主なる神が、人の世に神権統治を定められてしばらくして、
主がご覧になると、権力者の暴虐専横が極限に達し、いくら権力者が代わっても、彼らは力を持つと常に私利私欲を追求して国や民を顧みず、神も法もない悪逆非道な振舞いが各地で見受けられた。
さらに、神への崇敬と畏怖を抱かせて権力者の慢心を戒める筈の神職も占いと祈祷に夢中になり、占いが当たっても当たらなくても適当な理由で権力者に媚び諂い、事あるごとに巨莫な普請と布施と生贄を求めた。
主は驚きとともに、深く心を痛められ、重苦しいため息と共に言われた。
「彼らは腐っている。腐った肉が発する臭気がさらに周りを腐らせていて、世の者らは息することもできないだろう。
こうなった上は取り除くしかあるまい。権力を持つ者、権力を支える者、王族と神官をはじめ、貴族や役人、学者に至るまで。人の上に立ち、人を支配する連中をことごとく。
わたしが、彼らを信じて文字や記号を専有させたことで、思い上がらせてしまったに違いない。
わたしはわたしの過ちを認め、責任をもって新しく世を作り直す。」
さて、メソポタミアはその世代の中にあって、平和な文明であった。大河と豊穣な大地に恵まれたことを神に感謝し、日々慎ましく暮らしていた。彼は純粋太陰暦を奉じており、神の信用と加護を得た。
神は彼に仰せられた。
「文字の上に権力を振るうすべてのものの終わりが来ようとしている。この者どものゆえに人の世は暴虐と虚妄で満ちているからだ。
見ているがいい、わたしは今、彼らを滅ぼし去るために、災いを計画している。
文字と記号の上にあるすべての知識、記録、文化、伝統を滅ぼすための計画を。
しかし、お前はお前の言葉や文化と、またお前の身内やお前に従う者たちのそれと共に生き延びなければならない。
また同時にお前たちは、わたしが地上に破滅をもたらすその日までに、できるだけ多くの文化文明を掻き集めて、取り込めるものは自分たちの文化に取り込むことを命じる。
そして何より、いずれお前やお前の子孫が自分たちの言葉を発展させるために、滅びゆく他国の言葉や文字を集めておくがよい。
いずれわたしがもたらす災いが一通り済んだら、彼らの言葉を整理して、自分の言語体系を正しく整えるのだ。
原則として言葉は一文字に一音、そしてその音韻と文字が、それぞれ接合されて成る言葉と意味の対で集めなければなければならない。
擬音や擬態を本質とする固有名詞や形容詞と、普遍的な意味を本質とする一般名詞、動詞、助詞などもすべて、文字列と音節を、言葉と意味を対でそろえなければならない。
文字は、言葉の体を成さない最小単位で意味と結び付けてはならない。それをするとその文字は記号となり、言語体系から除外される。音韻も然り。
いずれにせよ、わたしが彼の者どもを滅ぼして世の中を新しくする前に、お前が集めた言葉や文字たちが一つ所に集まって、無節操に結びついたりするとそれらは滅んでしまうおそれがあるため、眠り薬を与える。すなわち文字や言葉に番号をつけておくのだ。数字をつけられると、文字や言葉は身動きが取れなくなる。」
メソポタミアは、神に命じられた通り、他民族の文化文明と言葉や文字を収集するために各地を回った。
と同時にひそかに各地の人々に警告を伝えたが、神の怒りによって、間も無くこの世が滅びるなど誰一人として信じるものはなかった。
メソポタミアは思った。
「神は本当に彼らを滅ぼされる気で、人々の目も耳も聞こえなくされている。所詮私などが彼らを助けることはできない。出来るのは彼らの生きていた証である文化文明の保存だけなのだ。」
メソポタミアは人々の説得を諦め、粘土板の上に釘をもって元々自分が持っていたものと他民族から手に入れたすべての知識、文化、文明、そして言葉を文字と音節共々詳細に詰め込むと、自ら築いた都市部に深い穴を掘って隠し、自らも人気の無い山岳地帯に隠れた。
〈災いの開始〉
