- 生前、お経に対する理解は、いわゆる学者的な理解までしかいかなかったのだと思います。学者的に、漢文で書かれたお経を読むところまではいきましたが、悟りの本質をつかむところまではいかなかったわけです。
- おそらく、「作法を学ぶ」「お経を読む」といった、六次元程度の悟りまでが限度だったのでしょう。そして、人生の最後には、慢心と不遇観が残ったわけです。
- 「人間は、生まれつき❝仏様❞である。『生まれつき悟っている者』が悟りを開くだけだから、それは当たり前のことだ」という思想(天台本覚思想)だったため、修行論の部分が飛んで行ったわけです。これが、彼(最澄)の一乗思想です。
『不成仏の原理 霊界の最澄に訊く』p191~