千葉県佐倉市(旧下総町)大和田路傍の道祖神
利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯を訪ねました。そこで見たのが路傍の一角に祀られた小さな石祠の道祖神の集まり。屋根・室部・台座が一緒になった20センチ前後の道祖神です。
大和田の路傍の道祖神は、土手に上に祀られた石祠を取り囲むように小さな石祠が並んでいました。高さは20~30センチで屋根の形は流造りと切妻造り。室部の掘り窪みはなく銘もありません。台座も一緒です。大きさからして個人の奉納のようです。造立目的を下総町では道祖神として、夫婦円満、安産・子育てと案内しています。
同じような道祖神は冬父の集会所でも見ましたし、中里にはとてつもない大量に奉納されている場所がありました。このような小型の道祖神は成田市や佐倉市の一部でも見ていますが、その他の地域では見ていません。
(地図は国土地理院ホームページより)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市の寺社
赤山城跡(赤山)
赤山城址案内
真乗院(石神)
真乗院庚申塔・元禄三年(1690)
真乗院庚申塔・宝暦七年(1757)
宝蔵寺(西新井宿)庚申塔・元禄八年(1695)
宝蔵寺庚申塔・寛政三年(1791)
宝蔵寺庚申塔・文政三年(1820)
源長寺(赤山)案内
源長寺石仏
源長寺庚申塔・正徳六年(1716)
この冬雪はないだろうとみていましたが1月13日の夕方降り、翌日屋上に上がってみると、雪が薄っすらと残っていました。
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昨年12月から始めた抗がん剤の副作用で、湿疹が出てしまいました。暮れから正月にかけてビールを飲んだのも良くなかったようで、胸から腹にかけて湿疹で真っ赤。ビールは一年半ぶり。飲めば湿疹が悪化することは予測できましたが、久々に家族が全員集まったこともあり楽しく美味しくいただきましたから、納得の湿疹悪化でした。
髪の毛が抜けはじめました。今回の抗がん剤の副作用として担当医から説明されていましたが、髪は長い友達ですからやはり抜けるのは寂しいものです。それでも半年前に坊主頭にしていましたら、さほど目立ちません。それより口内炎がひどくなってきて、ミカンも食べられません。
ところで年末から新年にかけて、白血球の数値が少なく2回続けて抗がん剤治療が中止になりました。血液検査の結果抗がん剤中止は何度目なのわかりませんが、早朝カミさんと二人車で病院に出掛ける身としては、残念としか言いようがありません。白血球を増やす食べ物が無いのも残念です。それより白血球の減少で心配なのは免疫力の低下で感染症にかかりやすいということ。それで気分転換は人のいない里山の寺社巡りです。
日光市(栗山村)土呂部・瀧尾神社の懸仏
栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。栗山村でも土呂部(どろぶ)は山間の標高900メートルの盆地にある集落。気象観測所があり、冬になると関東の最低気温測定地として天気予報に土呂部の名が登場します。
黒部ダムから街道を離れて、石仏が並ぶ先が土呂部への道。土呂部集落の奥にあるのが廃校になった小学校の跡地に建つ公民館。その脇に瀧尾神社が建っています。
参道脇に木祠が10、石祠が3並び、石段を上った先に瀧尾神社。神社は小さな木祠。その中に納められているのが阿弥陀如来の懸仏。公民館に隅に立つ案内には「青銅の板を打ち出したもので、直径29センチの円形の掛仏には、寛政九年(1797)の記載があり、県内でも工芸的にも大変貴重なものである。奉納されている瀧尾神社は、日光の瀧尾神社を本社とし、田心姫命を祭神とする」とあります。
木祠正面に下がる鰐口には「元禄十四辛巳(1701)歳極月/奉掛惣鎮守土呂部村正覚山楠名寺」。極月は12月で、昔はお寺だったようです。集会所の裏は墓地になっています。江戸時代のお寺が明治になり小学校に、昭和になって廃校となって集会所へ。という繋がりで今に続いていると思われます。
