偏平足

里山の石神・石仏探訪

昭和の石仏写真館(172)川口市の寺社⑦

2024年04月22日 | 石仏写真館

伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市
庚申塔・東本郷路傍

如意輪観音・東養寺(東本郷)

六地蔵1・東養寺(東本郷)

六地蔵2・東養寺(東本郷)

出羽三山供養塔・金棟寺(東本郷)

六地蔵1・東養寺(東本郷)

六地蔵2・東養寺(東本郷)

六地蔵3・東養寺(東本郷)

六地蔵4・東養寺(東本郷)

青面金剛・正源寺(新堀)

勢至菩薩・正源寺(新堀)

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里山の石神端書 千葉県成田市旧下総町

2024年04月21日 | 里山石神端書

里山の石神端書276 十九夜塔(成田市下総町大和田・龍安寺の十九夜塔)

里山の石神端書277 男根(成田市下総町小野・八幡神社)

里山の石神端書278 道祖神(成田市下総町大和田路傍)

里山の石神端書279 天神(成田市下総町高・月輪神社)

里山の石神端書280 阿弥陀、観音(成田市下総町冬父・迎接寺)

里山の石神端書281 石坂供養塔(成田市下総町中里・楽満寺)

里山の石神端書282 道祖神石祠(成田市下総町中里)

里山の石神端書283 川崎大師(千成田市下総町青山・東光寺


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里山の石神端書283 川崎大師(千葉県成田市旧下総町)

2024年04月19日 | 里山石神端書

千葉県成田市(旧下総町)青山・東光寺の川崎大師

 利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の青山を訪ねました。ここは東光寺を中心に、薬師堂や北辰神明社が建ち、そのなかに石造弘法大師を納めた小社が二社並んでいました。


 その一つはこの地方に組織された成田組十膳講八十八所霊場の一つ。千葉県北部と茨城県南部の下総地方には、江戸時代中期以降四国八十八霊場を移したミニ霊場が各地につくられました。ミニ霊場は大きな寺を起点としてはいますが、その多くは小さな木祠に石造弘法大師(一部に木彫もある)を祀ったものです。


 もう一つは川崎大師を祀った小社です。社内には川崎大師からいただいてきたお札がきれに並んでいました。川崎大師の本尊は弘法大師。青山の集落では「誠心講」という川崎大師の講をつくって、毎年川崎大師へ参拝したそうです。川崎大師がどのような布教活動をしたかは手もとに資料がありませんのでわかりませんが、川崎大師は東京西新井大師、千・香取の観福寺とともに関東の三大厄除け大師とされ、江戸時代中期より繁盛したようです。青山からは観福寺が近いのですが、わざわざ川崎まで出かけたのは、旅の楽しみがあったのでしょう。

 小社の近くには「奉待十九夜講中/天明二(1782)」銘の如意輪観音が座していました。
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書282 道祖神石祠(千葉県成田市旧下総町)

2024年04月16日 | 里山石神端書

千葉県佐倉市(旧下総町)中里の道祖神石祠

 利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯を訪ねました。ここで紹介するのは下総町で中里の道祖神としている場所です。


 集落外れの畑に土手を利用したこの場所には小型の石祠が山ほど積まれていて、その数の多さに驚きました。ほとんどが土手に寝かされ重ねられた異様さにも驚きです。


 石祠のほとんどは屋根から室部と台座が一体となった30センチ前後の高さで、室部正面に「道祖神」銘のあるものが若干あるだけ。見た目には同じような石祠ですが、詳細に調べればみな違っていて同じものは無いとも言えそう道祖神です。しかしこれほどの道祖神石祠を、石工あるいは手馴れた人が造ったのかの判断は難しいところです。推測ですが、奉納された時代が短期であれば専門の石工がいたともいえる数の多さです。


 大型の石祠も少しあり、こちらには造立年が入ったものがありました。そのいくつかはいずれも文化年間(1804~1818)初めの銘があり、この時代に道祖神石祠の奉納が始まり、続いて小型の石祠の奉納が始まったと推測するのが妥当でしょうか。奉納目的は下総町の案内にあるとおり、夫婦円満、安産・子育。とにかくすごい数の道祖神石祠でした。
(地図は国土地理院ホームページより)

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昭和の石仏写真館(171)川口市の円通寺

2024年04月15日 | 石仏写真館

伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市赤井の寺円通寺
圓通寺の六地蔵

地蔵菩薩

阿弥陀如来

板碑群

板碑・至徳元年(1386)

板碑・応永五年(1408)

板碑・文正二年(1467)

