翌朝、寝つけず朝を迎えた王の心は堅く決まっていた。王は相談役として彼の漂流者を呼びに使いを遣ったが、何ということか、漂流者は一足早く寄航していた船に乗ってこの国を後にしてしまったという。ただ、用が済んだ故、国に帰るという託けだけを残して。
王は出足から挫かれてしまったことに拍子抜けしたが、彼の身になってみれば、この国にも自分に対しても、恩も思い出もなかろうと察し、正直船を出して彼を連れ戻したかったが、連れ戻したところで彼が素直に引き受けるとは考えられず、悔し紛れにほくそ笑みながら、「これでいいのだ」と独り繰り返した。
王は重臣と親族を集めて自分の決意を伝えた。会議は紛糾した。誰一人見たこともない、しかも王は土いじりをしていて、未だに神に生贄を奉げているような国から来たという、胡散臭い漂流者の言葉などを信じてなるものかと。
それよりも、まだこの国には十分な富を持たない者がいるのだから、その者のためにもさらに富を求めることの方が国のためになると言う者もいた。そもそも悲しみを求めるというのが正気の沙汰ではない、悲しみこそ幸福の最大の敵ではないかと。
王は反論した。確かに喜びは太陽のように輝かしく、力を漲らせる。しかし太陽ばかりが照り続けていれば、我々の心は枯れてしまう。草木が生い茂るためには雨が必要だ。我々がさらなる繁栄を遂げるためには悲しみが必要なのだと。
また王はこうも言った。思うに、悲しみは貨幣のようなものだ。それが貨幣でなければ数字がいくらならんでいたとしても紙切れにすぎず、財産とは言えない。我々は悲しみを得ることによって、いまある富を以て本物の幸福を購うことができるのだ、と。
いつに無く王は熱弁を奮った。実はそこまで悲しみについて考えていなかったが、口をついて出た言葉になるほどそうかと納得し、勢いに乗って言葉が弾んだ。
また悲しみがひどい差別と敵意を以て迎えられている有様が、昨日耳にした詞の情景と重なり、そこから悲しみを救い出そうとしている自分は、いつしか悲しみの心を開いて、悲しみと結ばれるような気がし、急に胸が高鳴ってきた。
王が国民に意を問うと、見事に国は二つに分かれた。賛成派も反対派も自分たちこそ王を助け、国を守るものといって譲らず、各地で諍いが起き、日が経つにつれ騒ぎは大きくなった。中には公然と軍備を整えはじめている者共もいた。
あまりの急展開に王は寒気を覚えた。悲しみだの富だのは瞬時にして頭から消え去り、強烈な焦りを感じた。しかし、王が寝食忘れて策を思いついた時には、騒動は次の段階に達していて、どうにも手のつけられぬ状態であった。
街に出ると、どこもかしこも不気味なほど閑散としていた。眩いほど富と栄光に輝いていた都は生気が無く、人影も疎らだった。王が人家を叩いて事情を尋ねようとしたとき、どこからか「戦だ!」という叫び声が聞こえた。
馬に駆って荒野を疾走しながら、王は不図、自分の側を離れず、ぴたりとついてくる影に目を奪われた。次の瞬間、王はどこからか飛んできた矢に胸を貫かれ、落馬した。
しかし王は自分流れ矢に当たったことも、馬から放り出されたことも気づいていないのか、目を見開いて影を見つめたまま、自らの影に吸い込まれるようにして大地に落ちた。そして王は一言、そんなところにいたのか、と呟き、悲しそうに顔を歪めて、目を閉じた。……
王の負傷と落馬の報が両軍に広まり、一時両軍は戦いの手を止めてどよめいていたが、どこからともなく嘆きの声があがると、それは大地を震わすような雄叫びに変わり、やがて誰が言うともなく、兵士たちは武器も防具もかなぐり捨て、騎乗の者は馬から降り、敵味方無く乱闘を始めた。
大乱闘の一角で、王は大地に倒れ伏したまま、動こうともしなかった。駆けつけた側近の者共が助け起こそうとしても、そのままに、と小さく制止しただけで、冷たい大地とそこを湿らす自らの血の温もりを感じ取ろうとしているようでもあった。
「悲しみ
影のように生きる
愛の隠し子よ
お前は恨んだであろう
喜びがあんなにも明るく、活き活きとしていて
人々に迎えられたことを。
同時に生まれた自分が
まるで罪のように暗かったことを思えば。
図らずも私もお前を見つけた。
しかしお前を美しくはすまい。
私はお前が美を持つことよりも
お前がいつも人々の側にていてくれることを望む。
そして、お前の胸に倒れるものを
しっかりと抱きとめて欲しいと願う。
悔いや憎しみに、人々が心を奪われないように。
さあ、今度はお前が酒を飲め。
汗も涙も残さず啜るがよい。
一頻り酔い痴れたら
お前の同胞である喜びと共に
人々の杯を満たしてやるがよい」
いつしか雨が降りはじめていたが、次第に強さを増してくると、人々は倒れたままの王を気遣い、すでに事切れている王の亡骸をそっと運んだ。王の倒れていた地面には、王の体を象った影のような血痕がいつまでも残っていた。
