
目黒と蒲田を結んでた目蒲線という電車が無くなって、しばらくたつ。
私は昔、目蒲線沿線に住んでいた。
6月に、母校が解体される前に校舎見学ができるイベントがあったので行ってみたのだが、、降りた駅は昔私が住んでた家が近くにあった駅。
かつて目蒲線の駅だった駅だ。
通り過ぎることはあっても、降り立ったのは久々のその駅は、駅のホームも、駅のまわりの様子も、だいぶ変わっていた。駅の感じなど、かなり趣が異なる。
ある程度は覚悟してたのだが、いざ行ってみると、少し驚いた。めんくらった。
もちろん、駅周辺の基本的な地形は変わっていないのだが、立ち並ぶ店がだいぶ印象が違う。
ちょっとショックだったなあ。
目蒲線といえば、当時の私のイメージでは、全3両編成で、冷房などめったにない古い電車だった。
目蒲線が走ってた路線は今は、目黒線と東急多摩川線の2つの電車に別れている。
目黒から蒲田に行くには、途中の多摩川駅で乗り換えなければならない。
目蒲線に親しんでいた人間にとっては、けっこうめんどくさくなったのではないだろうか。
昔は乗り換えなどしなくても、目黒と蒲田を1本の電車で結んでたのだからして。
当時、私の家に遊びに来ようとした友の中には、「目蒲線」という名前を覚え間違いして、目黒駅近くで道行く人に
「すいません、モカマ線って、どこから乗るんですか?」と聞いたことがあるらしい。
聞かれた人は、クスッと笑って「モカマ線なら、あそこの建物の中から乗れますよ」と答えたとか。
いやあ、聞かれたこの人も、中々やるわい(爆)。
モカマにはモカマで返す。わはは。
「オカマ線」「メダマ線」と言い間違えてたら、聞かれた人はどう反応したかな~。
さて、目蒲線。
私の記憶では、古い車両ばかりで、しかもたったの3両編成だった・・という記憶が強い。
ごくごくたま~~にエアコン完備の車両が来たのだが、それに乗れたら「ちょっとラッキー」だった。
通常はエアコンなど完備してなかったから、夏などの熱い時期は、どの窓も全開になってたような気がする。
また、そうでもしないと、やってられなかった。
暑くて。
景色という意味では、目蒲線のハイライトは、多摩川近辺だった・・と思う。
田園調布を過ぎた辺りから、辺りはのどかな雰囲気になり、多摩川を越えるあたりの大らかな景色は広がりもあって、ちょっとしたオアシス気分だった。
小学生時代、鵜の木という駅の近くに親の友人が住んでいた。
そこの子と仲良くなった私は、時々泊まりがけで遊びに行ってた。
目蒲線1本で行けるので、親も安心してたのだろう、その家に私が遊びに行く時は、いつも一人だった。
それは子供にとっては、親から離れ、自分1人で遠くまで遊びに行ける機会で、ちょっとした冒険気分であり、ちょっとした旅でもあった。
特に多摩川を渡ってる時は、「旅」を感じた。
で、それを私に提供してくれるのが、目蒲線であった。
また、中学時代は、とても仲の良い友が蒲田に住んでた。
こいつの家に遊びに行くときも、泊まりがけだった。
まだ酒も覚えていない時代に、とりとめもないことを語りあいながら、朝になったこともある。
今思えば、酒も飲まずによくそんだけ話すことがあったものだ。
でも、そういう時代を共に過ごすことができたから、そいつとは長い付き合いになれたような気もしてる。
そんな時代を過ごせたのも、・・・目蒲線があったからだ。
蒲田に住んでる友に、どうしても相談したいことがあった時。かといって、1泊で泊まりにいく余裕もなかった時。
私の家のあった駅と、蒲田駅の中間あたりにある駅で、そいつと会ったことがある。
わざわざそいつは、私の相談にのるために、わざわざ蒲田からその駅まで出向いてくれたのだった。
確か・・女性関係の相談だった・・と思う。私は恋ばかりしてたからね(笑)。実る、実らない・・は、ともかく。
そんな青臭い相談ができたのも・・目蒲線があったからだ。
蒲田と目黒を一直線で繋いでくれてたからだ。
だから、目蒲線という電車には、私は強い思いがある。古くさくてボロい感じもしたけど、私にとっては友達のような親しみがあった。好きだった。子供時代の私を運んでくれてたわけだからね。
だから、目蒲線が消滅し、目蒲線のルートが2つの電車に分割されることが分かった時は、本当に寂しかった。
だいいち、ショックだった。
今では、過ぎ去った昭和時代に消えていった電車・・ということに、になってしまった。
