(難波宮跡公園内の大阪市文化財協会 難波宮調査事務所のパネルを元に加工しました)
この難波宮跡公園は、大阪市中央区法円坂にあり、大阪城の南西に位置しています。(上のパネルの中央大通りから長堀通りまでの間)
この辺りから天王寺方面までは上町台地と呼ばれている一帯で、大阪市内で一番の高台であり固い地質の地域です。
聖徳太子が物部氏との戦の折に、勝利を期して四天王寺を建立する願をかけたと言われる6世紀末頃は、この上町台地から西は海でした。今の大阪市内の半分が海の中だったのです。キタの梅田もミナミの難波(なんば)も海の底。
上の航空写真に「上町筋」を書き入れましたが、この南北に走る道路辺りから左(西)が海岸線だったと言われています。
前方は海、後方は生駒の山、南東に広がる河内平野。この自然が作った要塞の地に、蓮如上人が本願寺を築き、秀吉が大阪城を築く。でもその以前に、ここに都があったのです。幻の都・難波宮が。
それぞれの宮殿の基礎部があちらこちらに再現されているのですが、草が生え放題で、強者共が夢の跡といった趣き。まさに幻の宮殿跡
公園内をうろついているのはハト、ムクドリ、スズメ、たまにカラスといった具合。時たま犬の散歩をしている人に出会って、おっ人も居たと。これはちょっと大袈裟か。
年に何回か草刈りはするのでしょうが、これほどまで伸び放題の草原(?)を見たのは久しぶりで懐かしいような、でもここが史跡?でした。もう少し整備してきれいにできないものか。もったいない。大阪人は歴史に関心がないのか、残念です。
難波宮は、飛鳥時代と奈良時代の宮殿でした。
【前期・難波宮】飛鳥時代(652年~655年)
大化の改新後、天皇となった孝徳天皇は、血で汚された飛鳥からここ難波の地に都を移す。
皇太子だった中大兄皇子(後の天智天皇)の意志もあったに違いない。
難波長柄豊碕宮(なにわ ながら とよさき の みや)と呼ばれた。
しかし1年後にその中大兄皇子は、都を再び大和飛鳥に戻すことを求めた。
孝徳天皇はこれを拒否。
中大兄皇子は、主立った皇族、官人を引き連れて飛鳥に戻る。
難波宮に独り残された形になった孝徳天皇は翌年の654年に失意のうちに死去。大坂磯長陵(おおさか しなが みささぎ・現大阪府南河内郡太子町)に葬られたという。
この後、中大兄皇子の母で、前(さき)の天皇であった皇極天皇が再び天皇に付く。斉明天皇である。
都は難波宮から大和の後飛鳥岡本宮(のち あすか おかもと みや)に遷都。難波に都が置かれたはたったの3年だった。
と、まぁこれが前期難波宮の大雑把な内容ですが、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子の叔父にあたる孝徳天皇は、利用価値が無くなるとポイッと捨てられたようです。それでも天皇の意地を見せて難波に止まったこの孝徳天皇に私は親近感を覚えます。
【後期・難波宮】奈良時代(744年~745年)
726年に聖武天皇により造営に着手。18年後に平城宮よりこの難波宮に都が移されるも、わずか1年半ほどで、紫香楽宮(信楽)へ遷都。短かっ!
この紫香楽宮も短くすぐに平城京にまたまた遷都。
放浪の天皇とも呼ばれた聖武天皇が、一時期都に定めたこの難波宮は実に豪華絢爛だったと公園内の案内板にありました。
この宮殿の建造物は、784年に桓武天皇が長岡京に遷都した折に移されたということです。
1954年(昭和29年)に発掘調査が始まるまで、この難波宮は幻の宮殿として歴史の中に埋もれていました。
1961年(昭和36年)に奈良時代の後期難波宮の大極殿が発掘され、その後、同じ場所に飛鳥時代の前期難波宮があったことも解明され、幻の宮殿がその姿を現したのでした。
大阪の地に都があったのは、
古くは河内王朝の始祖とも言われた応神天皇の大隅宮(おおすみのみや)と、
その子の仁徳天皇の難波高津宮(なにわのたかつのみや)。
そして、孝徳天皇の前期難波宮と聖武天皇の後期難波宮。
この内、今回は難波宮跡をちょっと調査してみました。
歴史好きの私には興味がつきない難波宮でしたが、公園内の中途半端な史跡再現にちょっとがっかりでした。
なお、難波に都を定めた仁徳天皇陵の調査は、ナニワ探検隊員の酔歩さんがブログにUPされています。興味の有る方は、「仁徳天皇陵(大阪堺)」をご覧ください。酔歩さん、了承もなくリンク貼ってかんにんな。
私は20年ほど難波宮の近くに住んでいました。
今はここにも登場する物部氏の里でくらしています。
四天王寺さんには今年は数回おまいりる機会があり(トラックバックさせていただきました)先日は信貴・生駒スカイラインをドライブがてらに聖徳太子ゆかりの信貴山にいってきました。しかも難波宮造営の聖武天皇が造られてたもうひとつの都「恭仁京」にもいってきました。
(これもトラックバックさせてもらいました。)
なんだか縁を感じますよね~!