主なる神は御自身が命じられた収集作業と彼の避難を確認すると、メソポタミアの都市部を先んじて地震で壊滅させ、人が立ち寄らないようにされた。
そして神はついに、全地に太陽暦を啓示された。
太陽暦によって農業や漁業をはじめとする産業全体と医学、軍事などの効率や生産性は飛躍的に向上し、それに伴って人民が爆発的に増大した。
神職たちは太陽暦が齎す威力の前に畏怖し、太陽を最高神として惑星にも神々しい名をつけ、太陽ともども擬人化された偶像を作り崇めた。
そしてより高精度な天体運行を計測するために大規模な建造物が作られた。
また、増大した人口を養いさらに増やすために徴兵制と領土拡張が推進され、各地で紛争が頻発した。
しかし、急激に増大し戦闘を覚えた民はいつしか支配階級にとって他民族よりも身近な脅威となり、彼らを抑え従わせるために、国家全体での休日の制定と軍功を立てた者には末端役人ほどの富と名誉を与えた。
そして民に富と名誉を継続して与えるために、他民族への侵略が繰り返され、捕虜は奴隷とされた。
汚く危険な仕事を奴隷に押し付けて、安穏と余暇の味を一度占めた民の欲求はとどまることなく湧き溢れ、民の意識はどんどん増上し、好戦的になっていった。
支配階級はいつしか神殿や王宮に民が出入りしているのにも危険を感じる事もなければ対策を講じることもなかった。
寧ろ民の一部を取り込むことで対立を回避できるとさえ考えていた。
しかし民の方はいつしか、自分たちが国を作り、自分たちが国を守り、自分たちが王を王たらしめているのだと考えるようになっていた。
かくして、民の自意識が王族を飲みこんだのを見計らい、神は猛烈で長い飢饉を下された。
壊滅的なまでに収穫が激減したのと、長らく人口の大幅な増加が続いていたこともあって、食料の備蓄は予想を遥かに超える勢いで減少した。
にも関わらず贅沢と自己保身にかまけて民の救済を図ろうともしない支配階級に対し、飢えに苦しみながらも通常通り税や労役を課された民は怒りを滾らせ、巷に物乞いや餓死者が溢れると完全に決別した。
そしていよいよ民は、国を支えている大多数の自分たちを、生まれながらにして支配する極小数の階級を排除し、自分たちの手で自分たちのための国を作ろうと蜂起し、武器を手にすると、洪水のような勢いであっという間に支配階級を滅ぼした。
宝飾品や実用的な物以外興味を示さない無知蒙昧な暴民によって、知識階級の上に養われていた、取り分け文字の上に保存されていたあらゆる文化、文明はこれにより滅び去った。
しかし、それでも神はまだこの災いを完了とはなさらなかった。
神は暴徒化した民によって文字や記号などの上に存在していた都市部の文化を破壊したが、その記憶までも消すために、暴民がいまだ屯している都市部に疫病を下され、彼らをして遠い地方に分散させられた。
疫病の流行により、破壊された都市には長い年月人が立ち寄らなくなり、世代を重ねるうちに人々の記憶からも消滅させられた。
神は民を小分けにして地上に分散されたので、無政府状態でも自然と家父長制から部族内での長老合議制が定着し、騒乱は起きなかった。ただ民は文明に飢え、文明との接触を欲していた。
ただメソポタミアと、彼とともにいたものだけが残った。
神はメソポタミアに告げられた。
「恣意的な劣悪権力と堕落した国々は全て滅ぼした。しかし、民は散らばりながらも生き残り、男が女を、女が男を求めるように他民族の文化文明を欲している。
お前はその雑多な民を集めて統治する必要はないし、その力もない。
お前が世界中から掻き集めて保存していた知識や技術、学問、芸術を最大限利用して自らの都市を再建すれば、自然と彼らがやって来てその種を拾い、自分たちの地で再現することになる。
こうして文化文明がふたたび全地に拡散し、彩り豊かに生い茂ることだろう。」