(地図は国土地理院ホームページより)
茂木町木幡・慈眼寺の千人供養塔
茂木町は茨城県に接する栃木県の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。
浄土宗慈眼寺の境内に阿弥陀如来が線刻された大きな供養塔が立っています。阿弥陀は立像で上品下生(じょうぽんげしょう)の印。阿弥陀には上品・中品・下品と上生・中生・下生を組み合わせた九品の印があります。死者を極楽浄土に迎える方法が9つあるという経典(観無量寿経)から生まれた考えで、生前の行いに応じて迎え方が異なるということです。
側の案内には、寛政九年(1797)に慈眼寺二十二世良悟上人が造立したもので、裏面に供養した千人の戒名がきざまれているとあります。しかし昭和20年代に無住となって壊滅状態になった寺を、平成6年に檀徒の人々により阿弥陀堂が建立されたそうです。
慈眼寺墓地に「南無阿弥陀仏」の念仏塔が立っていました。そこには頭に種字・阿弥陀三尊の下に「百万遍」銘が入っていました。大勢に人がそれぞれの願いをこめて唱えた念仏が、合わせて百万遍に達したことを示した供養塔です。
(地図は国土地理院ホームページより)
■発行・日本石仏協会 〒254-0031神奈川県平塚市天沼7-59-305(中森)TEL0463-24‐0203
■発売・青娥書房 〒101‐0051東京都千代田区神田神保町2-10-27 TEL03‐3264‐2023
■2200円
日本石仏協会2023年石仏写真展
期 日 1月17日(火)~22日(日)
会 場 東京都千代田区一番町25JCBビル地下1F
日本カメラ財団JCⅡクラブ25フォトサロン
時 間 午前10時~午後5時
最寄駅 東京メトロ半蔵門線・半蔵門駅④出口
偏平足の作品「限界集落の神仏」
群馬県下仁田町西牧野中野・山神神社の山の神
群馬県桐生市黒保根町・楡沢の石祠
新潟県上越市柿崎区平沢・光宗寺の阿弥陀如来
群馬県片品村針山・針山穴観音の狐
東京都八王子市上恩方町・枠山神社の狛犬
榛名・天狗岳(てんぐだけ) 歳徳神(としとくじん)
【データ】榛名・天狗岳1179メートル▼最寄駅 JR高崎線・高崎駅▼登山口 群馬県高崎市榛名山町の榛名神社▼石仏 天狗岳の東ピーク。地図の赤丸印▼地図は国土地理院のホームページより
【案内】山頂に石造天狗を祀る天狗山へは榛名神社の山門脇の林道から登り、地蔵峠からの尾根道と、鏡台山の肩から直接天狗岳へ出るコースがある。これとは別に南山麓の下室田町大日影からの道もあり、こちらが天狗岳信仰の表参道になる。表参道からの道筋はじめ山頂一帯には神仏名の文字塔が多数造立されている。そのなかから山頂に立つ歳徳神を案内する。
天狗岳は双耳峰で東の山頂に天狗をはじめとした石造物が立つ。その一つが「歳徳神/素戔嗚命/稲田姫命」銘の石塔。歳徳神は陰陽道でその年の福徳を司る神、正月さまともいわれている女神。また歳徳神は牛頭天王の妻頗梨采女(はりさいにょ)ともされている。素戔嗚尊と稲田姫命は日本神話に登場する夫婦神。どうして歳徳・素戔嗚・稲田姫が一つの石塔に並んでいるのか。
考えられるのは、仏教(牛頭)・道教(歳徳)・神道(素戔嗚)の夫婦神が習合したものということ。それを説明するのは簡単ではないので省略するが、神道では牛頭天王を素戔嗚尊としている。最近では歳徳神がいる方位を恵方とし、恵方巻の行事が定着してきた。
歳徳・素戔嗚・稲田には8の数の共通点がある。稲田姫は8人兄弟、頗梨采女は牛頭天王との間には子供が8人(八王子)、歳徳神にも子供が8人(八将神)いる。天狗山には八将神の石塔もある。
天狗山の石造物は地蔵峠から天狗山への尾根にも神名が入った石塔がいくつも立っている。そのほとんどが昭和の初めの造立であり、こういう状況から天狗山の信仰を考えると、近世から盛んになった富士山や木曽御嶽に見られる山岳信仰のエネルギーに通じるものがある。それは強力な指導者を中心にした熱狂的な信仰組織の石塔造立の最後のエネルギーである。
中之条・岩本不動滝(いわもとふどうたき) 奪衣婆(だつえば)
