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熊本から気ままに山と自転車のブログ

天草四郎ゆかりの里・旧高月邸・轟水源・細川家墓地

天草四郎ゆかりの里・旧高月邸・轟水源・細川家墓地
2021/2/28(日) 曇/晴

今日の出発時の気温は19°暖かい日になった。御前中は、暖かい日に行おうと思っていた家事をこなして、午後1時から宇土市文化財探訪を目的としてポタリングに出る。

往路は国道3を南に走り、先ずは宇土市旭町の「天草四郎ゆかりの里」(写真1参照)を訪れる。


説明板(写真2参照)には、「寛永十四年(西暦1637)に起こった天草・島原の乱の首領となった天草四郎ゆかりの地であり、この付近(宇土市旭町江部)に住んでいたと伝えられる・・・天草・島原の農民約三万七千人が幕府側十万余人に対して果敢に戦ったもので九十日間に及んだ・・・首領となったのは十六歳の時で」あり、江部に住んでいた四郎の母、姉妹は捉えられ、原城に立て籠もっていた一揆軍に対して、幸福を促すための人質となった。」とある。


天草四郎ゆかりの地を後にして、温知館跡を探すが分からず、旧高月邸(写真3参照)に着いた。


「宇土市デジタルミュージアム」解説文では、「・・・長屋門・塀は「武家屋敷の表門」(写真4参照)として,昭和53年(1978)に市有形文化財(建造物)に指定され,主屋(写真5参照)は平成31年(2019)に市有形文化財(建造物)に追加指定されました・・・高月家は、高月五兵衛が豊前国小倉藩時代の細川忠興(三斎)に仕え,細川家の肥後入国後は,五兵衛の子・高月源左衛門が初代宇土藩主の細川行孝に仕えて宇土藩家臣となった家です・・・」とある。



高月家を後にして、轟水源(写真6参照)に移動する。


轟泉水道の説明板(写真7参照)には、「・・・肥後三名泉の一つ・・・この水源を導水して総延長5kmにわたる水道が轟泉水道で、現在使われている上水道としては日本最古のものです。これは初代宇土藩主細川行孝によって発案、敷設されたもので、石棺を用いた地下水道です。現在も多くの人々の飲料水に利用されています。」とある。


轟水源の右脇の道を進み、「宇土市大太鼓収蔵館」(写真8参照)の前を通り、「轟御殿跡」(写真9参照)に着く。



轟御殿説明板(写真10参照)には、「・・・明治初年の廃仏毀釈により廃寺となり、跡地に原泉社を建て細川氏歴代の霊を祀ることになった。この泰雲寺(原泉社)の一角が「轟御殿」と呼ばれるのは、第十一代藩主細川立則公が文久2年(1862)にこの地を隠居所としたため・・・」とある。


石段を上がり左側(写真11参照)を見る。通路最奥に細川家墓地になっている。


通路右側が泰雲寺跡・原泉社跡(写真12参照)である。


説明板(写真13参照)には、「慶安年間(1648~1652)宇土細川藩二代藩主細川行孝公が父である初代立孝公の菩提を弔うため建立したのがこの泰雲寺です・・・」とある。


墓所は、一段高い森の中(写真14参照)にある。


森の中を更に上る(写真15参照)


墓所入り口左側に説明板(写真16参照)には「・・・宇土の細川家は、正保三年(1646)肥後五十四万石の内から三万石を細川行孝公に分け与えられてできたもの・・・細川藩は、行孝公の父である細川立孝公(初代肥後細川藩主細川忠利公の弟)を藩祖初代とし、一般的には行孝公を宇土細川家第二代としています・・・七代立禮公、九代立政公は、熊本の本藩を継いでそれぞれ肥後十代藩主細川斉茲公・肥後十二代藩主斉護公となりました・・・最後の藩主である十二代行真公までのうち七代・九代を除いた十人の藩主が葬られています。」とある。


墓所に入って正面に、一際大きい五輪塔の二代行孝公の墓(写真17参照)がある。


その右側に初代立孝公の墓(写真18参照)がある。


初代立孝公墓碑から左側(写真19参照)を見る。


同じく右側(写真20参照)を見る。


今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)25km→宇土細川家墓所24km→熊本(自宅)
所要時間4.5時間(実4時間) 総計49km 走行累計38,764km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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