王の葬儀は四十日間続いた。
完
王は出足から挫かれてしまったことに拍子抜けしたが、彼の身になってみれば、この国にも自分に対しても、恩も思い出もなかろうと察し、正直船を出して彼を連れ戻したかったが、連れ戻したところで彼が素直に引き受けるとは考えられず、悔し紛れにほくそ笑みながら、「これでいいのだ」と独り繰り返した。
王は重臣と親族を集めて自分の決意を伝えた。会議は紛糾した。誰一人見たこともない、しかも王は土いじりをしていて、未だに神に生贄を奉げているような国から来たという、胡散臭い漂流者の言葉などを信じてなるものかと。
それよりも、まだこの国には十分な富を持たない者がいるのだから、その者のためにもさらに富を求めることの方が国のためになると言う者もいた。そもそも悲しみを求めるというのが正気の沙汰ではない、悲しみこそ幸福の最大の敵ではないかと。
王は反論した。確かに喜びは太陽のように輝かしく、力を漲らせる。しかし太陽ばかりが照り続けていれば、我々の心は枯れてしまう。草木が生い茂るためには雨が必要だ。我々がさらなる繁栄を遂げるためには悲しみが必要なのだと。
また王はこうも言った。思うに、悲しみは貨幣のようなものだ。それが貨幣でなければ数字がいくらならんでいたとしても紙切れにすぎず、財産とは言えない。我々は悲しみを得ることによって、いまある富を以て本物の幸福を購うことができるのだ、と。
いつに無く王は熱弁を奮った。実はそこまで悲しみについて考えていなかったが、口をついて出た言葉になるほどそうかと納得し、勢いに乗って言葉が弾んだ。
また悲しみがひどい差別と敵意を以て迎えられている有様が、昨日耳にした詞の情景と重なり、そこから悲しみを救い出そうとしている自分は、いつしか悲しみの心を開いて、悲しみと結ばれるような気がし、急に胸が高鳴ってきた。
王が国民に意を問うと、見事に国は二つに分かれた。賛成派も反対派も自分たちこそ王を助け、国を守るものといって譲らず、各地で諍いが起き、日が経つにつれ騒ぎは大きくなった。中には公然と軍備を整えはじめている者共もいた。
あまりの急展開に王は寒気を覚えた。悲しみだの富だのは瞬時にして頭から消え去り、強烈な焦りを感じた。しかし、王が寝食忘れて策を思いついた時には、騒動は次の段階に達していて、どうにも手のつけられぬ状態であった。
街に出ると、どこもかしこも不気味なほど閑散としていた。眩いほど富と栄光に輝いていた都は生気が無く、人影も疎らだった。王が人家を叩いて事情を尋ねようとしたとき、どこからか「戦だ!」という叫び声が聞こえた。
馬に駆って荒野を疾走しながら、王は不図、自分の側を離れず、ぴたりとついてくる影に目を奪われた。次の瞬間、王はどこからか飛んできた矢に胸を貫かれ、落馬した。
しかし王は自分流れ矢に当たったことも、馬から放り出されたことも気づいていないのか、目を見開いて影を見つめたまま、自らの影に吸い込まれるようにして大地に落ちた。そして王は一言、そんなところにいたのか、と呟き、悲しそうに顔を歪めて、目を閉じた。……
王の負傷と落馬の報が両軍に広まり、一時両軍は戦いの手を止めてどよめいていたが、どこからともなく嘆きの声があがると、それは大地を震わすような雄叫びに変わり、やがて誰が言うともなく、兵士たちは武器も防具もかなぐり捨て、騎乗の者は馬から降り、敵味方無く乱闘を始めた。
大乱闘の一角で、王は大地に倒れ伏したまま、動こうともしなかった。駆けつけた側近の者共が助け起こそうとしても、そのままに、と小さく制止しただけで、冷たい大地とそこを湿らす自らの血の温もりを感じ取ろうとしているようでもあった。
「悲しみ
影のように生きる
愛の隠し子よ
お前は恨んだであろう
喜びがあんなにも明るく、活き活きとしていて
人々に迎えられたことを。
同時に生まれた自分が
まるで罪のように暗かったことを思えば。
図らずも私もお前を見つけた。
しかしお前を美しくはすまい。
私はお前が美を持つことよりも
お前がいつも人々の側にていてくれることを望む。
そして、お前の胸に倒れるものを
しっかりと抱きとめて欲しいと願う。
悔いや憎しみに、人々が心を奪われないように。
さあ、今度はお前が酒を飲め。
汗も涙も残さず啜るがよい。
一頻り酔い痴れたら
お前の同胞である喜びと共に
人々の杯を満たしてやるがよい」
いつしか雨が降りはじめていたが、次第に強さを増してくると、人々は倒れたままの王を気遣い、すでに事切れている王の亡骸をそっと運んだ。王の倒れていた地面には、王の体を象った影のような血痕がいつまでも残っていた。
王の葬儀は四十日間続いた。
完