空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 中編⑧

「沖縄戦」から未来に向かって 第5回


 今回で曽野氏の反論は終了します。ただし、集団自決や「鉄の暴風」に関する直接的な反論や再反論はありません。
 この回で中心的な主張になるのは、沖縄戦に対する沖縄からの偏った視点から脱却し、戦争を知らない若い人たちのために、タイトル通り「未来に向かって」考えていこうという姿勢です。少し長いですが以下に引用します。


 「私はかねがね、沖縄という土地が、日本のさまざまな思想から隔絶され、特に沖縄にとって口あたりの苦いものはかなり意図的に排除される傾向にあるという印象を持っていた。その結果、沖縄は、本土に比べれば、一種の全体主義的に統一された思想だけが提示される閉鎖社会だなと思うことが度々あった。
 もしそうだとすれば、これは危険な状況であった。沖縄の二つの新聞が心を合わせれば(あるいは特にあわせなくとも、読者の好みに合いそうな世論を保って行こうとすれば)それほど無理をしなくても世論に大きな指導力を持つ。そして市民は知らず知らずのうちに、統一された見解しかあまり眼にふれる機会がないようにさせられる」


 「少しでも沖縄に対して批判的なものの考え方をする人は、つまり平和の敵・沖縄の敵だ、と考えるような単純さが、むしろ戦争を知っている年長の世代に多かった」


 「二つの新聞」というのは、「鉄の暴風」の編集・出版元の沖縄タイムスと琉球新報のことですが、マスメディアのミスリードという観点からすれば沖縄だけに限ったことではなく、全てのマスメディアに当てはまると思われます。
 特にこの論争がおこなわれた1985年といった、マスメディアを批判するツールとして確立されたともいえるSNSや、インターネット自体がなかった時代については、新聞の影響力は現在に比べはるかに強大だったのではないかと思われます。
 そのような状況でマスメディア側、今回は沖縄タイムスということになりますが、赤松大尉の「自決命令」があったと「決定」あるいは「認定」されてしまえば、たとえ曽野氏のように「自決命令」がなかったという主張を展開しても、「意図的に排除される傾向」にあるというような主旨だと思われます。


 以上で「「沖縄戦」から未来に向かって」は終了です。繰り返しになりますが、この第5回は集団自決や「鉄の暴風」に関する直接的な反論や指摘はありませんので、これ以上の分析や個人的な考察はいたしません。


次回以降は太田氏の再反論になる「土俵を間違えた人」へと続きます。

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