☆本記事は、Youtubeチャンネル『honnohayashi 本の林』に投稿された動画を紹介するものです。
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1864年6月11日に生まれたのはドイツの作曲家リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)です。
父親はミュンヘンの宮廷歌劇場で首席ホルン奏者をしており、シュトラウスは4歳からピアノを習い、6歳にはもうピアノ曲や歌曲を作曲したといいます。
当時はヴァーグナーやリストなどの新ロマン派の音楽が注目されていましたが、シュトラウスはハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンといった古典派の音楽に心酔していました。
ミュンヘン大学で、哲学や美学、文学史を学ぶ傍ら、宮廷楽長から作曲法と理論を教わります。
1883年頃に、ビューローに才能を認められ、やがてビューローの補助指揮者兼合唱指導者になりました。
ビューローからの影響でブラームスに傾倒しますが、同時にヴァーグナーの《トリスタンとイゾルデ》を聴き、彼の音楽にも深く共鳴したといいます。
リヒャルト・シュトラウスの音楽は、保守と革新の中間に位置しており、本質的にはブラームス風であったが、その中にもヴァーグナーの影響が見られます。
1911年に初演されたオペラ《ばらの騎士》は、この作品を観劇するための専用列車が運行されるほど大成功を収めましたが、批評家たちからは「音楽が時代遅れ」や「大衆に迎合している」などの批判を受けました。
1933年、ナチスの設立した音楽局の総裁になったことで、ナチスに協力した音楽家として後に非難され、戦後に裁判にかけられる憂き目に遭いましたが、シュトラウスの息子がユダヤ人女性と結婚していたため、家族を守るために仕方なくナチスと良好な関係を持ったのではないかと考えられています。
また、ユダヤ人台本作家を擁護するような動きも見せており、総裁の立場を利用して逆にユダヤ人芸術家を救おうとしたという見方もあります。
結局、そのようなシュトラウスの態度はナチス当局の不興を買い、1935年には総裁を解任されました。
シュトラウスの葬儀では、自身の遺言により《ばらの騎士》から第3幕の三重唱が演奏されたそうです。
♬6月11日生まれの作曲家♬
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▼本の林の管理人ハヤシさんがお送りしてます。
☆ツイッター https://twitter.com/honnohayashi
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1864年6月11日に生まれたのはドイツの作曲家リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)です。
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当時はヴァーグナーやリストなどの新ロマン派の音楽が注目されていましたが、シュトラウスはハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンといった古典派の音楽に心酔していました。
ミュンヘン大学で、哲学や美学、文学史を学ぶ傍ら、宮廷楽長から作曲法と理論を教わります。
1883年頃に、ビューローに才能を認められ、やがてビューローの補助指揮者兼合唱指導者になりました。
ビューローからの影響でブラームスに傾倒しますが、同時にヴァーグナーの《トリスタンとイゾルデ》を聴き、彼の音楽にも深く共鳴したといいます。
リヒャルト・シュトラウスの音楽は、保守と革新の中間に位置しており、本質的にはブラームス風であったが、その中にもヴァーグナーの影響が見られます。
1911年に初演されたオペラ《ばらの騎士》は、この作品を観劇するための専用列車が運行されるほど大成功を収めましたが、批評家たちからは「音楽が時代遅れ」や「大衆に迎合している」などの批判を受けました。
1933年、ナチスの設立した音楽局の総裁になったことで、ナチスに協力した音楽家として後に非難され、戦後に裁判にかけられる憂き目に遭いましたが、シュトラウスの息子がユダヤ人女性と結婚していたため、家族を守るために仕方なくナチスと良好な関係を持ったのではないかと考えられています。
また、ユダヤ人台本作家を擁護するような動きも見せており、総裁の立場を利用して逆にユダヤ人芸術家を救おうとしたという見方もあります。
結局、そのようなシュトラウスの態度はナチス当局の不興を買い、1935年には総裁を解任されました。
シュトラウスの葬儀では、自身の遺言により《ばらの騎士》から第3幕の三重唱が演奏されたそうです。
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