板碑・文明十二年(1480)

板碑・文明十八年(1486)

僧像

十三仏

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里山の石神端書281 石坂供養塔(千葉県成田市旧下総町)

2024年04月12日 | 里山石神端書

千葉県佐倉市(旧下総町)中里・楽満寺の坂道供養塔

 利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯にある楽満寺を訪ねました。




 山門にユニークな像容の観音石仏が座していました。三十三所観音の一部で、残りは境内に並んでいます。近郷の女人講は造立したものです。三十三所といっても、像容をみると西国ではないものです。境内にはこれとは別の観音石仏もあり、こちらには西国札所二十二番のご詠歌が刻されていました。これら女性が造立した観音石仏があるのは、この寺が子授け・安産・子育ての如意輪観音を本尊としているからでしょう。寺ではこの本尊を源頼朝の妻政子の念持仏だったとしています。政子から如意輪観音を譲り受けたのはこの寺を開山・国一禅師(1233~1321)。国一は常陸生まれで鎌倉・臨済宗建長寺派の僧。もっとも政子は嘉禄元年(1225)に亡くなっています。


 境内奥から山の上に立派な石段が続き、登り切ったところに立つのが坂道供養塔です。「文化七年庚午(1810)」銘。石段の先には「端栄山霊感講三十三観音新設記念碑」端栄山は楽満寺の山号、三十三観音は楽満寺境内に立つ新しい石仏か。
 供養というと仏・法・僧や死者に供物を捧げることですが、この国では地震や津波での死者供養から動物や植物、橋や石段や石垣を造っても供養塔を造立しました。人形供養や針供養の行事もあります。八百万の神の国ですから、供養塔も八百万です。
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書280 阿弥陀、観音(千葉県成田市旧下総町)

2024年04月09日 | 里山石神端書

千葉県佐倉市(旧下総町)冬父・迎接寺の阿弥陀、観音

 利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の冬父にある迎接寺を訪ねました。

 迎接寺は平安時代末から鎌倉期にかけて造られた阿弥陀・観音・勢至の来迎阿弥陀三尊を本尊とするこの地方の名刹。来迎阿弥陀は、臨終の阿弥陀信者を西方極楽浄土へ迎えに来る姿。迎え方には生前に積んだ功徳により九つの区別があります。いわゆる上中下の三品と上下中の三生の組み合わせの九品(くほん)で、阿弥陀の手に位置と印相で現しています。絵図や石仏では迎えに来る阿弥陀の印は上品下生(じょうぽんげじょう)が多く見受けられます。

 迎接寺の古い墓地にそのような弥陀と観音の美しい墓石が並んでいました。写真は来迎印の阿弥陀如来、十一面観音、如意輪観音です。



(地図は国土地理院ホームページより)

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昭和の石仏写真館(170)川口市の普門寺

2024年04月08日 | 石仏写真館

伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市本蓮の普門寺
(庚申塔は№169と一部重複)
庚申塔(元禄六年・1693)

庚申塔(正徳二年・1712)

庚申塔(正徳二年(1712)

庚申塔(寛延二年・1749)

庚申塔(寛延三年・1750)

庚申塔(安永六年・1777)

庚申塔(享和四年・1804)

六地蔵

六地蔵1

六地蔵2



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里山の石神端書279 天神(千葉県成田市旧下総町)

2024年04月05日 | 里山石神端書

千葉県佐倉市(旧下総町)高の月輪神社の天神

 利根川下流の下総町が成田、市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯を訪ねました。ここに案内するのは高集落の月輪神社金環殿の奥にある天神様木祠に鎮座する木彫の天神です。



 高集落外れに「月輪神社」の扁額がかかり、社殿に「金環殿」とある神社のさらに奥にある木祠が天神様。


 祀られているのが木彫の天神で、冠をつけ袍姿の坐像の胸に天神の象徴梅鉢紋をつけています。右手は笏を持つように握った形、左には太刀をさしているはずですが、これは見当たりません。
 これまで山や山麓の石仏をだいぶ見てきましたが、天神をはじめとした神像の石仏にはほとんど出会いませんでした。仏像が路地に立てられたのに対して神像は社殿に祀るという意識が強かったようで、数少ない天神石像は石祠内に祀られるケースが多い印象です。
 山麓の寺社巡りをするようになって気づいたのは、木彫の神像を祀る小社が多いことです。基本的には姿を現さないこの国の神ですが、近世になると掛軸などに神の絵図が登場して、これを手本に木彫が造られたと思います。これが石仏になった例が天神で、他には天照、春日、八幡、稲荷などがあります。木彫道祖神なども、石像になる前は木彫あるいは藁などの人形の時期があり、いまでもその形を続けている地方があることも知られています。
(地図は国土地理院ホームページより)

