話題を呼んだ「石谷家文書」の発見で注目されるのは、『元親記』を始めとする後代の編纂物いわゆる二次史料の記述が、まんざらデタラメではなかったということです。
とはいえ、そこには関係者の記憶違いや主観が混ざっていることも事実です。今回、改めてその点を指摘、検討してみたいと思います。
「石谷家文書」でまず注目されるはのは、天正10年1月11日付「空然(石谷光政)宛 斎藤利三書状」(「石」№32)であり、信長からの朱印状に従わせるべく明智光秀が長宗我部氏へ使者を遣わしたという『元親記』他の記述を裏付けるものとなっています。
問題はその信長の朱印状の内容であり、『元親記』他では長宗我部氏に対し「伊予、讃岐(そして阿波北郡)を召し上げ、土佐本国に加え阿波南郡半国の領有を認める」というものでしたが、同年5月21日付「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」(「石」№19)からは、その阿波南郡半国からの退出を命じるという一段と厳しい内容であったことが判明しています。
そのうえで、従来そうした信長の朱印状が発せられた背景として、『元親記』他には信長への讒言・中傷があったと記されていましたが、天正11年2月20日付「石兵部(石谷頼辰) 空然宛 近衛前久書状」(「石」№1)からはそれが事実であったことも判明しています。
そうなると、「(土佐本国に加え)阿波南郡半国の領有を認める」という信長からの朱印状が、別途にあったのかどうなのかという点が疑問になります。
それについては藤田達夫氏が、6月12日付「香宗我部親泰宛 信長朱印状」、6月14日付「同 三好康長添状」を天正9年のものとし、このときに信長が長宗我部氏、三好氏による阿波の分割支配を命じ、結果として双方に不満を残すものであったの見解を示されているのは、その後の流れを考えるに傾聴に値するものといえます。
しかしながら、信長が長宗我部氏に「阿波南郡半国の領有」を認めた可能性のある年次は、他にもあるのではないでしょうか。
とはいえ、そこには関係者の記憶違いや主観が混ざっていることも事実です。今回、改めてその点を指摘、検討してみたいと思います。
「石谷家文書」でまず注目されるはのは、天正10年1月11日付「空然(石谷光政)宛 斎藤利三書状」(「石」№32)であり、信長からの朱印状に従わせるべく明智光秀が長宗我部氏へ使者を遣わしたという『元親記』他の記述を裏付けるものとなっています。
問題はその信長の朱印状の内容であり、『元親記』他では長宗我部氏に対し「伊予、讃岐(そして阿波北郡)を召し上げ、土佐本国に加え阿波南郡半国の領有を認める」というものでしたが、同年5月21日付「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」(「石」№19)からは、その阿波南郡半国からの退出を命じるという一段と厳しい内容であったことが判明しています。
そのうえで、従来そうした信長の朱印状が発せられた背景として、『元親記』他には信長への讒言・中傷があったと記されていましたが、天正11年2月20日付「石兵部(石谷頼辰) 空然宛 近衛前久書状」(「石」№1)からはそれが事実であったことも判明しています。
そうなると、「(土佐本国に加え)阿波南郡半国の領有を認める」という信長からの朱印状が、別途にあったのかどうなのかという点が疑問になります。
それについては藤田達夫氏が、6月12日付「香宗我部親泰宛 信長朱印状」、6月14日付「同 三好康長添状」を天正9年のものとし、このときに信長が長宗我部氏、三好氏による阿波の分割支配を命じ、結果として双方に不満を残すものであったの見解を示されているのは、その後の流れを考えるに傾聴に値するものといえます。
しかしながら、信長が長宗我部氏に「阿波南郡半国の領有」を認めた可能性のある年次は、他にもあるのではないでしょうか。
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