どこかで聞いた事ある文言ですが
私のタイでの経験もそういう世界
でした。楽しい時を感じましたが、
私の学生時代に教わってきた倫理
観では、これは快楽的生活と言わ
れるものでした。幸福の一つでは
あっても、これだけでは充分とは
なりません。究極の善には徳を磨
かないと真の幸福へ到達できない
からです。その為に欲望の節制と
いう事が必要だと習いました。
人間に備わった理性で欲望を抑制
すると言う事です。当然、凡人に
は理性と欲望の葛藤がある訳で、
理性が勝るかどうかで徳の有無
が決まります。私は葛藤の末に
理性が勝ったのですが、物事を
認識し判断する理性が少しだけ
勝っただけで、負けてしまう
可能性もありました。それは私の
子供の頃からの家庭環境とか社会
的価値観などの生活習慣が影響し
たのでしょう。思春期に教えられ
た知識の力もあったでしょう。
しかし快楽的生活の中から自分
の徳を磨き最終的な善の道を見
つけ出す方法もあったかもしれ
ません。そういう意味で勇気が
足りなくて臆病だったのかもし
れません。長い人生には自分の
可能性を磨く方法は様々で色々
の考えがあります。私は幸福論的
倫理学という範疇のギリシャ哲学
由来の考えとキリスト教神学とを
融合させた、今から1000年前の
トマスアクィナスという神学者
の哲学を教えられました。2000
年以上前に滅ぼされたギリシャの
都市国家で学ばれていた学問を
1000年後にローマカソリック教
に復活させた古臭い考えだと批判
する人もいましが、私には反論す
る知識もありませんでした。同じ
キリスト教でも多くの宗派が激し
く争っていることをその時は知り
ました。タイは仏教国ですが日本
の仏教と違って小乗仏教といわれ
ていて出家した僧が学ぶ学問です。
タイ国民は必ず一度は出家して仏門
に入って修業をするそうです。私が
タイにいた頃は毎日朝早くから托鉢
している若い僧達を街頭で多く目撃
して、その一人一人に食べ物を手渡
して祈っている庶民が大勢いました。
今はどうなのか知りませんが、そう
いう光景は私の価値観に親和性を感
じたものでした。私の家は仏教です
が、私自身はなにも信心していま
せん。創価学会に勧誘された事も
ありましたが、どうも教団や教会
には馴染めません。禅宗に興味を
持った事はありますが、東洋哲学
と言うのは無の世界ですから現実
の世界で実践は難しいという感じ
でした。普通の人間は食べて生き
て行かなければなりません。古代
のギリシャ自由民と言うのは貴族
ですから沢山の奴隷の上に成り立
つ社会です。民主的とは経済構造
からしてとても言えません。私の
ような日々の食事に苦労する庶民
の為の哲学は何なの?と思いますが
日本人には哲学がないと言われます。
政治は最高の哲学実践の場であると
も言われますが、それでは日本に
政治家はいないと言う事になりま
す。思うに今も昔も天皇が中心の
ぼんやりした神道しか、それに代
わる物がないので政治に都合よく
利用されているのだと思います。
今は年金を貰える年ですから働か
なくてもお金が入るというありが
たい身分です。暇も出来て自分の
人生や生き甲斐を考える機会も増
えます。しかし考えてばかりでも
仕方ないので目標を決め出来る事
を実践しないと意味がありません。
今は食欲を抑制してダイエットを
して健康を維持し長生きするのが
目標です。善く生きる事とはどん
な宗教でも哲学でも目標としてる
ことだと思います。