みなさん御存知のとおり、松下年宏が2018シーズンを以てユニフォームを脱ぐ決断を下しました。
みなさんもそうだったように、2018年12月12日に鹿児島ユナイテッドFCから契約満了の旨が公表されたときに、それがしは彼が引退するであろうことを予期しました。
なので、この引退発表に驚きは微塵もありませんでしたが、寂寥感は思いのほか、強く覚えました。
松下がアルビレックス新潟に加入したのは、2006シーズンの夏。
期限付き移籍でした。
干支でいえば、もう一回り前の話です。
内田潤が鹿島アントラーズから完全移籍したのと同時期。
内田の移籍が明らかになったのは6月9日。
松下のそれも6月9日。
2006季にアルビレックス新潟のことを応援していた人たちは、一度に2人の選手補強があったものですから大騒ぎしたものです。
ただ、当時の監督・鈴木淳さんに早くに使われ出したのは松下でした。
“せっかく完全移籍で獲得したのに、内田はまだかあ”と、あの当時はよく思ったもの。
しかし、シーズン終わってみれば、内田は9月以降に右サイドバック先発に固定。
松下も、途中起用が専らだったのが、スタメンに定着。
J1リーグ残留も果たし、良き補強と結論付けられました。
2005シーズンの菊地直哉がそうだったように、ガンバ大阪に帰還するだろうと覚悟していた松下が、2007シーズンも新潟でプレーすると決まったときは意外でした。
同時に、その期限付き移籍延長が嬉しかった。
そして背番号が「7」に変更されて、たまげました。
流石に、2008シーズンはG大阪に復帰だろうと予想していたら、引き続き新潟に残ると決まった際には、複雑でした。
“また期限付き移籍延長かよ”と。
完全移籍しちゃいないよ!と、半ば毒づいたものです。
確か、新潟の応援者の多くが同じように、完全移籍への移行を口にしたり、ネットで訴えたりしましたよね。
そして遂に新潟に完全移籍。
2009季の彼は、リーグ戦全34ゲームに出場、うち先発は32試合。
リーグカップと全日本サッカー選手権にも全試合起用。
そしてリーグ戦では、シーズン自己最多の4得点を記録。
松下年宏のシーズン別個人記録を眺めると、完全移籍を果たした2009シーズンが、数字の上では彼の絶頂期だったことが判ります。
あ〃それなのに、完全移籍して1シーズンで新潟を退団。
2009シーズンが終わって、北野貴之(たかし)と千代反田充も他クラブへ移籍したので、2009年12月と2010年1月の新潟サポーターの荒れっぷりは尋常じゃなかった。
別れの挨拶「ビジョン」で、特に北野に怨嗟の声が集中したけど、松下にも完全移籍して僅か1シーズンでの離籍に非難の声が浴びせられたものでした。
予も、弊ウェブログでは大ぴっらには書きこそしませんでしたが、内心は腹が立って、腹が立って。
2010シーズンは、北野にも千代反田にもでしたが、移籍先であんまり結果を残すな!と拙は念じていました。
だって癪に障るから。
そうしたら松下はFC東京で、前のシーズンより著しく出場時間を減らします。
リーグ戦では21試合、1222分の出場に。
でも、松下が段々とF東京で使われなくなって、切なくもなりました。
結果を残すな、そう願った自分にもバツの悪さを感じるようになり。
新潟で大いに活躍して、結果を挙げた選手です。
賛辞を送って、完全移籍が成立した際には、万々歳した選手です。
アルビレックスでのプレーが評価されて引き抜かれた選手です。
敵対するクラブの一員になったとはいえ、そこは「元新潟選手」、心の奥底では華々しい活躍を願っていたんでしょう。
これまた1シーズンでベガルタ仙台に籍を移すとなったときには、だから強く落胆しました。
あの当時、度々夢想しました。
もしも松下が新潟に留まっていたら、と。
移籍した名古屋グランパスであまり使われていなかった千代反田にもそう妄想したのですが、新潟で引き続きプレーしていたら、と詮無いことを幾度もしました。
でもこれも彼の人生、彼の選んだ道。
松下年宏選手、おつかれさまでした。
2006~2009シーズンの貴方の新潟に対する貢献に、時間が掛かりましたが、この場で御礼申し上げます。
