今週、僕の大好きだったおじいちゃんが亡くなった。享年95歳。大往生である。おじいちゃんの告別式に参列する為、急遽四国の愛媛県、今治(いまばり)市に向かった。四国へは飛行機で松山空港まで約1時間10分のフライト、松山からはJRの特急列車で今治市まで約35分。愛媛県はもちろんみかんで有名な県だが、今治市はタオルの生産日本一でも有名な瀬戸内海に面した町。おじいちゃんとの思い出の数々を含め、まさに色々な思いが詰まった僕の田舎である。
今治を訪れるのは3年ぶりだろうか。NY転勤の前に、家族を連れておじいちゃんおばあちゃん達に会いに訪れて以来である。3年前のおじいちゃんは、かなり前に自転車転梼膜フで骨折した腰骨の影響で足腰こそ相当弱っていたが、後は耳が若干遠くなっていることを除けば、とても元気だった。この時、おじいちゃんのひ孫にあたる自分の娘を会わせることが出来て、自分の成長をおじいちゃんにも見せることが出来たような、何か一つ大きな達成感みたいなものがあったが、今を思えば、あの時におじいちゃんに娘を会わせておいて、本当に良かったとしみじみ思う。3年前、僕が東京に帰るとき、とても小さくなったおじいちゃんが「これで会うのは最後からもしれん」と言ったが、僕は「そんなことないよ、またアメリカから戻ったら家族で遊びに来るから、おじいちゃんも元気でね!」と言ったが、結局、これがおじいちゃんと交わした最後の言葉となった。
斎場の部屋でおじいちゃんは、眠るように安らかな顔で横たわっていた。普段泣くようなことは滅多に無いが、僕もおじいちゃんとの思い出の数々が走馬灯のように駆け巡るにつれ、思わず目頭が熱くなった。第二次世界大戦も軍人として満州でも生活し、戦後の日本を力強く生きてきたおじいちゃん。ついに1世紀にも近い95年の生涯を終え、生まれ育った四国今治市で安らかに永眠の途に着いたのだった。
おじいちゃんとの思い出は、語りつくせないほどたくさんある。おじいちゃんと一緒に長い間住んだ経験も無いし、海外暮らしが長かった僕は、そう頻繁に田舎に帰ることも出来なかったが、まだ幼い頃におじいちゃんに受けた影響は途轍もなく大きい。僕はおじいちゃんにとって、初孫でもあった為、わがままで手のつけられない子供であった筈の僕を本当に無償の愛でいつも可愛がってくれた。そして、おじいちゃんはいつも僕の「味方」だった。ちょうど、ちびまる子ちゃんのまる子と友蔵じいさんのような関係だったような気もする。
おじいちゃんは実に「マニアック」で色々な物の「コレクター」でもあった。きっとおばあちゃんにはウザかったに違い無いが、おじいちゃんの家は僕に取って「宝島」みたいな場所だった。おじいちゃんの家に行くと、いつも面白いものをどこからとも無く出してきて、得意げに僕に見せてくれたが、幼い僕には刺激的なことばかりだった。昔の100円札(しかも新札!)や、銭型平次が持っていそうな古銭、珍しい切手などを常に集めており、良く僕にもくれた。この古銭や切手が入ったデスクには、引き出しが簡単に開かないように、おじいちゃんによる特別な「細工」が施されていた。何度やっても開かない引き出しを、おじいちゃんはいとも簡単に開けて見せ、それは幼い僕には「手品」のような驚きがあったのだ。そして、おじいちゃんは喜ぶ僕の顔を見て、また次の「細工」を仕込むべく案を練るのであった。色々な「限定商品(レアもの)」にも目が無いおじいちゃんであったが、今治市が昔赤いダイアル式の公衆電話を一般オークションにかけた際、おじいちゃんはこの内の貴重な一台を逸早くゲットしていて、客間にそれは展示されていたし、瀬戸大橋が開通した時も「通行一番乗り」を目指して並んだりしていたことも良く話してくれた。僕は大変な「日本の城」好きだが(城に関しては、また別のブログで語りたい)、これもおじいちゃんによる影響が大きい。今治にはあの築城の名手であった藤堂高虎が築城した今治城があるが、ここへはおじいちゃんに昔良く連れて言って貰ったものだ。おじいちゃんは寅年産まれであったが、「虎」の置物なども収集していた。玄関には今でも巨大な虎の置きものが威風堂々と飾られている。おじいちゃんは今治に引っ越す前は神戸に長年住んでいたこともあり、大の「阪神タイガーズファン」でもあった。
