時には目食耳視も悪くない。

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「私は私の愚を守らう。」

2017年04月28日 | 文学
 種田山頭火(1882-1940)さんが好きです。

 苦しい時、悩んでいる時、頑張っているのにうまくいかない時、頑張ることに疲れて一歩も動けない気分の時。
 そんな時に、ふと彼の言葉を思い出すと、気持ちが軽くなります。


 「あるがまま雑草として芽をふく」

 「げんのしょうこのおのれひそかな花と咲く」

 「歩くほかない草の実つけてもどるほかない」

 「また一日がをはるとしてすこし夕焼けて」

 「どこでも死ねるからだで春風」

 ――いずれも《草木塔》種田山頭火(1940、八雲書林)より。

 一見すると、のんびりとした、何の変哲もない言葉だけれど、妙に癒され、励まされます。

 山頭火さん自身、自分の弱さと向き合い続けた人だったから、そして、言葉の持つ力に救いを見出していたからこそ、彼の句は人の心を癒すことができるのだと私は思います。

 苦しみを知る人はまた、救いをも知ると言ったところでしょうか。

 山頭火さんの言葉は、苦悩の末に辿り着いた諦めの境地であると捉えられがちですが、彼は死ぬまで常に苦悩のただ中にあった人だと思います。
 そんな山頭火さんにとって、唯一の救いは大いなる自然そのものだったのかもしれません。

 生きている以上、人は自分と向き合い続けることになります。
 良いところも悪いところも、全部ひっくるめて「自分」です。
 でも、自分の嫌なところ、ダメなところを認めるのって、難しくないですか?

 どんなに努力しても、失敗してしまう。
 頑張っているのに、まったく評価されない。
 ダメな自分をどうしても受け入れられない。
 夢も理想も、厳しい現実の中では何の力も持たない。

 そんな現実が、ダメな自分が、たまらなくイヤで逃げ出してしまう。
 そんなふうにしか生きられない自分を心底嫌悪し、絶望してしまう。

 そんな負のループに陥って、にっちもさっちも行かない時に、ふと目の前を小さな蝶々がひらひらと過ぎて行く。
 蝶々の飛んで行った先には、降り注ぐ陽の光を浴びて揺れている名前も知らない草の花たち。
 人間の思惑とは関係なく存在し、風雨にさらされながら粛々と生命をつないでいく雑草たち。

 自然の生命力に思いがけず癒され、再び生きていくことへの活力を取り戻す。
 自分を癒してくれた自然に感謝して、ダメなものはダメなままだけれど、また歩き出そうとする山頭火さんの捨てきれぬ「自分」への希望。
 そういうものを、私は彼の言葉から感じます。
 それは「諦め」というよりは、むしろ「大丈夫。諦めなくていいんだよ。」「あるがままの自分でいいんだよ。」って励まされているような気持になります。

 私が住んでいる地域は、子供よりは高齢者の比率が高く、駅からちょっと離れているので、畑や雑木林が目立ち、便利な市街地に引っ越して行く人もいるため、人口も減りつつあります。
 最近、使われなくなった畑や雑木林が整地されて、太陽光発電のパネルが設置されるようになりました。
 木が根こそぎ引き抜かれ、夏の暑い日差しや強い風を受け止めてくれていた林がなくなってしまいました。

 今後、人が増えるきざしもありませんし、誰も手入れをしない土地をそのままにしておくよりは、自然エネルギーの活用に役立てた方がいいというのは分かるのですが、見慣れた風景がガラリと変わってしまったのが少なからずショックです。

 木立に囲まれた道を自転車で走ったり、ヒグラシが鳴く林の中を散歩することが日常生活の中で、どれだけ私の心に安らぎを与えてくれていたか、言葉では説明できません。
 クリーンなエネルギーと私の心の安らぎのどちらが大切かなんて、議論するまでもないですけどね。。。

 田舎に住んでいれば、刻々と変わっていく様も都会とは違ってゆるやかだと思って油断していました。
 もっとも、都会ではもっとあれよあれよという間に景観が変わって行ってしまうのかもしれませんね。

 そういう世界に生きているのだということを実感させられる今日このごろです。

 さて、私もまた歩きださう。(いくらショックを受けたって、木が元通りになるわけではありませんから。)

 苦悩の中にいた山頭火さんですが、現代よりは豊かな自然に触れることができたはずです。
 ちょっと、うらやましい。

 「葦の穂風の行きたい方へ行く」(前掲より)


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