みなさんもそうだったように、2018年12月12日に鹿児島ユナイテッドFCから契約満了の旨が公表されたときに、それがしは彼が引退するであろうことを予期しました。
なので、この引退発表に驚きは微塵もありませんでしたが、寂寥感は思いのほか、強く覚えました。
松下がアルビレックス新潟に加入したのは、2006シーズンの夏。
期限付き移籍でした。
干支でいえば、もう一回り前の話です。
内田潤が鹿島アントラーズから完全移籍したのと同時期。
内田の移籍が明らかになったのは6月9日。
松下のそれも6月9日。
2006季にアルビレックス新潟のことを応援していた人たちは、一度に2人の選手補強があったものですから大騒ぎしたものです。
ただ、当時の監督・鈴木淳さんに早くに使われ出したのは松下でした。
“せっかく完全移籍で獲得したのに、内田はまだかあ”と、あの当時はよく思ったもの。
しかし、シーズン終わってみれば、内田は9月以降に右サイドバック先発に固定。
松下も、途中起用が専らだったのが、スタメンに定着。
J1リーグ残留も果たし、良き補強と結論付けられました。
2005シーズンの菊地直哉がそうだったように、ガンバ大阪に帰還するだろうと覚悟していた松下が、2007シーズンも新潟でプレーすると決まったときは意外でした。
同時に、その期限付き移籍延長が嬉しかった。
そして背番号が「7」に変更されて、たまげました。
流石に、2008シーズンはG大阪に復帰だろうと予想していたら、引き続き新潟に残ると決まった際には、複雑でした。
“また期限付き移籍延長かよ”と。
完全移籍しちゃいないよ!と、半ば毒づいたものです。
確か、新潟の応援者の多くが同じように、完全移籍への移行を口にしたり、ネットで訴えたりしましたよね。
そして遂に新潟に完全移籍。
2009季の彼は、リーグ戦全34ゲームに出場、うち先発は32試合。
リーグカップと全日本サッカー選手権にも全試合起用。
そしてリーグ戦では、シーズン自己最多の4得点を記録。
松下年宏のシーズン別個人記録を眺めると、完全移籍を果たした2009シーズンが、数字の上では彼の絶頂期だったことが判ります。
あ〃それなのに、完全移籍して1シーズンで新潟を退団。
2009シーズンが終わって、北野貴之(たかし)と千代反田充も他クラブへ移籍したので、2009年12月と2010年1月の新潟サポーターの荒れっぷりは尋常じゃなかった。
別れの挨拶「ビジョン」で、特に北野に怨嗟の声が集中したけど、松下にも完全移籍して僅か1シーズンでの離籍に非難の声が浴びせられたものでした。
予も、弊ウェブログでは大ぴっらには書きこそしませんでしたが、内心は腹が立って、腹が立って。
2010シーズンは、北野にも千代反田にもでしたが、移籍先であんまり結果を残すな!と拙は念じていました。
だって癪に障るから。
そうしたら松下はFC東京で、前のシーズンより著しく出場時間を減らします。
リーグ戦では21試合、1222分の出場に。
でも、松下が段々とF東京で使われなくなって、切なくもなりました。
結果を残すな、そう願った自分にもバツの悪さを感じるようになり。
新潟で大いに活躍して、結果を挙げた選手です。
賛辞を送って、完全移籍が成立した際には、万々歳した選手です。
アルビレックスでのプレーが評価されて引き抜かれた選手です。
敵対するクラブの一員になったとはいえ、そこは「元新潟選手」、心の奥底では華々しい活躍を願っていたんでしょう。
これまた1シーズンでベガルタ仙台に籍を移すとなったときには、だから強く落胆しました。
あの当時、度々夢想しました。
もしも松下が新潟に留まっていたら、と。
移籍した名古屋グランパスであまり使われていなかった千代反田にもそう妄想したのですが、新潟で引き続きプレーしていたら、と詮無いことを幾度もしました。
でもこれも彼の人生、彼の選んだ道。
松下年宏選手、おつかれさまでした。
2006~2009シーズンの貴方の新潟に対する貢献に、時間が掛かりましたが、この場で御礼申し上げます。