パフォーマンスの方がなんとなく間口が広くていい感じ。ダンスというとなんだか狭
い。踊らなきゃぁぁぁああああっていうなんか強迫観念みたいなのがあって嫌だ。な
んかもっと説明しづらいものをしたい。声を使うこともあるかもしれないし、なにか
しらテキストを用いるかもしれないし。
それに僕は20世紀初頭に始まったDADAから連なるパフォーマンスに興味があ
る。無意味、無駄なものが好きだ。
でもよくある「何かしたふり」という意味のパフォーマンスには興味がない。しかし
そういう誤解を生じる危険性があるのは承知している。まぁパフォーマンスって聞い
ても大概「パフォーマンスって何してるんですか?」って言いかねない。とある方に
もダンスやバレエなど振付けて踊るということから逃げていると言われた。もちろん
振付けには手を出していく。しかしパフォーマンスの持つ安易な一発ものというイ
メージは抜けそうにない。
また現代美術での「もの派」に触発された自分もいる。ただ作家の手を極力排し厳選
した物体を展示するだけというそのものに強くひかれる。そこには何か得体の知れな
いものがありそうな気がしてならない。そしてそういった作品はどこか丁寧さを感じ
る。そしてなんだかどっかで僕にでも出来る気にさせてくれる、そういうところが好
きだ。
そういう僕は作家精神がある。グループをスタートさせた時、始まりとは何かを考え
て始まりを始め、一回一回作品を作ってきている。始まりはとても大事だ。
グループ発足時のメンバーがポータブルMDプレーヤーやラジカセなどのものだった
こともよかった。何をこれからするのかよく分からないのもいい。
もちろんayamiにはダンス主体の作品が多いだろう。僕はテキストに頼った作品は興
味がない。物語に頼ったパフォーマンスやダンスにはうんざりだ。言葉以前の、口に
出すその言語化されるその前に興味がある。コンテンポラリーダンスといわれるもの
にもうんざりだ。コンテンポラリーダンスと自称してカテゴライズして出来ることを
どんどん閉じ込めて囲い込んで自分で自分の首を絞めている。
だから僕は自分のしていることが「ダンス」と名づけるのがはばかられるんだ。
どっかの敷地に不法侵入する。それすらもパフォーマンスとして作品としてみたい、
そんな気持ちもある。でも自己完結したくない。自分だけで満足するようなことは嫌
だ。他人が見ていようが見ていまいが、客観的に作品として提出できるものを作りた
い。僕はルドルフ シュワルツコグラーが好きだ。
そうして舞台がある。自己完結しない何かを放出発散する、そのためにしつらえた、
あらかじめ用意された見せ物としての機能をもつものに舞台がある。
現在音響作品制作にも手を出している。僕の出自はノイズパフォーマーだ。その僕が
舞台を作る。
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