光九寺・寺尾野の宝篋印塔・寺尾山大円寺・市野瀬祝谷観音堂
2022/5/23(月) 曇
今日の最高気温予報は26°気温は少し高目だが午前9時出発のポタリングに、少し長距離の目的地を設定する。
目的地を菊池三十三観音霊場20番札所光九寺、23番札所寺尾山大円寺、時間があれば(市史)16番札所市野瀬祝谷観音堂とする。尚、大円寺入り口には熊本県重要文化財指定宝篋印塔も拝観する予定とする。
いつものように熊鹿ロードを北へ走り、伊知坊辺りから菊池市方向に堤防道路を走る。
菊池市街地を抜け、迫間川沿いの20番札所光九寺(写真1参照)に立ち寄る。ここは、菊池市指定文化財になっている。
説明板(写真2参照)には、「光九庵跡 菊池家の三代(持朝・為邦・重朝)に仕えた家臣であった隈部忠直が、産後の肥立ちが悪く、翌年の正月に十八歳で亡くなった母(将監 藤原朝行の娘)の菩提をとむらうために建てたものです。
忠直は応永三十三年(1426)丙午五月午の日、午の刻に生まれたので、馬頭観音像を刻み、それを守り本尊とし、午の刻が昼の九ツ(現在の12時)であることから、この名を付けたといわれています。
長禄三年(1459)、母の三十三回忌には自ら小石を拾い集めて、妙法蓮華経の文字を一字ずつ石に写して納めています。
光九庵はもともと前の田に建てられていたのが、現在の場所に写されたといわれています。
境内には忠直の父、隈部(源)朝豊の五輪塔など数基の墓塔が建てられていますが、建物は昭和四十六年に老朽化が激しかったために、取り壊されています。
また、ここより西方の迫間川に沿った右岸の田の一角には、忠直の墓所があります。・・・」とある。
光九寺を後にして迫間川沿いを遡り、熊本県指定の重要文化財(建造物)の宝篋印塔(写真3・4参照)を拝観する。
説明盤(写真5参照)には、「宝篋印塔とは、宝筐院陀羅尼経を納めた石塔のことである。
本塔の特色は、塔身と笠石の下の段を一石で造り、また、隅飾突起がほぼ直角に造られていることにある。このような形式は、主として菊池一族の割拠した地域に多く見られるものである。
塔身には「天授二二年卯月日蓮忍」の銘文がある。二二年とは四年のことで、四は「死」に通じるとしてこのように表現されたものである。天授四年は西暦で1378年に当たる。
南北朝時代の宝篋印塔は完形品が少なく、貴重なものである。」とある。
宝篋印塔の左側奥の石段の上に、寺尾山大円寺の観音堂(写真6参照)が鎮座する。
その御堂の左側に八幡宮(写真7・8参照)が鎮座する。
大円寺を折り返し点にして帰途に就くが、市史16番札所の「市野瀬祝谷観音堂」の案内板(写真9参照)を見たので拝観することにする。
最初の曲がり角を見落として、2kmほど坂道を上って引き返す。案内標識を見て、それに従って再度坂道を上り、今度は谷筋に下る。その谷筋を上流に辿って行くと、最後の案内標識(写真10参照)があり、ここから草が繁る踏み分けを進む。草が繁る前にくるべきだったと反省する。
枯れ沢(写真11・12参照)沿いに登ると、左側に洞窟と御堂の屋根が見える。
観音堂(写真13・14参照)は、洞窟の中にある。
説明坂(写真15参照)には、「本尊は十一面観音菩薩。ふだんは人が行かないような所に、凝灰岩層の岩場に50畳はあろうかと思われる洞窟があり、観音堂は、その中に明治の初めころ再建された。洞窟の上に「観世音」の大文字がある。」とある。現在時刻14時半前帰途に就く。
17時過ぎに帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)42km→大円寺観音堂41km →熊本(自宅)
所要時間8時間(実7時間) 総計83km 走行累計48,663km
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
コメント一覧
最新の画像もっと見る
最近の「肥後国(熊本)仏閣探訪記」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
- 熊本から山と自転車のブログ索引(20)
- 残しておきたい自転車日記(109)
- トレッキング・ウォーキング記(127)
- 日帰り登山・ハイキング日記(59)
- 公園・歴史公園・資料館・博物館探訪記(69)
- 熊本の湧水・名水探訪記(39)
- 熊本の名勝・天然記念物探訪記(54)
- 熊本の近代史跡・文化財探訪記(74)
- 肥後国(熊本)石橋探訪記(40)
- 六地蔵・放牛石仏(地蔵)探訪記(81)
- 肥後国近世史跡・文化財探訪記(67)
- 加藤清正遺跡等探訪記(53)
- 肥後国中世史跡・文化財探訪記(84)
- 肥後国(熊本)仏閣探訪記(41)
- 肥後国(熊本)神社探訪記(94)
- 肥後国古代史跡・文化財探訪記(47)
- 肥後国古墳探訪記(144)
バックナンバー
人気記事