いろはにほへと

Corro atras do meu sonho.

温泉。

2012年12月20日 | 日々のいろいろ

久しぶりに長野にぶらりと行ってみた。
ちょっと寒くなりかけた時期だったので温泉三昧。
前に行ったことがある温泉をめぐってみた。
長野はほとんど初めて行くという人といっしょだったので
いろいろ案内したり思い出を話しているうちに
なんだか自分の深いとこにしまってあったものを
ちょっとだけ共有してもらったような気持ちになった。

・・・ひょっとしてこれも温泉の効能のひとつ?


以下、イメージ画像。









温泉入ったらヒトもサルも同じ顔してると思う。


特別出演:地獄谷のおサルたち。さんきゅー。


選挙。

2012年12月16日 | 日々のいろいろ

今の家に引っ越してはじめての選挙。
あまり行ったことがなかった方向にある小学校が
投票所だった。
なんだか懐かしいにおいのする体育館で投票を終えてやれやれ。

さあ、どうなっていくんでしょうか。
復興も税金も社会保障も原発も、いったいどうなっていくんでしょう。
・・・というか、どうしたいんだろう。。

先日、ポルトガル語の先生と選挙について話した。
ブラジルでは選挙は「国民の義務」であり、よっぽどの理由がなければ
棄権は許されない。
「日本では義務ではないのはなんでだろうね」と
素朴に言われたわたしは、素朴になんでなのかわからなかった。

義務化すればよくなるわけではないだろうけど
この国の復興を税金を社会保障を原発を、
いったいどうしたいのか、ちゃんと考えたり意思表示をする
機会をもっと大事にしなければいけないと思う。

いろんな「おめでとう」。

2012年12月15日 | 日々のいろいろ

はいはいー。今年も誕生日がめぐってきまして
無事にまたひとつ年を取りました。34歳。
なんとまあ、オトナになったものです。。

今はいろんな通信手段があるから、いろんな方法で「おめでとう」を
言ってもらってとてもうれしい。
メールをもらったり、facebookでメッセージをもらったり
カードを送ってもらったり、直接会って言ってもらったり
いろんなかたちの「おめでとう」をかみしめて過ごしました。

年をとっても、いえいえ、年を経るごとに、
誕生日がうれしくて楽しくて素直にありがとうと言える、
そんな人でありたいと思います。

ありがとう。

赤い相棒。

2012年12月01日 | 日々のいろいろ

写真はわたしのスケジュール帳。
左から2011年、2012年、そしてこの間買った来年2013年のもの。
あまり意識していなかったけれど、赤い手帳ばかりなことに
ちょっとびっくり。たしかに赤は好きだけど。

メーカーも大きさも全然違うけれど、中身の作りはわりといっしょで
見開き1週間、1日ずつタテに時間ごとに予定を書き込めるようになっている。
毎年、いろんな作りの手帳を見比べて悩んで買っているけど
自分が好きで使いやす形がようやくわかってきたところかもしれない。
書き込む予定は2色ボールペンで、黒が仕事の予定、青が個人的な予定。
できればもっと青い書き込みが増えますようにと思うけど
それはなかなか。。

ハナからあまり記憶する気がなく予定の管理はもっぱら手帳に頼っているので
これを忘れた日はけっこう大騒ぎになる。
予定だけじゃなく、思いつきやちょっとしたメモも書いたりすることがあるから
なくてはならない存在に。もしなくしたなんてことになったら、
誰かにヒミツの日記を見られるのと同じくらいのハズカシさだろうと思う。
・・・いろんな意味で、手帳はわたしの「相棒」といってもいいかもしれない。

今年の手帳は心なしか、昨年の手帳よりも書き込みがぎっしりだったように思う。
最近は時々、ぱらぱらと過去のページをめくって今年の反省を早くもしてみたりしている。

来年の手帳は、1月1日からスタート。
1年間よろしくね。


「決めの問題」。

2012年11月28日 | 日々のいろいろ

最近、私は気になっていることば。それは「決めの問題」。

ルールとか前例とかが特にないから、
どの選択肢を取ってもメリット・デメリットがあるから、
もう決めてしまえ、というニュアンスで使われるような気がする。
前からあった言葉かもしれないけれど、最近妙に気になるのは
「決めの問題」に立ち会うことが多くなっているのかもしれない。

