していることと同じです。
他人がどう言うかではなく、自分には可能性があると、まず信じることが必要なのです。
人にはそれぞれ歩くべき道があります。
自分が歩く道を他人が歩けないのと同様、他人の道を自分が歩くこともできません。
フランクはクールな音楽を、まるで日常会話のように生み出せるけれど、ジョンのように社会には適応できませんし、何万人という観客の前で、自分の感性とは違う音楽を演奏することは、本能的に、生理的に無理なのです。
フランクにとっての音楽は呼吸と同じことであり、ジョンにとっての産業音楽とは全く別物なのです。
ジョンは音楽ができなくなっても生きていけるでしょうが、フランクにとってそれは死ぬことと同じ意味を持つのです。
バンドのメンバーも直感的に、この二つの違いに気がついていたからこそ、ジョンを受け入れられなかったのでしょう。
結局、二つの才能は相容れないことが露呈し、映画は終わります。
他人の中に、ある種の才能を見出すと自分には才能がないと落ち込みがちです。
けれど、それは全くの事実ではありませんし、むしろ自分から目を逸らしていることと同じです。
私たちが見据えるべきものは自分の道であり、他人が歩いている道ではありません。
他人が歩いている道を羨ましいと思っても、あまり意味のないことです。
世間では、経済効果を上げたものが評価される傾向にあります。
つまり、「売れたやつがエラい」のです。
しかし、必ずしも優れた物が売れるとは限らないし、売れているものが素晴らしいとも限らないのです。
才能の真価は、人の経済行動とは無関係です。
人間は地球上に生きるある現象の一つとして存在しているに過ぎません。
フランクという才能が存在する。ジョンという才能が存在する。
ただ、それだけのことです。どちらが優れていて、どちらが劣っているというわけではありません。
言うなれば、道端に咲いている花を美しいと思って摘んで帰る人がいれば、気づかずに踏んづけて行く人もいるということなのです。
重ねて言いますが、誰にも何かしらの才能はあります。
ただ、そのほとんどは他人から理解されることもなければ、自分自身でさえも、その価値に気づけていない可能性があるのです。
この映画のレビューやまとめサイトでは、ジョンには音楽の才能がないという言葉が多く見受けられました。
しかし、この映画が言いたかったことは、そんなことじゃありません。
この映画は『フランクという現象を通して、「才能」という言葉でもうまく言い当てられないものを表出した作品』です。
才能とは優劣ではない。知名度でもない。経済効果でもない。
ただ、確かに「存在している」ものなのです。
その「存在」が見出され、正しく理解され、正しい方法で共有された時に初めて、輝くことができる、幻の宝物なのだということが、ラストの酔っ払いしかいない場末の汚いバーで演奏される〈I love you all〉が物語っているのです。
武道館や東京ドームで満員の観客を前にして輝く才能もあれば、こんな形で美しく光を放っている才能もあると教えてくれているのです。
興行収入とは関係なく、細々とながく愛されて欲しい作品です。
映像は言葉で書き表しきれない雰囲気や情感を創り出せますし、言葉は映像では伝えきれない内面や核心を示唆することができます。
映像で表現することが難しいことは、言葉でしか表現できないと思っていたのですが、その問題に果敢に挑戦している映画を観ました。
《フランク(原題:Frank)》(2014、アイルランド・イギリス)です。
(以下、ネタバレになりますが、公開されて時間が経っているのでご容赦下さい。)
主人公ジョンは、ミュージシャンを志す一青年です。ある日、ひょんなことから得体の知れないバンドに加わることになります。
そのバンドには、カリスマ性を持ったフランクという、常時お面を被ったボーカルがいて、メンバーは全員、彼の音楽に心酔しています。
彼らの非凡な音楽に何らかの可能性を感じ取ったジョンは、バンドを売り出して有名になろうとしますが…
フランクを始めとする一種病的な奇才のバンドメンバーに、凡才のジョンが振り回されるコメディといった内容なのですが、私には人間の才能について、あらためて考えさせられるものでした。
才能とは他人に正しく理解され、正しい方法で共有された時に、その真価が発露するのだと思います。
いくら天賦の才があっても、理解されなければその才能に価値が見出されることはないのです。
