ボランティアサークル「ビーンズ会」

ビーンズ会の活動内容などを紹介。
ボランティア情報や事務局長(私)の日常など・・・。

稲刈り1

2009-09-18 20:34:35 | 昔のこと
巷では稲刈りは終盤に差し掛かっているのでしょうか?
私のうちは水のみ百姓だったので、小さい頃課の春夏秋冬家の仕事を手伝わされていました。
今でこそコンバイン・乾燥機が主流ですが、私の小さい頃は手刈り・ハサ掛け・足踏み脱穀機当たり前の時代でした。
少し時代が進むと、電動モーターのベルト掛け脱穀機へとなっていくのですが、それでもマンパワーが全ての農業の時代でした。
ハサ掛けした稲を脱穀の場所へと運ぶのは、もっぱら子供達の仕事でした。
そんな作業をした夜の風呂は、大変なものでした。
稲の禾が首やら背中やら、体中に刺さっていて、お風呂に入る時超刺激的にヒリヒリするのです。
もっとも、風呂に入らないと、痒くて痒くてたまらないのですが。
今は、そんな思いをする子供達もほとんどいないのでしょうね。
懐かしい昭和の機械化されていない頃の農業風景です。
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水鉄砲、紙鉄砲

2009-09-01 20:28:46 | 昔のこと
この間のちびまるこちゃんで、水鉄砲のお話を放映していました。
今日、妻がどこからか竹筒を2つ貰ってきました。
子供達に水鉄砲を作ってやりたいようです。
太い。直径は10センチあまり。しかも、枝があった部分がへこんで歪になっている。
しかし、ピストン用シャフトの細い竹がありません。
インターネットで先ほど、作り方は覚えたのですが、ホント太すぎ!こんなに太いと押し出すのが大変そう。
どうやって作ろうか思案中です。
そういえば子供の頃、水鉄砲ならぬ紙鉄砲を作って遊んだ思い出があります。
野竹を切ってきて、ピストン用のシャフトは家から失敬してきた竹の箸。
玉は雑誌や新聞紙を破いて、口にほおり込み、ぐちゃぐちゃと何回も噛んで丸めたもの。
シャフトを勢い良く押してやると、ポンと大きな音を立てて10メートルは飛んだように記憶しています。
近所の子供達とそれで、戦争ゴッコをして遊びました。
今では、そんな光景を見かけることはなくなりました。
お金も物も無かった、でも知恵と工夫のあった良き時代だと思います。
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サタナビっ!商品券ゲットしたいね

2009-08-15 10:45:39 | 昔のこと
私が東京で働いていた頃、盆、正月に帰省したときの職場へのお土産は、決まって湯沢のお菓子メーカーの葛餅(くらたの千秋)でした。
湯沢にも工場があり、秋田県出身の社員が多い会社だったので、お土産がかぶることも。
私が18歳、隅田川がまだ臭かった昭和50年頃の話。今よりは、多くの人がおおらかだったようにも思います。
ちなみに私は皆瀬村の出身です。
岩城の改造人間より

と、まあテーマ「おみやげ」にあわせてメールを送りました。
商品券1万円当たるといいのですが・・・。
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熱々の蒸かしジャガイモ

2009-08-02 19:48:11 | 昔のこと
一昨日、妻の同僚から大きなジャガイモを戴いた。
今日の夕食に、上った熱々の蒸かしジャガイモ。
バターを生憎いらしていたので、最初は塩を振り熱々を頬張った。
旨い!
次ぎは、マヨネーズをたっぷりかけて頬張った。
旨い!
バターが無いのがちょっと残念である。
子供の頃、夏場は良く川に皆で遊びに行ったのだが、ジャガイモと、鍋と塩もって行った。
川岸に転がっている流木を集め、大き目の石を組んでかまどをつくる。
川の水を鍋に汲んで、ジャガイモを煮る。
たまに捕まえた魚は、木の枝に刺しあぶる。
物がない貧乏な時代の、川遊び後の豪勢なおやつである。
今の子供達ってこんなことしているのかなあ?