おじいちゃんは大の「甘党」でもあった。お酒はあまり飲まないが、おまんじゅうなどの甘いお菓子は大好きで、おじいちゃんの家の菓子器には常におまんじゅうが入っていた。四国の銘菓である母恵夢(ポエム)のお菓子や、鶏卵饅頭が特に好きで僕も良く食べていたが、今回、帰路の電車でおじいちゃんへの思い出に浸りたくて、両方のお菓子を今治駅で購入した。
おじいちゃんは僕の母方のおじいちゃんなのだが、母には弟が2人いて、上は写真や映像に凝っていて、映画監督になりたかった人。下はイラストが大変に上手で良く仕事でも挿絵などを描いていた。つまり、マニアックでクリエイティブなおじいちゃんの血は、息子たちにも脈々と受け継がれていたわけだが、僕のアートやクリエイティブ系への興味の原点もおじいちゃんであったように思う。血にも入っているのかもしれないが、幼い頃おじいちゃんに受けた影響は僕の趣味や興味領域を方向付けたのだと思う。おじいちゃんは、小学校当時漫画家を目指したいと言った僕の最大の理解者でもあった。当時僕が描いていた「忍者ベムスター」(帰ってきたウルトラマンに出てくる怪獣ベムスターをベースにしたパクリキャラ)という漫画のポスターをおじいちゃんの家で描いたりしていたが、いつまでもその絵はおじいちゃんの家に飾られていた。僕がおじいちゃんにあげたイラストや漫画の数々を、おじいちゃんはいつまでも大切に取っていてくれた。
僕のアパレル業界への興味、それに接客業への興味/商売人気質もおじいちゃんが原点であると言える。おじいちゃんは、昔今治に引っ越す前、神戸で洋服屋を営んでいたが、まだ4歳くらいの幼い僕は、このお店に大きな興味を持ち、「いらっしゃいませ~!安いですよ~」と威勢良く店先に出ては、客の笑いをかっていたらしい。一度4歳頃の僕が客に紳士用ベルトを売り付けたというから驚きだ。遥か昔の話で、その頃の記憶などあまり無い筈だが、でもどこかに懐かしい思いが残っているから不思議だ。
葬儀には多くの親戚が訪れるが、親戚と触れ合い、昔話を聞いていると、親戚付き合いの大切さ、そして「自分のルーツ」みたいなものを感じたりするものだ。僕は小学生の時に、「家系図」というものに大変興味を持ち、親や親戚に色々と聞いて回り、自分の家系図を作成したのを今でも覚えている。あの家系図は今どこにあるのだろう? 今回改めて家系図を作成してみたくなった。
おじいちゃんの思い出は語りつくせないほどあるが、大好きなおじいちゃんがこの世を去ったことで、僕の中でも何かぽっかり穴が開いてしまったようでもある。その一方で、「自分の好きなことを思いっきりやりなさい」といつも応援してくれたおじいちゃんに、これからも応えられるように、仕事にも趣味の世界にも励みたいと思う気持ちも湧き上がってくる。大きな影響を受け、大好きだったおじいちゃん、これからもぜひ見守っていてほしい。
最新の画像もっと見る
最近の「好きな場所」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
- TVドラマ(207)
- マイグルメ(157)
- 日本の城、日本の寺(95)
- トラベル(121)
- CM(51)
- 思い出の曲(40)
- 愛犬きなこ(87)
- 車(75)
- My Artworks(105)
- 音楽(336)
- デザイン(129)
- 漫画/アニメ(183)
- 特撮ヒーロー(32)
- アート(56)
- 映画(186)
- ファッション(144)
- ヒッチコック(12)
- マイケル・ジャクソン(8)
- 松田聖子(25)
- 芦川いづみ(70)
- ユナ(40)
- 小説(43)
- スポーツ(40)
- 好きな場所(124)
- マッケンロー(15)
- ブルース・リー、アクション(139)
- 何でもTOP 5(3)
- NEWS(3)
- ノンジャンル(48)
バックナンバー
人気記事