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『東国里山奥山の石神・石仏風土記』①

2024年04月04日 | 


(写真は仮の表紙です。出版は夏頃の予定)
【経緯】
 22年9月、食道がんステージ4を告げられ抗がん剤治療に入る前に決めたのが、石仏・古文書・桜のボランティアなどの会の運営の辞退でした。山の石仏調べも出来なくなりました。
 こうなると自分の時間ができて始めたのが山の石仏のブログをまとめること。どうまとめるか構想は膨らんでいて、ブログ偏平足の「山の石仏案内」も千回を数え、ちょうど区切りのよい時期でもありました。いま振り返ると、がんになったのは、そろそろ自分のライフワークをまとめなさいという催促だったような気がします。それまで会の運営であまりにも忙しすぎました。
 『東国里山奥山の石神・石仏風土記』はブログ「山の石仏案内」から抜粋・加筆したもので、取り上げた山の石仏案内約1000、写真は新しく選びなおしたもの約1050で構成した内容です。苦労したのは写真で、50年前のフィルム、その後のデジタルで保存したCD、ハードデスクなどから拾い出す作業。目的の写真を選びだすのは時間ばかりかかり、とくにフィルム写真をパソコンに取り込む機材は20年も前に購入しておいたもので、操作そのものから仕切り直しでした。
 急がなくてはとこの作業は家ではもちろん、入院中のベット、抗がん剤治療中の椅子でも作成しました。ただ家では集中力が続かず、病院での作業がはかどったのは意外でした。
 当初は出版費をおさえるため版下まで作成して、印刷製本だけの出版を考えていました。しかし編集作業をしながら、この本は50年100年後に残すために書店販売ができる出版社から出したいと考えがかわり、原稿・写真が揃った昨年12月に山と渓谷社に相談しました。山渓社は18年前に『里山の石仏巡礼』をお願いしたところであり、今回の本の内容は〝山〟というのが一つのキーワードなので、山渓社が相応しいとお願いしました。そして1月にOKが出て正式契約、スタートしました。

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昭和の石仏写真館(169)川口市の寺社⑥

2024年04月03日 | 石仏写真館

伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市の寺社⑤
慈林寺(安行慈林)六地蔵

福寿院(赤井)庚申塔

東光寺(江戸袋)観音

東光寺・石幢

東光寺

普門寺(蓮沼)

普門寺・庚申塔(元禄元年・1693)

普門寺・庚申塔(正徳二年・1712)

普門寺・庚申塔(寛延三年・1750)

普門寺・庚申塔(安永六年・1777)

普門寺・庚申塔(文化元年・1804)

普門寺・庚申塔(天保五年・1834)

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里山の石神端書278 道祖神(千葉県成田市旧下総町)

2024年04月02日 | 登山

千葉県佐倉市(旧下総町)大和田路傍の道祖神

 利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯を訪ねました。そこで見たのが路傍の一角に祀られた小さな石祠の道祖神の集まり。屋根・室部・台座が一緒になった20センチ前後の道祖神です。



 大和田の路傍の道祖神は、土手に上に祀られた石祠を取り囲むように小さな石祠が並んでいました。高さは20~30センチで屋根の形は流造りと切妻造り。室部の掘り窪みはなく銘もありません。台座も一緒です。大きさからして個人の奉納のようです。造立目的を下総町では道祖神として、夫婦円満、安産・子育てと案内しています。
 同じような道祖神は冬父の集会所でも見ましたし、中里にはとてつもない大量に奉納されている場所がありました。このような小型の道祖神は成田市や佐倉市の一部でも見ていますが、その他の地域では見ていません。
(地図は国土地理院ホームページより)


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屋上菜園2024-04闘病日記25

2024年04月01日 | 屋上菜園


 屋上菜園は体力がなくなった私に変わり、カミさんがやるというのでバトンタッチです。そうは言ってもこれまで手伝いをしたこともないカミさんですから、野菜作りのイロハから教えなければと、まず3月中旬にジャガイモの種を植えました。どうなることやら……。
 いまはキヌサヤの収穫。今年の3月末は風の強い日が多く、キヌサヤは茎が折れネットの支柱まで折れる始末で散々です。タマネギとニンニクは順調に成長中。
     *