ちなみに今日のジャガイモは、熱々すぎて、口の中が火傷状態です。
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夏といえば

2009-08-01 09:46:02 | 昔のこと
おはようございます。
サタナビっ!で「夏といえば」でメッセージを募集している。
1名の方に商品券1万円が当たる!
早速妻が、FAXを送った。
私の「夏といえば」川遊び!
私は旧皆瀬村の生まれ。夏休みの天気のいい日は決まって、子供達がそろって川に泳ぎに行ったものだ。
川の深さで小学生が泳げるところと、中学生が泳げるところが決まっていた。
私の集落の2km上流に小安峡の大噴湯があり、川の水はぬるかったので、夜も泳ぎに行った。
小2の頃であるが、夜泳ぎに行って、深みにははまりおぼれたことがある。
気がついたら岸に上げられて、水を吐かされていた。
誰にも気付かれていなかったら、この文章は存在しなかったろう。
今、こうして生きていることに感謝しよう。
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世紀の天体ショー?

2009-07-22 10:09:43 | 昔のこと
おはようございます。
今日は日蝕が見られるとのこと。奄美大島などでは皆既日蝕が日本では46年ぶりに見ることが出来ると言うことで、沢山の人が島に押し寄せていると、情報番組では数日来報道されていますね。
ところが現地は雲が広がっているようです。
ここでも部分日蝕は見ることが出来るとのことでしたが、生憎の雨。
これが晴れていたなら、小中学校では授業を中断しても、日蝕を見るのではないかなと思ったりします。
そういえば、私が小学校のまだ湯元分校に通っていたころにも日蝕があり、授業を中断して、みんな下敷きを持って校庭に出、太陽をにらめた記憶がかすかに残っています。
あれから四十数年の月日が経っている。
当時を思い出すと懐かしさがこみ上げてきます。
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びっくりグミ酒

2009-06-27 22:00:49 | 昔のこと
妻が昼に、4月に他の支所に転勤になった元上司の家から、びっくりグミをボールひとつ分くらい戴いてきました。
妻はグミ酒作りたいとのことで、上の子とグミの選別をしました。残ったのは500グラム。結構な量です。
上の子はこのグミが気に入ったようで、結構な個数を食べていました。甘酸っぱいそしてちょっと渋い味に魅了されたのでしょうかね。明日のウンチがちょっと心配ではありますが。
妻は近くのスーパーからリカーと氷砂糖を購入してきて、仕込んでいました。2ヵ月後が楽しみです。
グミといえば、私の生まれたところでは「さぐみ」と言っていた記憶があります。
私のうちにも小さなタナゲ(池)のほとりに木が有って、この時期のおやつ代わりでした。
ただ木が小さく、すぐなくなってしまうのが難点でした。
以前紹介した発電所の敷地内にもグミの木が有って、そこのも私の胃袋にも収まっていました。
発電所の人も、別に怒るでもなく許してくれていたのを思うと、貧困の時代を過ごしてきた人たちの寛容さを、今改めて思う次第です。
今、多くの人に欠けている寛容さを。
(私は多分、今も私の周りの人の寛容さに生かされているのかもしれませんが・・・。)
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日活アパート

