空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 中編③

「沖縄戦」から未来に向かって 第2回②


 前回では元渡嘉敷村長が「赤松大尉の自決命令」についてどのような証言をしていたのか、中心的存在でもあったであろう集団自決の顛末を、元村長はどんな風に考えていたのか、ということがポイントとなると提示しました。本来であれば当事者の直接な取材が一番効果的なのですが、元渡嘉敷村長は既に亡くなられており、残された資料を分析・考察して仮説を導き出すというような作業しか残されておりません。
 そういったわけで今回は、具体的な資料を取り上げていきたいと思います。


 「古波蔵村長は、次のような理由から、駐在巡査を通じて赤松隊長から玉砕命令が出たにちがいないと、ひそかに思っていた。西山にきて協議の結果、いわば自発的に玉砕することになりはしたが、昨日、安里巡査一人が赤松隊長に逢ってきた結果、集合が決まったこと、それから安里巡査は一人死ぬのを避けるふうに、「自分は村民の玉砕を見とどけて、軍に報告したい」(米田惟好〈当時の古波蔵村長〉の証言)といって、いざというときには少し離れたところに彼一人立っていたというのである。(注・米田惟好の解釈──軍は持久戦を考えて食料確保のため、村民に対し「口べらし」「足手まとい」だと思ったにちがいない)」(星雅彦 「「集団自決」を追って」 潮1971年11月号 潮出版社)


 上記の資料はルポタージュ形式で、厳密にいえば元渡嘉敷村長への直接的なインタビューではありませんが、元村長の言動や思考がわかるようなものとなっております。ちなみに「口べらし」とは「口減らし」のことで、三省堂の国語辞典によると「人数を減らすこと。特に、子供を奉公に出したりして、生計の負担を減らすこと」ということになります。


 「それから敵に殺されるよりは、住民の方はですね、玉砕という言葉はなかったんですけど、そこで自決した方がいいというような指令がきて、こっちだけが聞いたんじゃなくて住民もそう聞いていたし、防衛隊も手榴弾を二つ三つ配られてきて……安里巡査も現場にきてますよ」(別掲 「ある神話の背景」)


 元村長は「ある神話の背景」にて「自決命令は聞いていない」と明言しておりますが、それと同時に上記の証言もあります。
 つまり赤松大尉の自決命令は聞いていないが、「自決したほうがいい」といった出所が不明な「指令」がきて、他の住民も同じような「指令」を聞いていたということになり、一見すると真逆のことを言っている印象が伝わってきます。


 「私には、問題が残る。二、三〇名の防衛隊員がどうして一度に持ち場を離れて、盆地(自決現場──引用者注)に村民と合流したか。集団脱走なのか」(沖縄県教育委員会編「沖縄県史第10巻各論編9沖縄戦記録2」 国書刊行会 1974年)


 以上、時系列順に取り上げてみました。

 この並べた資料について、二つの共通点を見出すことができます。

 一つ目は「元村長は赤松大尉からの自決命令を聞いていない」という前提があることです。

 星氏の「集団自決を追って」では、もし「赤松大尉の自決命令」を元村長が聞いていたのなら、「玉砕命令が出たにちがいないと、ひそかに思っていた」というような描写にはならず、「命令が出ていた」と直接的な表現、あるいは描写になっていたのだろうと思われます。
 「ある神話の背景」は元村長が「聞いていない」と自ら証言しているのですから、特に説明は必要ありません。
 「沖縄県史」では「赤松大尉からの自決命令」を聞いていないからこそ、あのような疑問を元村長は提起したのではないかと思われます。

 つまり元村長は「赤松大尉からの自決命令は聞いていない」と、一貫して主張しているに等しいのです。

 二つ目は赤松大尉あるいは軍から自決命令が出たという「噂」が流れ、元村長を筆頭に住民がそれを「信じていた」ということです。

 元村長の証言が事実ならば文書であれ口頭であれ、赤松大尉から駐在巡査を経由して渡嘉敷村長へ「自決命令」が出されます。そして村長が何らかの形で正式に受領しなければ、それ以外は全て「噂」「デマ」「嘘」ということになります。

 「集団自決を追って」では、駐在巡査から直接「自決命令が出た」と言われていないのにもかかわらず、駐在巡査がみせた一連の行動を見て考えたうえで、赤松大尉から自決命令が出されたと「信じた」ようです。
 「ある神話の背景」では「住民もそう聞いていたし」の一言で、住民にも「噂」が既に広まっており、元村長も自決命令を受領していないにもかかわらず、それを信じたということになるでしょう。
 「沖縄県史」では、防衛隊員が住民たちと合流した本当の理由はわからないが、それでも一度に持ち場を離れたということは、「防衛隊員にも自決命令が出たから合流した」のではないか、というような疑念を持っていることがうかがわれます。

 元渡嘉敷村長は軍からの正式な自決命令を受領しておりません。同時に自決命令が出された「のではないか」「かもしれない」というような、住民たちにも流布された出所不明な噂を信じていた、という仮説が成立するのです。

 そういうことであるならば、後世や第三者からの立場からすれば「なぜ村長は自決命令の有無を確かめなかったのか」というような疑問、あるいは確認を怠ったという渡嘉敷村長の責務に対する疑念が生じるかもしれません。
 しかし、この回は太田氏と曽野氏の論争に対する考察や分析の場であって、個人個人の責任を追及・糾弾するのが目的ではありません。従って「噂を信じた」という仮説を提示するにとどめ、これ以上は省略いたします。

 ただ、なぜ村長が噂を信じてしまったかということは、「渡嘉敷村長の置かれた立場はどのようなものだったのか」あるいは「どのような状況だったのか」ということに繋がると思われます。
 集団自決の実像を解明する位置に立ち返れば、その状況を考察することによって、より一層の実像解明が可能になってきます。そういった意味では、渡嘉敷村長が直面した状況は誰が考えても非常に重要となっていくのでありますから、この回ではなく別の機会であらためて考察するほうが妥当だと判断いたしました。


 次回以降に続きます。

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