あまもりさんの綿密な調査に基づいたブログに比べて私のは調査なんていえる代物ではありませぬ....
ただ名所旧跡に行ってきて写真を撮ってきただけですわ。
polo181さんもコメントされているように、モロなにわを愛する人ですね。せっかくここまで実地調査をされたのでしたら、BK(NHK大阪)横の大阪歴史博物館をご覧になればもっと楽しめたと思いますよ
私は難波宮の事をそこの展示物で学びました。子供や素人が行っても楽しめる立派な施設ですから次回はそちらも訪問してみて下さい。
※今日の宝塚記念ではガックリですわ。ディ-プインパクトは当然はずせませんが2着にガックリ。こんな馬買ってないで~も~
春の最後を飾るG1でも取れませんでした・・・。
あの辺りの道路を通ったはずだけれど難波宮史跡公園は気づかなかったな~。
大阪城の天守閣から見えたのだろうか・・?
幻の都の跡が草ぼうぼうなのはちょっと残念ですね。
それにしてもあまもりさんはいつも力作で凄い!
私も公園になっていることは知りませんでした。
史跡の保存と公園としての利用とのバランスがとれていないのですね。
近くへ行ったら寄って見ます。
古代史が好きなので、中大兄皇子がからんだ難波宮には以前から興味がありました。
この公園に足を運んだのは今回初めてでした。横は時々通過はしているのですが、入ったことはありませんでした。もっと整備されているのかと思っていたのでがっくりきました。
そうそう、柱の跡は1m強はありました。さすがpoloさんです。
生まれ育ったこの大阪は好きです。でもまだまだ知らない大阪がいっぱいあります。これからも探っていこうと思っています。私の趣味にこれからもお付き合いくださいね。
聖徳太子、蘇我氏、物部氏、四天王寺、そして難波宮。全て繋がりますね。
信貴山ですか、もう随分行っていません。行ったのは昔々でした。
信貴山も聖徳太子ゆかりの山だったとは知りませんでした。それに、恭仁京も。
聖武天皇はいったいいくつ遷都したのでしょうか。放浪の天皇の面目躍如ですね。
トラックバックありがとうございました。
聖武天皇繋がりと聖徳太子繋がりですね。なるほど。
結局、長い文章も削れず、ほとんどそのままUP。
あかんね。読む人がしんどいやろなぁと思ってはいるんやけどね。
私は、どうもあれもこれもと突っ込みすぎる傾向があるようで。反省してます。
大阪歴史博物館があるのは知ってました。でも一度も行ったことありません。
そういえば、上の航空写真にも左上に博物館とNHKの名前がありますね。
チャンスがあれば行ってみたい。(今昔館も結局まだ行ってない。近いのはいつも行けると思ってしまうから?)
愛するなにわをもっと知りたい、そして知ってもらいたい。そんな願望があります。
宝塚記念は、私もドボンでした。重に強い馬が2、3着に来た結果やね。重に強いと分かっていたけど、7歳馬は買えなかった。
でも大阪市もどこも宣伝していないので、そのつもりで見なければ気づかないのは確か。
もう少し、史跡を楽しめるように工夫ができないものかなぁと、これは私の感想です。
古代史が好きなのでね。どうしても力が入る(笑)
でも、ちょっとあれもこれも入れすぎかなと反省しとりやす。
良くここまで詳しくお調べになりましたね。
難波宮、私には全く始めての言葉で、あまりの無知に恥ずかしくなります。
一昨日教えて頂いたサムネイル表示ですがプレビュウの時はきちんと画像が変わるのですが、アップした画像を見ると動かなくなってしまいます。何故なのでしょうか?お忙しい所恐れ入りますが、教えてください。