ボランティアサークル「ビーンズ会」

ビーンズ会の活動内容などを紹介。
ボランティア情報や事務局長(私)の日常など・・・。

裏山に熊が・・・

2010-10-19 10:20:59 | 昔のこと
最近、全国で熊が住宅地に入り込んで、被害が続出しているようです。
今年は山に食べ物が少ないのでしょうかね。

私が小学校2,3年の頃の事ですが・・・。
秋も終わりの頃家の裏山の畑に母子の熊が出て、お袋がそれを発見。
畑と雑木の境界のあたりに、冬眠用の巣穴を作り始めたところだったと言う。
すぐさま、地元の猟友会が出て母熊を仕留め、その肉が集落の家々に配られました。
私も熊鍋にありついたのですが、どんな味がしたかは記憶に残っていません。
2,3日して子熊も仕留められましたが・・・。

共存は難しいのでしょうかね・・・?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目刺がメインディッシュの時代に

2010-10-15 19:52:08 | 昔のこと
私が子供の頃は、目刺と味噌汁とがっこ(漬物)が夕食のおかずだった時代です。
目刺一匹でご飯1杯、3匹はお皿にのっていたので3杯、あとは味噌汁と漬物で2、3杯は食べていました。

今日の夕食のメニューは、豚ロースと玉葱の旨辛炒め、豚汁、それに私の好物の目刺です。
頭から戴くのが礼儀。
下の子は1匹、上の子は3匹、私も3匹戴きました。
目刺、丸ごと戴くのが、お腹の苦味があいまって本当に美味しいですよね。
今夜は、焼酎お湯割がいつもにまして美味しい。

もちろん、豚ロースと玉葱の旨辛炒めと豚汁もとびっきり美味しかったのは言うまでもない。
誤解の無いように。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なべっこ遠足

2010-10-15 13:23:25 | 昔のこと
こんにちは。
やっと青空が見え陽が射してきました。

今回チリの落盤事故起こした鉱山は、銅鉱山と言うことで銅鉱山つながりで、私が小学生で湯元分校に通っていた頃の話しです。

湯元分校では毎年、秋の稲刈りが終わった頃に、徒歩で3時間近くの山の奥に、全児童・先生でなべっこ遠足をしていました。
朝早くに、それぞれがおにぎりとお椀と少しの野菜、班長さんは鍋を背負い、先生方は鉈や味噌、救急道具などを。
薪と鍋に入れるきのこは現地調達でした。
車の通れない山奥だったように記憶していますが、目的地は明治か大正のころ露天掘りで銅を採掘したと言うことで、あっちこっちに大きな穴が開いています。
なので、先生からはくれぐれも穴に落ちないよう気を付けるように!と訓告を受けたものです。
結局この鉱山は、銅の含有量が少ないと言うことで、すぐに閉鎖されたそうですが、道とは別にトロッコレールが敷かれていました。
今ほど科学が発達していない頃の事ですから、掘って見ないと儲かる山かどうか分からなかったのでしょうね。
一度、箸を忘れたことがあったのですが、先生がそのへんの小枝を適当に切って箸を作ってくれたりしました。

この廃鉱になったところに行く人は、今でもいるのでしょうかね?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

短靴はいでひっころんだ先生

2010-05-19 15:58:52 | 昔のこと
こんにちは。
雨が降ってきました。山菜が育ちますね。
この間上の子の運動会に行って思い出したことがありました。
4年生の途中までは小安小学校湯元分校だったのですが、運動会は本校で中学校、定時制分校の生徒さんと一緒の運動会でした。
朝早く分校に集まって、1時間かけて本校に歩いて行ってました。
行く途中、引率の先生が休憩の時に自作の歌を歌ってくれました。
確か歌詞は、

つくしは言った
春が来たね
嬉しいな
楽しいな
風も微笑んでいる

コードはマイナーでした。
この先生が自己紹介するときに、
私名前は 田口彦六、短靴(たんぐつ)履いで ひっ転んだ
と覚えてくれ・・・ と言うような紹介でした。
体育会系でめがねを掛けた、細身の先生でした。
当時で30歳くらいですから、今は70歳を越えたあたりですかね。
大曲の出身といってましたが、今、どちらに住んでいるのでしょうね?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プロレスは夫婦仲を険悪にする?

2010-05-11 09:12:38 | 昔のこと
おはようございます。
薄曇です。
ワールドカップの代表選手に川口選手がサプライズで選ばれたとの事。
チームのまとめ役が彼のもっとも期待されているところらしい。
スポーツにはあまり興味のない私ですが、スポーツ選手は選手としての活動時期が短いので、長きに渡って活躍して欲しいと思うし、こうしたベテランが選ばれることは、嬉しいですね。
現役で長くスポーツを続けられると言えば、プロレス(スポーツと言っていいのか少し疑問も残るところでしょうが)。
子供の頃、父と一緒にプロレスの番組を見ていた記憶があります。
当時のスターと言えば、ジャイアント馬場やアントニオ猪木。デストロイヤーやブルーのサンマルチノ。
ショーと言えばショーなのでしょうが、手に汗を握ってみていました。
どこかの家のお父さんが、テレビのプロレス中継に夢中になりすぎ、勢い余って奥さんにけりを入れてしまい、プロレスを見せてもらえなくなった。と言う話しもありました。
娯楽が少なかった時代の事です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秘密基地

