木庭六地蔵・築地井手・正観寺礎石群・正観寺六地蔵
2022/2/12(土) 曇
今日の最高気温予想11°とやや暖かい。天候は曇天だが、明日の雨予報に自転車に乗れるのは今日、と11時から菊池市方面にポタリングに出る。
目的地を、菊池市泗水町福本の六地蔵、木庭の六地蔵、正観寺の六地蔵探訪とする。
住吉日吉神社で梅花を眺めながら昼食・休息のその後、国道325に出て木庭に移動する。
木庭六地蔵(写真14・15参照)は、菊池川を渡り観音堂の先、県道203から木庭に上がる道の交差点先の左側崖に鎮座する。
そこに市指定文化財「菊池能運の墓所」(写真16参照)がある。
説明板(写真17参照)には、「明応ニ年(1493)・父重朝が亡くなり、嫡子宮菊丸が菊池家二十二代当主となり、名を武運と改めました。(後に能運)
文亀元年(1501)叔父である宇土為光が反逆を企て、武運の留守中に隈府城を攻めおとしました。武運はすぐ肥後・筑後の兵を引きつれて隈府に向かい、玉祥寺原に陣を設けました
が大敗し、玉名の高瀬から船で島原高来に逃れ、名を能運と改めました。
同三年、島原の援軍を率いて高瀬に上陸し、能運は再び為光と戦い勝利を収めました。しかし、この時受けた傷が重かったため、守護職を菊池肥前の守重安の長子政朝(後の正隆)に譲ることを言い残して、永正元年(1504)、二十三歳で没しました。こうして、初代則隆より続いた菊池氏の正統は二十二代で絶え、ここ正観寺桐の木の實相院に葬られました。」とある。
その東側に日本遺産構成文化財「築地井手(ついじいで)」の分岐堰(写真18参照)がある。
説明板(写真19参照)には、「菊池川水系最古の井手とも言われ、治水の名人として知られる加藤清正によって築かれたと伝わっています。現在の正観寺付近で二手に分かれ、南側を通る井手は、その後に掘られたもので新堀井手とよばれています。」とある。
正観寺に移動する。正面に御堂がありその周囲に熊本県指定文化財「正観寺の礎石群」(写真20・21参照)がある。
説明板(写真22参照)には、「熊耳山正観寺は、南北朝時代肥後守十五代菊池武光が、大方元恢和尚とその師である秀山元中和尚を招き、興国五(1344)年に寺領六十六町を寄進し、開山したもので、菊池氏全盛の頃は末寺十数寺を抱え、全国十刹の一つに数えられた西国屈指の大きな寺でした(市指定)
ここにある堂は、近世末に改築された地蔵堂で、県下最大級の部類に属する室町末期の「木造地蔵菩薩坐像」(市指定)が安置されています。
この地蔵堂の周囲に礎石群がありますが、列を外れたものも入れて原初の礎石は二十個とみられています。東・西側の柱間十一尺(3.33m)、北側柱間の外側各一間は十一尺で、中央のみ十四尺(4.24m)となり、地形及び礎石の残存状況から考えると、正面は三間、側面四間の建物であったとみられますが、礎石はすべて火にあっており、表面が剥離しているものがあります。
周囲から布目瓦が出土していることから、平安中・後期に建立された寺院跡で、阿弥陀堂か大日堂のような一つの瓦葺の堂宇を中心に、茅葺の堂宇や庫裏があったと思われます。
したがってこの寺は、武光以前の古寺ということになり、その焼けた跡に正観寺が建てられたと考えられます。
境内には武光など菊池一族の墓所があります。」とある。
その御堂の奥の庫裏に新しい六地蔵(写真23参照)が鎮座している。現在時刻15時帰途に就く。
17時帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)35km→木庭六地蔵30km →熊本(自宅)
所要時間6時間(実5時間) 総計65km 走行累計45,788km
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
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