2009-06-20 21:10:04 | 昔のこと
東京にいた頃の事です。お金ががなくなると行ったのが2番目の兄のところ。
2番目の兄は芝に住んでいて、すぐ近くの行きつけのスナック センス が兄の河岸の一つだった。
このセンスが入っていた建物が、昭和30年頃建てられた豪華高層マンション「日活アパート」だった。
映画全盛の頃は、有名な映画俳優(石○○二郎など)をはじめとする著名人が多く住んでいたらしい。
センスのマスターは当時60は過ぎていたと思われるが、気品の溢れた紳士と言う感じで、穏やかに話をされる方だった。頭部もとても綺麗に手入れの行き届いた禿頭で、きりっと蝶ネクタイをしめていた。
私が、行った頃にはテナントも7割がたが閉められていて、入居者も数えるほどしかいないと言う話だった。
全盛だった頃は、有名俳優も数多く来店したとのことだったが、踏み倒しもかなりの額に上ったそうである。
そうしたことを恨むでもなく、懐かしい思い出を語るようにお話なさる方だった。
3.4年後にこの日活アパートは取り壊されるのだが、マスターは生まれ故郷に帰ったと言う話だったか、娘さんのところに行ったとか記憶は定かでないのだが、プロだと思える人だった。
1度だけ、卓を囲んだことがあるが、大3元を上がったことがある。麻雀の方は兄に言わせると、からっきし弱いらしい。
今そこは、ダヴィンチ芝パーク(82年建設?通称軍艦ビル)になっているが、
ここに入っている中華料理店で1度、兄のおごりで料理をご馳走になったことがある。
日活アパート。多くの思い出は無いが、懐かしい場所である。

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闇鍋

2009-06-05 20:00:25 | 昔のこと
子供の頃の話です。
滝の原発電所が出来てから、下流に在った発電所に引いていた隋道が使われなくなり、出入り口(メンテナンス用の穴)をふさぐことも無く放置されていました。全長2kmはあったと思います。
子供達はそこを格好の遊び場にしていました。
出入り口から50メートルくらい、堆積していた砂などを均し、かまどなどを作ってそこで芋などを煮たりして食べていました。
探検と称して、終着まで行ったりもしました。途中砂に埋もれて這わないと通れないところもあって、探検ムード満点です。
ほとんどがコンクリートでアーチ型に固められていましたが、終着手前300メートル付近からは岩をくりぬいた素掘りで、そこには蝙蝠も生息していて、これを捕獲したりもしました。(食べたりはしませんでしたが)
この隋道で1度、闇鍋をしたことがあります。確かリーダー格の中学生が言い出したと思います。
それぞれが、いろんなもの(基本的には食べられるもの)を持ち寄りました。ピーマンやナス、唐辛子にジャガイモ等。極めつけはまだ青い渋柿。味付けは味噌。
煮えたところで灯を消して、順番に箸を突っ込んで、つかんだものを食べると言う単純なものでしたが、結構わくわくして箸を突っ込んだ記憶が残っていますが、何を食べたかはもう忘れてしまいました。
今と違って、遊びの種類が豊富でなかった時代、子供達は工夫して遊んでいた良き時代でした。
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滝の原発電所2

2009-06-04 16:36:50 | 昔のこと
小学生の頃、見学と称して隣近所の子供と一緒に、発電所の内部を見せてもらったことが2,3回ある。
所員に案内されて、まずは事務所兼コンピュータ室。
穴あきのリボンが次から次と機械から出てくるのだが、別の所員がそれを手にとって読んでいる。すごいなあ~と思いながら説明を聞く。でも頭の中にはほとんど入っていない。
次に、非常用ブレーカー。ここの発電所は3000wの電力を生み出しているが、電圧も高いので、ブレーカーを下げても放電するので、高圧のエアーを吹き付けて放電を回避すると、説明を聞く。
いよいよ、発電部へ。地下の長く狭い階段(150段近くはあったろうか)を一気に50メートル下の発電装置のある建物へと降りていく。
轟音を鳴らして、発電装置が回っている。100メートル上から大量の水が一気に直径3メートルはある管を通ってくるのだから、当たり前であろう。
その音に興奮しながら、今度は外の階段を登るのだが、これが大変である。こちらの階段も結構急勾配で、上りきるとみんなはあはあ言いながら、呼吸を整えたものである。
今発電所は、完全にコンピュータ制御らしく、社宅に住む人もいないらしい。
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