2010-05-10 14:03:19 | 昔のこと
公園となりの集会所裏の崖に、子供達が秘密基地と称して、そこいら辺に転がっているガラクタを集めて遊んでいる。
秘密基地なのに丸見えではあるが・・・。
先日、上の子のクラスでは、学校裏の雑木林に秘密基地を作って遊んでいたのだが、仲間はずれが出来、ひいてはそれがいじめにつながるとのことで、出入り禁止になったと聞いた。
私が子供の頃は、脱穀が終わった稲藁の山の中に穴を作って、秘密基地にしたものだ。
本格的な秘密基地ではないが、伐採した杉林に大き目の枝を集めて小屋を作り、秘密基地を作った。
誰の秘密基地が一番かっこいいか仲間で競った記憶がある。
いつの時代も、子供達は自分だけあるいは、自分達だけのテリトリーを持ちたいようである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学校までの距離!(分校の思い出)

2010-04-21 20:44:45 | 昔のこと
お晩です。
上の子はソロバン教室で少しだけ宿題をしてきました。
家での宿題が、少しだけ早く終わりました。
上の子が通っている小学校までの距離は3キロ弱くらい?
時間にして30分。
以前は、あきた病院に行く時に学校の前を電動車いすで通っていました。(最近はほとんど行くことがありませんが)
私が子供の頃通っていた分校も、3キロくらいのようです(ウェブの地図で見ると)。
でも、なんかすごく遠かったような気がします。
山の中を通るし、曲がりくねっていたし。
もっとも、登下校の際には、季節折々の自然の恵みを頬張っていましたので、それなりに楽しみもありましたが・・・。
今は分校はありません。
4年生になって分校が廃止になって、保育園になったのですが、10年経った冬になだれで、綺麗さっぱりなくなりました。
校庭の桜の木に、私を含めた悪ガキ4人がいっせいに放尿して、先生に怒られたことも。
分校の思い出も、今となっては懐かしいものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紙のボール

2010-04-19 16:56:37 | 昔のこと
近くの公園で、高学年の小学生が数人、野球(3カクベース)をしていた。
そういえば、私が小さい頃も野球をして遊んだ。
紙を丸めたものを紐できつく縛り、ボールの代わりに。
バットは、いずれ薪に使われる木を鉈で削り、バットの代わりに。
グローブなんかいらなかった。
稲刈りが終わった後や、春先のまだ桑が入らない田んぼがグランドだった。
時々中学生が混じると軟式のボールやソフトボールなどで遊んだように記憶している。
ボールやバットが本物でなくても、子供達は工夫して遊んでいたように思う。
今の子供達はどうなのだろうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藁筒納豆

2009-12-18 09:37:11 | 昔のこと
おはようございます。
雪も一休みしているようです。が、夕方あたりからまた大雪になるようです。
とくダネ!で天達気象予報士が茨城からの中継で、藁筒納豆の製法をやっていました。
そういえば、私が小さかった頃、家でも藁筒納豆を作っていました。
煮た大豆を藁筒に入れ、熱湯をかけた後にカマスにいれ、藁や毛布などで来るんで臼にいれて、醗酵させていたのを覚えています。
工場などで作られる納豆は、煮た豆に納豆菌を混ぜて醗酵させるようですが、自家製は、藁筒に熱湯をかけることで、藁についている納豆菌の胞子の殻を開かせ自然発酵させるという、先人の知恵が生きている製法です。
米作りも、機械化が進んだ今、藁を確保することの方が難しい時代になりましたね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲刈り2

2009-09-19 21:10:30 | 昔のこと
私が家のものから稲刈りを許されたのは、多分小学校の高学年になってからだ。
刃の部分がギザギザの鋸状になっている稲刈り鎌。
下手をして手などを切ってしまうと手におえない傷口になってします。
そんなこともあり、なかなか持たせてもらえなかったようだ。
初めて鎌を持たせてもらい、母から稲の刈り方と縛り方を教わる。
今考えると、理にかなったものであったと思える。
中学にもなると、遠く4キロ近くも離れた田んぼ(実は通っていた中学校のすぐ下にも田んぼが3反部ほどあった)に、全員朝4時に起こされて、眠い目をこすりながら朝飯の握り飯を頬張り、40分ほどかけて暗い道を徒歩で行くのである。吐く息も白い。
現地についても、まだ薄暗い。星明りを頼りに作業を始めるのである。
半分ほど駆り終わった頃、学校に登校する生徒達がちらほら。
担任が通るときに、今日は学校を休むことを告げる。
山村である。農繁期は、学校を休む生徒も少なくない。
もっと昔は、農繁期に学校が休校ということが有ったらしいが、私の頃はなくなっていた。ちょっぴり残念に思ったものだ。
今はこうした光景はあるのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする