TOKYO BAY AREA 

Sunset hills

byサントス

引き続き・・・・(その2)

2013-08-19 22:38:03 | old times

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大沢池を見て感じたことといえば、

直観的ですが極楽浄土ということ。

なんだか素敵な雰囲気です。

きっとこの地にはいろいろなドラマがあったのだと思う。

大覚寺は時間的に入れなかったが、

きっと素敵なところだと思う。

名古曽の滝も有名なところ、

水が流れているとまた違った情緒もわくのだろうが

その日は水が流れていなかった。

 

日ユ同祖という言葉が気にかかり、

太秦の地に訪れた。

大陸から秦氏がこの地に来たのは事実である。

 

高野山に景教の碑が祀ってあるとか、

親鸞が景教の経典を持っていたとか。

学問の一部として入ったものと、

宗教として入ったものとは意味合いが異なる。

遣唐使・遣隋使を使って多くの経典が日本に持ち込まれた。

その中には仏教と他の教えが未分類だったものも含まれたのではと思う。

仏教とてインドではヒンズー教の一派というとらえ方もあれば、

はたまた別の宗教ととらえることもある。

ヒンズー教では釈尊は聖人としてとらえられている。

 

インドではこの頃に仏教が滅びていく。

仏教を保護していた国の国力が下がったことと、

ヒンズー教徒からの弾圧、のちにはイスラム教の影響もある。

時代をかけて徐々に仏教はインドを離れていく。

そういった時の弾圧の中で

仏教は密教化していったのではないかと思っている。

 

上座部(今は小乗と言わない)と大乗、

日本からして南伝と北伝、

南伝が厳格に釈迦当時に近い形で伝わっているのに対し、

北伝は主として大乗仏教である。

とはいえ漢訳化された仏教には

時代の古いものから新しいものまであった。

仏教の伝来を538年と教わったが諸説がある。

私伝に至ってはもう少し早かったともいわれる。

6世紀初頭から日本には大陸文化が押し寄せる。

医療・学問・宗教・芸術・建築・・・・、

日本がある程度まとまり、

文字文化が定着し始めたのだと思う。

 

インドで滅びた仏教であるが、

形を変えて変化し続ける。

拝火教の影響を受けた浄土教・阿弥陀経も

やはり根底には釈尊がいる。

浄土のお寺さんを拝火教とは言わない。

釈尊滅後10世紀近くたってから成立した中期・後期密教も

やはり釈尊の教えが根底にある。

密教成立の頃には西洋の思想もインドに随分と入り込んでいると思うが、

密教をキリスト教徒は言わない。

根底にあるのは釈尊である。

そしてユリやバラではなく蓮の花である。

 

洋の東西、文化の交流でお互いに影響しあったことと思う。

そのことは否定しない。

ガンダーラの仏教美術なんかは

明らかに西洋の美術が取り入れられている。

それまで釈尊の存在を仏足石とか石の中央に丸の印としていたものを、

人物として描かれるようになったのもその頃からである。

とはいえそうであっても景教とは言わない。

 

半日歩いて思い感じたことは、

日本に失われたユダヤ人支族の末裔か、

ないしはそれを名乗る人達が大陸からきて

古代の日本に大きな影響をもたらしたこと。

そして宗教として文化を持ち込んだのではなく、

いわゆる風習に近い形で儀式祭礼を持ち込み

日本に定住し同化したのではないかということ。

宗教が国家の形作るのならば、

漢訳された聖書を仏教より先に広めたことかと思う。

 

色々と個人の意見を述べてみたが、

それとて推測の域を出ていない。

日ユ同祖、面白い投げかけであることには違いない。

これからもホットな話題を提供してくれるのだと思う。

石ころひとつの発見で歴史観などすぐに変わってしまう。

学生の頃、歴史は最も嫌いな学問だった。

というよりは勉強するのが嫌いだった。

記憶する力が弱く、深い考察などはもってのほかだった。

いい年になってそんな自分だったことに後悔する。

 

そして旅は楽しいものである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。