仕事で「決めの問題」にぶつかるのは、ある意味で一任されているようだけど
決定を押しつけられているという気もする。
個人的なことで「決めの問題」に遭遇すると、なんだか大きな賭けに出ないと
いけないような気がする。
「決めの問題」が厄介なのは、わりと大きな問題をその場の状況で
決定しなければいけないこと。
それには、一応の経緯、理由、そして度胸が必要になる。
経緯と理由はなんとかなっても、度胸は自ら絞り出さないと
どこからも出てこない。誰かに相談できたとしても、結局最後には
自分で決めるしかない。これがちょっと怖い。

だけどこの怖さに打ち勝って、「決めの問題」を乗り越えて
決めていかなければいけないことがいっぱいある。
うーん。きっと人生は大小さまざまな「決めの問題」の連続。

真っ赤だな。

2012年11月25日 | 日々のいろいろ

真っ赤な秋が通り過ぎようとしている。
時間があっという間に経ってしまうことを嘆くよりも
その時間を大切にしたり楽しんだりする気持ちを
もっと持とうと思う。
誰かと一緒の時間も、ひとりで過ごす時間も
もっと大事にしないといけないと思う。

2012年の秋は、あたりまえだけど、1回だけ。


いきなり。

2012年09月24日 | 日々のいろいろ

なんだか、いきなり秋が来た。

遅い夏休みをとっていて北の大地でっかいどう北海道で遊んで
「わーい涼しーい。東京暑かったー」と騒いでいたのですが
東京に戻ってきたらば、ここもまた涼しいではないですか!

残暑どころか本番中の夏もかなりキビシかったので
まったく未練はないけれど、夏の終わりはいつもちょっと
振り返りたくなる。

朝顔。

2012年09月18日 | 日々のいろいろ

そういえば、今年も咲いてます。
「おはようの花」こと朝顔(去年の記事はこちら)。

いろんな悩みや心配事を思って寝た夜も、朝が来れば
新しい花がまた開く。
まあ、そんな、全部がうまくいかなくても、
全部が悪いわけじゃない。
そう思わせてくれる、朝の花。




2012年、夏。

2012年09月10日 | 日々のいろいろ

夏が終わりそうで終わらない。
名ばかり「残暑」ながらも、今年の夏を振り返りますに
とてもよかったと思う。
うきうきしたり、ドキドキしたり、優しい気持ちになれたり、
サーブが入らなかったりもしましたが、ホームランをかっ飛ばしもした。
忙しいだけじゃない日が増えて、よい夏でした。

・・・でも、暑かった。
い、いや、まだ暑い。。

たけなわ。

2012年08月27日 | 日々のいろいろ

あ、どもー。
かなりお久しぶり。1コ前の記事の日付、見ました?
6月25日だって!
もう8月も終わろうとしてるのに、6月末の投稿以来ぶり。

相変わらず身辺慌ただしくてちょっとお休みしてる間に
夏という宴もかなりたけなわ。
秋を待ちつつ、再開してみましたー。

残暑お見舞い、申し上げます。




自由。

2012年06月25日 | 日々のいろいろ


 歪んだ気持ちじゃ 見えないもの
 小さな胸に灯った光
 100万回の成功より
 たった一回の挫折が 今 僕の中の
 大きな力に 気づきはじめてく

 走る走る スピードあげて
 ここは自由と言う名の街
 愛かどうかは わからないけど
 確かに見える 今だけを信じて
 (大橋トリオ「自由の街」)


空振り三振も、見逃し三振もどっちも自由。
アウトボールになるのもネットボールになるのもどっちも自由。
だったら、でっかく振りぬけ!