私は昔、目蒲線沿線に住んでいた。
6月に、母校が解体される前に校舎見学ができるイベントがあったので行ってみたのだが、、降りた駅は昔私が住んでた家が近くにあった駅。
かつて目蒲線の駅だった駅だ。
通り過ぎることはあっても、降り立ったのは久々のその駅は、駅のホームも、駅のまわりの様子も、だいぶ変わっていた。駅の感じなど、かなり趣が異なる。
ある程度は覚悟してたのだが、いざ行ってみると、少し驚いた。めんくらった。
もちろん、駅周辺の基本的な地形は変わっていないのだが、立ち並ぶ店がだいぶ印象が違う。
ちょっとショックだったなあ。
目蒲線といえば、当時の私のイメージでは、全3両編成で、冷房などめったにない古い電車だった。
目蒲線が走ってた路線は今は、目黒線と東急多摩川線の2つの電車に別れている。
目黒から蒲田に行くには、途中の多摩川駅で乗り換えなければならない。
目蒲線に親しんでいた人間にとっては、けっこうめんどくさくなったのではないだろうか。
昔は乗り換えなどしなくても、目黒と蒲田を1本の電車で結んでたのだからして。
当時、私の家に遊びに来ようとした友の中には、「目蒲線」という名前を覚え間違いして、目黒駅近くで道行く人に
「すいません、モカマ線って、どこから乗るんですか?」と聞いたことがあるらしい。
聞かれた人は、クスッと笑って「モカマ線なら、あそこの建物の中から乗れますよ」と答えたとか。
いやあ、聞かれたこの人も、中々やるわい(爆)。
モカマにはモカマで返す。わはは。
「オカマ線」「メダマ線」と言い間違えてたら、聞かれた人はどう反応したかな~。
さて、目蒲線。
私の記憶では、古い車両ばかりで、しかもたったの3両編成だった・・という記憶が強い。
ごくごくたま~~にエアコン完備の車両が来たのだが、それに乗れたら「ちょっとラッキー」だった。
通常はエアコンなど完備してなかったから、夏などの熱い時期は、どの窓も全開になってたような気がする。
また、そうでもしないと、やってられなかった。
暑くて。
景色という意味では、目蒲線のハイライトは、多摩川近辺だった・・と思う。
田園調布を過ぎた辺りから、辺りはのどかな雰囲気になり、多摩川を越えるあたりの大らかな景色は広がりもあって、ちょっとしたオアシス気分だった。
小学生時代、鵜の木という駅の近くに親の友人が住んでいた。
そこの子と仲良くなった私は、時々泊まりがけで遊びに行ってた。
目蒲線1本で行けるので、親も安心してたのだろう、その家に私が遊びに行く時は、いつも一人だった。
それは子供にとっては、親から離れ、自分1人で遠くまで遊びに行ける機会で、ちょっとした冒険気分であり、ちょっとした旅でもあった。
特に多摩川を渡ってる時は、「旅」を感じた。
で、それを私に提供してくれるのが、目蒲線であった。
また、中学時代は、とても仲の良い友が蒲田に住んでた。
こいつの家に遊びに行くときも、泊まりがけだった。
まだ酒も覚えていない時代に、とりとめもないことを語りあいながら、朝になったこともある。
今思えば、酒も飲まずによくそんだけ話すことがあったものだ。
でも、そういう時代を共に過ごすことができたから、そいつとは長い付き合いになれたような気もしてる。
そんな時代を過ごせたのも、・・・目蒲線があったからだ。
蒲田に住んでる友に、どうしても相談したいことがあった時。かといって、1泊で泊まりにいく余裕もなかった時。
私の家のあった駅と、蒲田駅の中間あたりにある駅で、そいつと会ったことがある。
わざわざそいつは、私の相談にのるために、わざわざ蒲田からその駅まで出向いてくれたのだった。
確か・・女性関係の相談だった・・と思う。私は恋ばかりしてたからね(笑)。実る、実らない・・は、ともかく。
そんな青臭い相談ができたのも・・目蒲線があったからだ。
蒲田と目黒を一直線で繋いでくれてたからだ。
だから、目蒲線という電車には、私は強い思いがある。古くさくてボロい感じもしたけど、私にとっては友達のような親しみがあった。好きだった。子供時代の私を運んでくれてたわけだからね。
だから、目蒲線が消滅し、目蒲線のルートが2つの電車に分割されることが分かった時は、本当に寂しかった。
だいいち、ショックだった。
今では、過ぎ去った昭和時代に消えていった電車・・ということに、になってしまった。