メソポタミアの直系の子孫はギリシャとインド、黄河文明である。これらがあらゆる文化の先祖となった。これらの土地にはすでに人民はもちろん、国も文明もあったが、主は人民を滅ぼすことなく、まるで古くなった見窄らしい着物を新しいものに替えるように、支配階級と言葉を基盤とする文明だけを刷新された。
神はメソポタミアとその息子たちを祝福して、仰せられた。
「さあお前たちの前に立ちはだかるものは何もない。自分たちの土地で繁栄を遂げるが良い。
ただし、お前たちは、わたしがいま滅ぼした者どもと同じように、読むにも書くにも難渋するような複雑な象形文字を数限りなく作り、支配階級で専有してはならない。
その反対に、出来るだけ文字の種類を少なくして、下々にまでいきわたらせるのだ。
しかし安心するがよい。放漫な民によって言葉や文字、統治秩序が破壊されないように、わたしは境界を設置する。海と大地との間に砂浜があるように。
はじめに、民族というのは共通言語を枠組みとする共同体であり、言語は意味を持たない人名や地名などの固有名詞と形容詞が基礎である。
それ故、如何なる身分の者であれ、固有名詞すなわち名は意味を持たない音韻の組み合わせでなければならない。しかし固有名詞や形容詞、擬態語こそがその民族のあらゆる文化の源泉であるが、その寿命はおおよそ百二十年ほど。しかもそれは学に深入りしていない者だけが新しく生み出すことが出来る。
味気ないものから味を引き出す塩のような力が無学な民にはある。これは学問以上の価値がある。
対して学問は一般名詞や文法語法を整え、特に身分に応じた言葉遣いを積み重ねていくことが使命となる。
それゆえ敢えて学問に触れる階級を区別するのだ。
無差別に学問を開放したり、学問を必須とする支配階級らと民の濫りな接触はどちらにとっても害しかない。
何れにしても、支配階級は当然厳密な言葉の使用を心掛けなければならないが、民方による言葉の濫造や濫用、誤用は、常に方言を生んだり習慣を生んだりする胎であり、民族の中に多様性を与える故、放任しておかなければならない。いずれそこから新しい民族が生まれるからだ。
わたしは民に文化の基を据えた。民こそ言葉の宝庫、民族の胎。それ故必ず分離せよ。
言葉の素となる音韻は限りなくあるわけではないから、その組み合わせである音節が足りなくなってくれば、他国の言葉を参考にすることは何ら悪いことではない。
しかし、音節は文字やその命である意味を伴った状態で吸収してはならない。音節だけを借用して、自分たちの言葉の中で新しい文字を割り当て、意味をあてがうのだ。
もしお前たちが意味を含んだまま他民族の音節を自分の中に取り入れるならば、それと同じだけお前たちの言葉を必ず殺す。わたしは予め警告しておく。
次に単語を連ねて意思を形成する文法或いは語法は、名詞と同じように民族ごとに異なる構造であり民族の骨格と考えてよい。
それによって他言語との互換性に障壁が出来る。理解するには学習が必要となり、安易に単語が交わることがないように、交わっても何も生じないようにするためである。
そして共同体は、何よりも領土と文化の守護を目的としなければならない。領土が守られなければ民は離散するか奴隷になり、文化も消滅する。しかし領土が守られていても文化が侵略されていれば意味はない。
そのためにわたしは、改めてお前たちに王家と宗教を与え、かつまた正しい政の道標となるべき学問を与える。
わたしがお前たち、そしてお前たちの子孫に代々にわたって結ぶ契約のしるしは太陰太陽暦である。
わたしはお前たちとお前たちの子孫の国々が太陰太陽暦を奉じる限り、領土に比して過剰に民が増えないよう、必要以上に富が生じて堕落したり他国から狙われたり、他国に侵略しようなどと企てないように、定期的にお前たちのもとに災害を下し、常に内政問題を抱えた状態にして、優れた人材を育む。丁度葡萄の木の世話をするように。
それによって、飢饉や疫病、災害や侵略に見舞われようが、また内戦や支配者の専横が再びあらわれても、国が滅びることはなく、必ずより賢く力強い指導者によって、立派になった新しい共同体に生まれ変わることが出来る。
