- 「いろいろな見方ができる」ということ自体、「私たちの霊格、人格が進んできている」ということなのです。
- 霊的成長が高まれば高まるほど、いろいろな角度から物事が見えるようになってくるのです。
- ただ単に多様であるだけでは駄目です。多様な認識は必要ですが、多様な認識が多様な結果だけに終わってしまったならば、「そこには何らの霊的努力がなかった」ということなのです。
- 「こういった見方もできる。ああいう見方もできる」と、さまざまに考えた上で、「では、現在ただいまの自分の仏性の許す限り、霊性の許す限り、全身全霊の判断として見て、どう結論づけるか」ということを出さなければいけないのです。これを回避してはならないのです。
『真説・八正道』 第2章 正見