2023/3/25(土) 曇
今日は、最高気温予報20°午前9時自宅を出て、玉東町木葉周辺で開催されるJRウォーキングに参加して来た。
参加と言っても、参加者を確認する訳でもなくスタート地点から案内人が付く訳でもない。参加者に地図が配布され、要所々々に主催者側の案内・説明人がいて参加者が任意に歩くというシステムである。
木葉駅頭で地図を受け取り、まずは高月官軍墓地(写真1・2・3参照)に立ち寄る。墓地の中に椿や桜の花が咲いていた。墓石は960(熊本県観光連盟H.P.)あり、将校、下士官、兵卒、軍夫と大小がある。
写真3の墓石は一際小さく目についたので、文字を見ると「輜重」(軍夫)とあった。任務は違っても銃弾飛び交う中を命を懸けて任務遂行しようと奮闘し運悪く落命し、結果に於いて墓標までも差を付けられては命に軽重があるように思われて哀れに感じた。だが、当時はそれも常識、過酷な現実が見えたように思う。
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高月官軍墓地を後にして、有栖川宮熾仁親王督戦の地址(写真4・5参照)に登る。たぶん花桃の一種だろうと思うが、濃い紅の花が咲いている。
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有栖川宮督戦の地址を後にして、官軍繃帯所跡の徳成寺(写真6参照)の前を通る。門前には、日赤発祥の地の碑がある。
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徳成寺前から宇都宮神社に移動する途中に「宇蘇浦官軍墓地」(写真7参照)があるが、こちらはルートに入っていないようである。
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宇都宮神社(写真8・9参照)では、お祓いを受けている人を見かける。
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宇都宮神社を下り細い路地に入り、木葉猿窯(写真10・11・12参照)を見物する。説明板には、「木葉猿の由来。今を去る千三百余年前、養老七年元旦に「虎の歯」の里に、詫び住まいをしていた都の落人が、夢枕に立った老翁のお告げによって、奈良の春日大明神を祭り、木葉山の赤土で祭器をつくり残りの土を捨てたところ、猿に化した、という伝説から生まれてたものである。悪病、災難除け、夫婦和合、子孫繁栄の守り神として広く哀願されている。
型を使わず、指先だけで粘土をひねって作り、素焼きのままの素朴な伝統玩具である。・・・」とある。
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木葉猿窯を後にして駅前物産販売会場で弁当を買って,次の探訪箇所は予定のコースから逸れて国指定史跡西南戦争遺跡「二俣瓜生田官軍砲台跡」(写真13・14参照)を訪ねる。
説明板には、「二俣瓜生田官軍砲台跡は、明治10(1877)年に起きた国内最後の内戦「西南戦争」において、明治政府軍が田原坂(現在地の東側)に布陣した西郷軍(薩軍)を攻撃するために野戦砲台を置いたところです。記録によると、明治10年3月4日から20日までの間、ここを含めた3箇所の野戦砲台に合計8門の大砲が据えられ、毎日砲撃が繰り返されたそうです。
平成22年に実施された発掘調査では、砲撃の際に使用された摩擦火管(まさつかかん)という遺物が出土し、硬くしまった砲座の跡と大砲の轍(わだち)と思われる痕跡が発見されました。」とある。
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二俣瓜生田官軍砲台跡から西郷軍(薩軍)が陣取った田原山(写真15参照)を眺望する。その田原山一帯は現在田原坂公園(写真15参照)となり、今満開の桜の花で白く彩られている。
この風景を眺めながら、木葉駅前で買って来たおにぎり弁当を開き、食後は谷底の田原坂駅まで下り、JR電車で帰途に就く。
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総所要時間5(実3.5)時間(ウォーキングの記事は1万歩以上)