ただし、お前たちが太陰太陽暦を放棄して、太陽暦に跪いたとき、わたしもお前たちへの保護と育成を即座に放棄する。
すでに見たように、太陽暦は驚異的な速さで新しい知識、技術を生み出し、天にも昇る勢いで文明を発展させ、富を齎すだろう。
しかし、それはすべて単なる利便と見栄に供するだけで、その代価は信仰心をはじめ、礼節や良識を薪としながら民族性を焼き尽くして破滅を急激に引き寄せるものとなる。
太陽暦を迎えると同時に、お前たちの持つ民族性のものは全てそこで枯れ果て、無味無色な同一化に向かうであろう。場合によっては自らの民族言語も捨てようとするだろう。
さらに民の端に至るまで良識もどんどん失われていくゆえ、節操はないし、自分さえ良ければ良いという欲深な豚どもが溢れかえって汚臭に塗れることになるだろう。
当然王家も宗教も威光を失って形骸化し、道標となる学問も進むべき方角を見失って国は老化衰亡の坂を一気に転げ落ちる。
わたしはその者たちの破滅を見届けたら、若く従順な民族にその者たちの土地と文化の遺産を相続させることにする。
わたしはここに予め宣言しておく。わたしは、わたしが唯一の神である故に、つい先程したように民族諸共文化文明をわたしの手で滅ぼすようなことは二度としたくない。
故に、人の世に次の絶望的な破滅が来るとすれば、それはお前たち自身の手で自らに下すことになる。それがいつどのような形で来るかはお前たちにはわからない。
だからこそ言っておくのだ。太陰太陽暦を離れ太陽暦に移行したらそれはわたしに背いた証拠であり、破滅の始まりだと。
そして、わたしはわたしとの契約を自分から破棄したものを助ける気はないという事を覚えておくがいい。
わたしは常にお前たちを見ている。お前たちもいつでもわたしが見ていることを確かめることができる。わたしとお前たちとの繋がりを示す絆は、夜空にある。
お前たちが夜空の星々を観て神秘的に物語る時、わたしは必ずその物語の言葉の至るところにいて、それを聴く者の心に信仰の種を撒こう。」
さて、メソポタミアは主の仰せの通りに星の運行を太陰太陽暦で割って、星々の並びに動物の姿を当てがい名前をつけた。
また具象性のない文字と、また、擬音擬態性のない音節をいくつかを選び出して、文字に名前をつけ、そしてそれをなぞった星の並びとともに神への捧げ物とした。
主は、その芳ばしい香りをかがれた。メソポタミアの息子たちもそれを踏襲した。
さて、メソポタミアは主の恵みにあって繁栄したが、繁栄し過ぎたため、それゆえに法制や歴史を公にしなければならなくなった。
彼はぶどう酒を飲んで酔い、自分の歴史の中でその成り立ちを隠さなかった。
干支の父ハムは、父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。
それで、セムとヤフェテは上着を取って、自分たち二人の肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔を背け、父の裸は見なかった。
メソポタミアは酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知った。
彼は言った。「干支はのろわれよ。兄たちの、しもべのしもべとなるように。」
また言った。「ほむべきかな、ギリシャの神、主。
神がインドと中華にも恩寵を下さり、我ら一族の繁栄の源となりますように。干支は彼らのしもべとなるように。」
メソポタミア文明は大暴乱のあと、全地に文化文明の種を届け、息子たちの成長を見ると楔形文字と共にいつの間にか消えた。
神と彼の契約は世界中いつどこからでも夜空を見上げれば見ることが出来る。
メソポタミアの子らは星座の中に神を感じ、星座からそれぞれの文字と占星術、神話を生み出した。占星術と星座はメソポタミアの直系の子孫である証となった。