今回は梅の時期なのですが、梅の南部を通り越し
田辺で昼食を食べて熊野方面に行くことに
確か昨年、テレビで雑煮の話をしていて、
和歌山に雑煮の中にお餅を入れない所が有る
って事を知り、行ってきました。
場所は田辺市鮎川 と書くと範囲がすごく広いので
元小川と言う集落です。
ちょっとわかりませんが
このような碑と
下記のような看板が設置されていました。
内容は最近こだわっている 一太郎padで…
餅搗かぬ里一
六世紀の風習を破り
お詫びの餅献上
紀州細川村民の恐懼
大塔宮様
話挿一の祭年百六
逆臣の兇刃に御最期を遂げ給ひし大塔宮護良親王の六百
年祭は来る十八日より三日間、御最期の地鎌倉の官弊中
社鎌倉宮で盛大に挙行され、殊に大祭当日の十九日は
祭典の御模様を全国に中継放送することになっているが、
この輝く、六百年祭を前に紀州鮎川の一寒村が六百年の風
習を破ってはじめて餅を搗き同宮大祭に献ずることとなった。
しかもこれは実に六百年前、戦塵妖雲の巷に落ち延び給う大塔宮様
に対し祖先が冒せし過ちに対し全村民が今にして捧ぐる悔悟の結晶なの
である元弘元年十月二十九日の夜大塔宮護良親王には逆賊討伐の戦いに
利あらず、追ってを避けさせられつつ供奉の人々と共に紀州鮎川に落ち給
うたが深夜険路の御長途に携へ給う食もなく空腹の限りに在らせられた、
その時村は亥の子祭で展家は戶每に粟餅を作り軒先に吊るしていた
宮にはせめてこれでもと思召し餅を所望されたところ、農家ではすでに
「落ち人には食を与えてはならなぬ」との禁令がまわっていたので後難を恐
れて之を拒み奉った、落ち人の身の如何ともし難く宮の御一行は空腹の儘
落ち延び給うた 村人はその後これが大塔宮の御一行と知り大に恐懼、以来
六百年全村民正月と雖も餅も搗かず、ひたすらに宮に対する遺真をしてい
たが、今年輝く六百年公の御盛儀を聞き伝え、水風習を破ってはじめて
餅を搗き村民の代表が東上、十九日神前に棒げ六百年の過去のお許しを今
うことになりこれを機会に正月の餅搗きの行事と復活すると言う。
六世紀の風習を破り
お詫びの餅献上
紀州細川村民の恐懼
大塔宮様
話挿一の祭年百六
逆臣の兇刃に御最期を遂げ給ひし大塔宮護良親王の六百
年祭は来る十八日より三日間、御最期の地鎌倉の官弊中
社鎌倉宮で盛大に挙行され、殊に大祭当日の十九日は
祭典の御模様を全国に中継放送することになっているが、
この輝く、六百年祭を前に紀州鮎川の一寒村が六百年の風
習を破ってはじめて餅を搗き同宮大祭に献ずることとなった。
しかもこれは実に六百年前、戦塵妖雲の巷に落ち延び給う大塔宮様
に対し祖先が冒せし過ちに対し全村民が今にして捧ぐる悔悟の結晶なの
である元弘元年十月二十九日の夜大塔宮護良親王には逆賊討伐の戦いに
利あらず、追ってを避けさせられつつ供奉の人々と共に紀州鮎川に落ち給
うたが深夜険路の御長途に携へ給う食もなく空腹の限りに在らせられた、
その時村は亥の子祭で展家は戶每に粟餅を作り軒先に吊るしていた
宮にはせめてこれでもと思召し餅を所望されたところ、農家ではすでに
「落ち人には食を与えてはならなぬ」との禁令がまわっていたので後難を恐
れて之を拒み奉った、落ち人の身の如何ともし難く宮の御一行は空腹の儘
落ち延び給うた 村人はその後これが大塔宮の御一行と知り大に恐懼、以来
六百年全村民正月と雖も餅も搗かず、ひたすらに宮に対する遺真をしてい
たが、今年輝く六百年公の御盛儀を聞き伝え、水風習を破ってはじめて
餅を搗き村民の代表が東上、十九日神前に棒げ六百年の過去のお許しを今
うことになりこれを機会に正月の餅搗きの行事と復活すると言う。
これだけ看板が汚れていても、それなりに認識できるとは。
餅の代わりに食べていたのは、すごい芋だったと思うのですが
その情報はココには書かれていませんでしたね。