亀甲屋嵐亀之助(永田イネ)の墓
2023/9/13(水)晴/曇
今日は最高気温予報32°午前中は晴たり曇ったりの天候で午後は雨模様の予報に、目的地を午前中に帰宅出来る距離の宇土市として午前7時半からポタリングに出る。
大相撲秋場所も始まり熊本発信のブログとしては、宇土市を故郷とする正代関の応援も込め、栗崎町の第八代横綱不知火諾右衛門の墓を訪れるのが今日の目的地だが、先ずは、前回確認できなかった中央区下通二丁目泰巖寺の「永田イネ」さんの墓である「亀甲屋嵐亀之助の墓」(写真1参照)に立ち寄る。
ブログ「徒然なか話」の「FUSA」さんによれば、「「永田イネ」さんは「おてもやん」の作者の前に、女歌舞伎の座長であった」という。「永田イネ」さんの墓碑銘が、その屋号から「亀甲屋嵐亀之助の墓」となったと推定される。
石頭に扇と亀甲紋とは、洒落た墓碑と思う。造花ではあるが、花とお賽銭が供えられている。
おてもやん
2023/9/11(月)晴
今日は最高気温32°まだまだ真夏日が続くが、「おてもやん」の唄に関する説話の資料を頂いたので、関連施設を探して熊本駅前と泰巖寺を目的地として、午後14時半からポタリングに出る。
先ずは、春日の新幹線側道と花岡山に上る道と春日小学校方向に向かう道が交わる交差点の隅切り地にある小さな公園(写真1参照)に立ち寄る。
赤い花崗岩で作られた瓢箪型のオブジェがある。おそらくおてもやんの歌詞にあるところの「春日ボウブラ(カボチャ)」を意味しているものと思う。
次に熊本駅前新幹線口にあるところの「おてもやん」像(写真2・3参照)を訪れる。出口扉の正面にあり、「よーおいでました」とおどけた格好で歓迎しているようにも見える。
「おてもやん」像を後にして、祗園橋東詰にある「おてもやん永田いねパーク」にある「おてもやんと永田いね」像(写真4・5参照)を見る。(台座の説明文はこちら)
「おてもやんと永田いね」像を後にして、永田いねの墓があるという下通二丁目の泰巖寺(写真6・7参照)に移動する。
境内に入って左側正面に羅漢像が鎮座する。正面六体は完成形を保っているが、その奥に連なる羅漢さんは残念ながら首から上がない、廃仏毀釈の影響だろうか。
羅漢さんは良い表情をなされている。石工さんの技量の高さが窺われる。
「永田いね」さんの墓にはお目にかかれなかった。昭和十二年の死亡だから八十数年になる。無縁仏として片付けられたのだろうか(と思ったが、下記コメントのとおり現存しているらしい)。ここを最後として帰途に就く。
16時半に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)16km→熊本駅前→熊本(自宅)
総所要時間2時間(実1.5時間) 総計16km 走行累計55,983km
民謡「おてもやん」に関する面白い「説」の資料を手書きでいただいたので、ここに転載する。
(昭和57年6月30日 朝日新聞西部本社編)
おてもやん
あんた このごろ 嫁入りしたではないかいな
嫁入りしたこっあしたばってん
ご亭どんが ぐじゃっぺだけん まあだ盃ゃせんじゃった
村役 鳶役 肝入りどん
あん人達のおらすけんで あとはどうなっと きゃあなろだい
「五木の子守唄」と並んで、熊本を代表する民謡とされている。
全国的に知られるようになったのは、戦後赤坂小梅のレコードが出てからだ。その時歌詞の一部「きゃめぐらい」が「きゃめぐろ」に、「尻ひぴゃあで」が「尻ひっぱって」に歌いやすく変わった。この改作を「けしからん」というひごモッコスの声も強い。
歌詞を文字通りに解釈すると、「おても」という名のヒロインは「結婚はしたけれど新郎があばた面だったので、三々九度の杯はあげなかった。まあ、役人や世話好き人の手で何とか解決するだろう」と考えている。
かなりいいかげんな女性だ。しかし、その奔放さが「南方的恋愛感情」をむきだしに表現していておもしろいとされている。
酒の席になると必ずだれかが口にする歌なのに、その起源ははっきりしない。
熊本市の作家故荒木精之は、
「実は、幕末の肥後勤皇党の忍び歌」といって譲らなかった。
親幕派の細川藩内でひそかに朝廷と連絡をとりながら行動する勤皇党が歌った。同志だけに通じるアングラソングだったというのだ。
「もう五十年も前、遠い親類の荒木徳次郎が教えてくれた。その後、肥後勤皇党と同時代だった古荘嘉門さんも「忍び歌と聞いたことがある。」と裏付けてくれた。」という。
忍び歌とすると歌詞の意味は一変する。
「おても」は、肥後勤皇党。
「ご亭どん」は、孝明天皇を指し
「勤皇党よ。朝廷と連絡できたそうじゃないか。連絡できたが天皇が「ほうそう」にかかっているので、直接杯をもらったわけじゃない。
ひそかみ朝廷に通じたことがわかると、藩はうるさくいってくるので世話役が中に立ってうまくまとめてくれるだろう」となる。
二番の歌詞
一つ山越し、二つ山越しあの山越えて
わたしゃ あんたにほれとるばい
ほれとるばってん、いわれんたい
おいおい彼岸も近まれば
若もん衆も寄らすけん
ゆるゆる話も、きゃあしゅうたい
これも、「遠く京都にいる孝明天皇を心から慕っている。しかし、熊本ではめったに他人にいえない。彼岸になったら、墓参りの人出にまぎれて、こっそり連絡を取り合おうではないか。」になる。
「五高に入るまで、この歌はうたえなかった。子どものころ、父や祖父に「あんな下品な歌は口にするな」といわれたものだ。」というのは熊本商科大学講師の森本忠。
「春日ボウブラ」と歌詞にある熊本市春日地区の出身である。
森本によれば、「おてもやん」は永田イネという三味線、踊りの師匠が即興で作ったのだという。
イネのけいこ場に踊りを習いに来ていた「おても」という女性が「牛島彦」という青年と恋愛。仲人役に立った大吉が、この縁談をうまくまとめた時、「おても」が大喜びしたさまを、イネがおもしろおかしく歌と踊りに仕立てたとされている。
イネは慶応元年二月二十四日熊本城下に生まれ、昭和十二年十二月十六日死んだ。その墓は、
熊本市下通二丁目の曹洞宗泰巖寺にある。
熊本市二本木地区の芸者衆に三味線と踊りを教えていたという。
どちらももっともらしい話だが、まだ定説にはなっていない。民話、民俗に詳しい熊本教育評論家協会の高木盛義さんは、「今となってはどうしてできたかだれも本当のことはわからない」という。
西南戦争のとき、明治政府につくか西郷軍につくかで、小田原評定した熊本士族の決断の第三の節もあるからだ。
熊本市の「火の国まつり」には、繁華街に町内会、職場グループがそろいの浴衣で繰り出し「おてもやん」の曲と踊りに浮かれる。
難解な熊本弁のオンパレードにもかかわらず、この歌が全国に広まったのは、陽気なメロディーの繰り返しが何となく歌う人、聴く人の心を明るくさせるに違いない。
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
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