見出されるかどうかが、その才能自体の真価を左右するものではないのですが、現象としては、その才能を理解でき、共有できる人にしか、その価値を生きたものにできないのです。
それ以外の人間にとっては、その才能は意味をなさない無用物に過ぎません。
一人の人間に対して、「あいつは無能だ」とある人が言っても、他の誰かは「なんて優れた人物なんだ」と思うかもしれないということです。
人の感じることは千差万別です。何に対して価値を感じるかということも、人によって様々なのです。
そういう意味では、理解されずに眠っている才能が、この世の中にはそれこそ星の数ほどあるのだと思います。
多分、それは自分でも気づかないものであったり、認めたくないものであったりするのです。
ジョンには作曲の才能より、マネジメントやプロデュース、売り込みの才能の方が優れているのかもしれません。
フランクの音楽を評価できることもまた才能ですし、音楽を享受できること自体が才能なのです。
「自分には才能がない」と、自分自身を否定することは、自分の可能性を無視していることと同じです。
他人がどう言うかではなく、自分には可能性があると、まず信じることが必要なのです。
人にはそれぞれ歩くべき道があります。
自分が歩く道を他人が歩けないのと同様、他人の道を自分が歩くこともできません。
フランクはクールな音楽を、まるで日常会話のように生み出せるけれど、ジョンのように社会には適応できませんし、何万人という観客の前で、自分の感性とは違う音楽を演奏することは、本能的に、生理的に無理なのです。
フランクにとっての音楽は呼吸と同じことであり、ジョンにとっての産業音楽とは全く別物なのです。
ジョンは音楽ができなくなっても生きていけるでしょうが、フランクにとってそれは死ぬことと同じ意味を持つのです。
バンドのメンバーも直感的に、この二つの違いに気がついていたからこそ、ジョンを受け入れられなかったのでしょう。
結局、二つの才能は相容れないことが露呈し、映画は終わります。
他人の中に、ある種の才能を見出すと自分には才能がないと落ち込みがちです。
けれど、それは全くの事実ではありませんし、むしろ自分から目を逸らしていることと同じです。
私たちが見据えるべきものは自分の道であり、他人が歩いている道ではありません。
他人が歩いている道を羨ましいと思っても、あまり意味のないことです。
世間では、経済効果を上げたものが評価される傾向にあります。
つまり、「売れたやつがエラい」のです。
しかし、必ずしも優れた物が売れるとは限らないし、売れているものが素晴らしいとも限らないのです。
才能の真価は、人の経済行動とは無関係です。
人間は地球上に生きるある現象の一つとして存在しているに過ぎません。
フランクという才能が存在する。ジョンという才能が存在する。
ただ、それだけのことです。どちらが優れていて、どちらが劣っているというわけではありません。
言うなれば、道端に咲いている花を美しいと思って摘んで帰る人がいれば、気づかずに踏んづけて行く人もいるということなのです。
重ねて言いますが、誰にも何かしらの才能はあります。
ただ、そのほとんどは他人から理解されることもなければ、自分自身でさえも、その価値に気づけていない可能性があるのです。
この映画のレビューやまとめサイトでは、ジョンには音楽の才能がないという言葉が多く見受けられました。
しかし、この映画が言いたかったことは、そんなことじゃありません。
この映画は『フランクという現象を通して、「才能」という言葉でもうまく言い当てられないものを表出した作品』です。
才能とは優劣ではない。知名度でもない。経済効果でもない。
ただ、確かに「存在している」ものなのです。
その「存在」が見出され、正しく理解され、正しい方法で共有された時に初めて、輝くことができる、幻の宝物なのだということが、ラストの酔っ払いしかいない場末の汚いバーで演奏される〈I love you all〉が物語っているのです。
武道館や東京ドームで満員の観客を前にして輝く才能もあれば、こんな形で美しく光を放っている才能もあると教えてくれているのです。
興行収入とは関係なく、細々とながく愛されて欲しい作品です。
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