毎日8000歩以上歩く事を決めている私…
仕事の日は、全く余裕の歩数なのですが
休日になると… かなりやばいです。
という事で近所を歩いて歩数を稼ぎます。
家の近所で、皆様に紹介できる物はこれくらいか…
川端王子 って 熊野古道の九十九王子 の一つです。
敷地内には、看板がいくつか有り。
川端王子跡看板に有る日本語の文字は
後鳥羽上皇や修明門院の御幸に随行した藤原定家や藤原頼資
は、吐前王子に参ったのち、日前宮の奉幣使として、御幸の一
行と別れ、日前宮に参拝しています。その後、両人は和佐・平
緒王子社に参らずに、奈くち (菜口)王子社に参拝するの
が、川端王子は中世の参詣記には登場しません。したがって、
中世には、この王子社は無かったものと考えられます 。しか
し、江戸時代初頭の頃には、二社の和佐王子社があったそう
す。一社は坂本 (和佐王子)で、他の一社は元は熊野古道沿い
の川端にあったのが、現在地に移されたといわれます。この王
子社が、川端王子と呼ばれるようになったようです。明治時代
に高積神社に合祀されて、建物は取り壊されましたが、地元の
人たちがこの小祠を建て、今に残されているのです。
は、吐前王子に参ったのち、日前宮の奉幣使として、御幸の一
行と別れ、日前宮に参拝しています。その後、両人は和佐・平
緒王子社に参らずに、奈くち (菜口)王子社に参拝するの
が、川端王子は中世の参詣記には登場しません。したがって、
中世には、この王子社は無かったものと考えられます 。しか
し、江戸時代初頭の頃には、二社の和佐王子社があったそう
す。一社は坂本 (和佐王子)で、他の一社は元は熊野古道沿い
の川端にあったのが、現在地に移されたといわれます。この王
子社が、川端王子と呼ばれるようになったようです。明治時代
に高積神社に合祀されて、建物は取り壊されましたが、地元の
人たちがこの小祠を建て、今に残されているのです。
と有るはずです。(久々の文字認識…(^^ゞ)
こちらには、熊野古道に関係する施設の説明が
ココにある所は、ほぼ私のブログに上がっていたり
しますけど…(^^ゞ
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