 緩和ケアの話が出て、春彼岸の田舎の墓参りは今回が最後かなと車で出かけました。がんの告知を受けた後、弟夫婦と私とカミさんの4人での墓参りもこれで4度目。初めはこれほど続くとは思いませんでした。墓の前での兄弟夫婦の話は、そこに眠る父母に届いているはずなどと思うになったのも歳のせい、病のせい。見慣れた阿武隈と安達太良山の山脈を見ながらの楽しいひと時でした。
 いま受けている最後の抗がん剤は2週間に一度3日かけての点滴治療。1日目は病院で、2・3日目は自宅での点滴です。副作用も口内炎、胃のむかつき、背中の痛み、湿疹、手足のしびれ他いろいろ出て、それがこれまでより強くなってきたような感じ。体力も落ちて長い石段を登るのも息切れするようになりました。
 実は田舎に帰る前日はいわき市の里山近くの寺社巡りをしましたがどこも石段ばかりで足があがらず、いよいよ体力の限界が見えてきました。

 

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里山の石神端書277 男根(千葉県成田市旧下総町)

2024年03月29日 | 里山石神端書

千葉県佐倉市(旧下総町)小野・八幡神社の男根

 利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の小野八幡神社で、石碑に彫られた男根がありました。


 これは男根石と同じ趣旨の性神です。男根の大きさは約20センチ。

 これまでいろいろな石造男根を見てきましたが、この形は初めてです。淫祠(いんし)として為政者が造立を取り締まってきたこの種の石造物が、各地に残っているのは、性神信仰の根強さを示すものです。八幡神社の性神がどのような信仰背景があっての造立かは不明ですが、子授け子育てを願う神の一つであることは間違いありません。
 性神の脇には同じような男根のミニサイズの片割れがありました。このようなミニサイズの石造物は下総町の道祖神に見ることができます。


 この下総町には小さな石祠を道祖神として祀る風習があります。次回から下総町の二か所から紹介しますが、どうしてこのような形の道祖神を造るようになったかも不明です。下総町では夫婦円満、安産・子育てと案内しています。また同じような石祠は成田市や佐倉市でも散見することがあります。
(地図は国土地理院ホームページより)

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里山の石神端書276 十九夜塔(千葉県成田市旧下総町)

2024年03月26日 | 里山石神端書

千葉県佐倉市(旧下総町)大和田・龍安寺の十九夜塔

 利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の大和田にある龍安寺を訪ねました。
 龍安寺は曹洞宗の寺で山門前に禅宗特有の「不許葷酒入山門」の結界石が立っていました。その裏側には弘法大師の石仏群は、この寺が成田組十膳講八十八所霊場の一番になっているための造立でしょう。


 境内に入ると、左手に菩薩の石仏が並びます。その右端に座すのが「奉待十九夜/文化十四丑(1817)」銘の十九夜供養塔。


 十九夜塔は女性たちが、月齢十九日の夜に当番あるいはお堂に集まって経を唱え、歓談した行事を行って造立した石塔です。集まったとき掲げる軸の本尊は如意輪観音とされています。したがって造立された十九夜塔も例外もありますが如意輪観音がほとんどです。龍安寺の十九夜を見ると観音特有の頭上の化仏や持物の蓮華はありません。ところが膝に両手で赤子を抱いています。像容だけを見ると子供を抱く子安観音ということになります。石塔の十九夜塔の主尊は当初の如意輪観音でしたが時代を経ると子供を抱く像容に変化してきました。これは十九夜の信仰が念仏から安産に変化したためとの指摘もあります。その様子を中上敬一氏の「十九夜念仏源流考」(注)から簡単に紹介します。
 中上氏によると、十九夜念仏塔は江戸時代の寛永期に茨城の利根川流域に登場し、千葉や栃木に広がったようです。この初期十九夜の主尊は阿弥陀如来。これが女性の信仰に変わったのは、女性が落ちる血の池地獄から救済する『地盆経』を背景とした十九夜念仏和讃にあり、血の池地獄に苦しむ女性を救うのが如意輪観音であるところから、十九夜信仰の主尊に定着していったと推測しています。また、茨城に残る十九夜の由来に、女の厄年が十九歳であることを歌っていることをあげています。また早婚であった江戸時代の19歳は心身共未熟なため、出産による死亡率が高かったことへの安産祈願を如意輪観音に願ったことを紹介しています。こうして登場した十九夜塔の如意輪観音が赤子を抱く姿になるのは江戸時中期からのようです。
(注)中上敬一著「十九夜念仏源流考」『日本の石仏54』1990年、日本石仏協会
(地図は国土地理院ホームページより)

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