水泳。

2012年06月03日 | 日々のいろいろ

先月から、家の近くのジムに通っている。
ジムと言っても、利用するのはプールだけ。
なんだか急に水泳を習ってみたくなった。

わたしは泳げない。まったく泳げないわけではないけれど
クロールは息継ぎができないので25メートル以上は泳げない。
平泳ぎはなんか前に進まない。
背泳ぎはほとんどやったことがない。
・・・これって「泳げない」というべきなんだろうけど
なぜか大人の世界では、

 浮くことができる→ちょっと泳げる
 浮くことができない→泳げない

という図式があるように思う。
大人って、優しい。ホロリ。。。
でも、「ちょっと」ではなく「ちゃんと」泳げるようになってみたいと
急に思い立ちまして、週に1回クロールと背泳ぎのワンポイントレッスン(30分)に
通っているわけです。

クロールは、まだスムーズに息継ぎをするにはもう一息。
しかし、背泳ぎはなんと。本日先生にホメられました。
「最初に比べたら目覚ましい進歩です」と!「上手に泳げていますよ」と!!

最初は生まれて初めて仰向けで水に浮くのにドキドキしたけれど
どんどん水の中を進んでいる感覚が楽しくなってきた。
子どものころにこの感覚を得ていたら、学校でも水泳の時間ががもっと楽しかっただろうし
ひょっとしたら今頃「趣味は水泳です」なんて言えてたかもしれない。
だけどだけど、今だからこその嬉しさや楽しさを味わえている気がする。

大人になってから新しくできることが増えるのって、いいなあと思う。
先生にホメられるのも純粋にうれしいし、もっと上手になりたいと思う。

何かを習得することは、いくつになっても楽しいものだと思う。


日食。

2012年05月21日 | 日々のいろいろ

曇るんじゃないかと言われていた空が東京ではきれいに晴れて
今日は金環日食にはじまり、金環日食に終わる一日となったとさ。
わたしはもちろん、日食グラスなるものをゲットできているはずもなく
メディアでやかましく禁止が叫ばれていた、肉眼での観察を試みてあえなく断念した後
テレビのいろんな日食中継を見ているうちに遅刻ギリギリになったという
冴えない朝を過ごしたんだけど、まわりの人がなんだかみんな
楽しそうでおもしろかった。

日本初のノーベル賞に輝いた湯川博士の随筆に「日食」というのがある。
わたしは根っからの文系で、高校時代に物理にはかなり苦しめられたんだけど
なぜか湯川博士の随筆(物理学の細かいことがあまり書いていないものに限る)は
好きで、ときどき手に取る。

あるとき別の人が実験をしていた最中に、小さな爆発が起こって
隣の部屋にいた湯川博士が軽いやけどをする。
それがたまたま日食で太陽がかけている時間だったとのこと。
人は今や(この随筆が書かれたのは昭和11年らしいけど)、日食や月食が
いつどこで見られるかを正確に、ずっと前から知ることができるけど、
自分の身に起こる些細な事件を未然に知ることはまったく無理で
自分の身の回りにもありえないくらい知らないことがたくさんあると改めて思った。
だからこそ、物理学でも何でも、知るということについて
謙虚にならなければいけないし、そこにこそ希望がある、といった内容。

湯川博士の時代以降、いろんな技術が大きく進歩したんだろうけど
その進歩は、太陽や月の歴史からみるとほんの微々たる動きに過ぎない。
地震はかなり正確に位置と時間がわかるようになったとはいえ、
発生する何秒か前にしかわからないし、津波が起こるかどうかはわからない。
ガンはまだなくならないし、へんなインフルエンザも
パンデミック寸前で踏みとどまっているにすぎない。
それどころか、少し先の未来も予測することはできない。
学問が「知ることの追究」だとすれば、それを究めたともいえるノーベル賞をとった
博士がまだ「知ること」に向き合う姿が印象的な文章だった。


それにしても。
他のことはなかなか解明できないのに、
なんで日食とか月食はやたら正確に知ることができているんだろう。
わたしはそれすら知らない。。