【データ】岩本不動滝 670メートル▼最寄駅 JR吾妻線・中之条駅▼登山口 群馬県中之条町岩本の原集落▼石仏 岩本不動のお堂裏。地図の赤丸印▼地図は国土地理院のホームページより
【独り言】岩本地区の奥、蟻川川の源流にかかる滝近くに御堂が建っているというので訪ねてみました。入口の鳥居には「無礙窟」の扁額。無礙(むげ)? 支障がない窟……という意味か。
沢沿い進むとおこもり堂。軒下に昭和61年修理の芳名者板が打ち付けてありました。その上には字が読めない芳名者板があるので、それなりの古いおこもり堂のようです。鉄の橋で対岸に渡るとお堂。入口には鳥居があったが建物は寺院のようです。
お堂裏には豪快な滝がかかっています。滝へ向かうとすぐ奪衣婆が、まるで滝の番人のような位置に座しています。これまで北関東から東北南部の山で多くの姥神を見てきましたが、ここは群馬の山で姥神の造立地帯ではないので奪衣婆としておきます。近くに顔のない智拳印の大日如来も座しています。
滝に向かう道ではヤマビルが動き出して飛びついてきます。滝近くの岩屋をのぞくとコウモリが飛んできました。こうなると心穏やかでなく、岩屋の底に二基の石仏が立っていましたが、そこまで降りる気持ちは失せてしまいました。
このような場所に踏み込む場合は長靴、またはスパッツを付けるのですが、このときに限り運動靴だったのが失敗でした。ほうほうの体で引き返し、靴をぬいでヤマビル退治となりました。ちぎっては殺し、引っ張りだしては地面にたたきつけました。しかしヤマビルのしつこさは想像以上で、運動靴に入り込んだヤマビルは宿の部屋までついてきました。温泉につかったら噛まれたところから血がしみ出した。とんでもない無礙(むげ)窟になってしまいました。
武尊・針山穴観音(あなかんのん) 大日如来(だいにちにょらい)
【データ】針山穴観音 1160メートル▼最寄駅 JR上越線・沼田駅▼登山口 群馬県片品村針山▼石仏 針山穴観音の岩屋。地図の赤丸印▼地図は国土地理院のホームページより
【案内】登山口の針山は標高1000メートルの高原の集落。集落からさらに林道を登ると、片品村が立てた穴観音の案内が立つ。案内の趣旨は二つ。一つは穴観音の起こり、一つは新しい養蚕技法を考案したこの集落の永井紺周郎のこと。ここまでは車も入る。
さらに道を辿ると、額束に「正一位蠶稲荷大神」の大きな鳥居が立つ。穴観音への道は蚕稲荷への道にもなっている。山道らしくなり、沢の流が少なくなるころ左手に大きな石段が現れる。ここが穴観音の入口。
石段脇に「開闢遍寛法子/越後国蒲原郡/西笠巻村東福寺弟子/寛政十年(1798)」銘の卵塔が立ち、台座に「観音入口」とある。卵塔には、穴観音は越後の西笠巻村の東福寺弟子・遍寛によって開山されたと記されている。登山口にあった村の案内には、寛政十年(1798)遍寛が夢のお告げにより一寸八分の如意輪観音を背負って来たとあった。
越後平野の中央部にあった西笠巻と武尊山山麓の針山との間にどのような関係があったかは不明。一つ接点があるとすれば、この時代越後の八海山と上州の武尊は木曽御嶽信仰の聖地になっていた山で、行者が往来していた関係にあったことは想像できる。
石段から先の道は踏み跡程度になるが、西側の尾根を目指せば大岩の下に二つの社殿が見えてくる。右が観音堂、左が蚕稲荷神社。さらに稲荷社の左手に狐の焼物を備えるお堂が建つ。
観音堂と稲荷社の間から奥に進むと、暗い岩屋の基部に大日如来と不動明王が安置されている。大日に「法稱寺四世兼山法印/此岩屋百日之行供養」とある。法称寺は武尊山の花咲口別当を務めた天台宗の寺。木曽御嶽を開いた普寛が武尊に登るときに補佐した義謙の寺(注)である。
蚕稲荷神社は、案内によると蚕の飼育法の一つ〝いぶし飼い〟という養蚕技法を発見し普及に努めた永井紺周郎の功績を称えて建立した稲荷。この技法は蚕室内で火をおこして煙を充満させるもので、明治時代に永井流養蚕術として群馬県北部や中部に普及した。
そして稲荷社脇の狐の焼物を備える場所だが、そこに納められ焼物の狐は膨大な数のうえすべて壊されているにはどうしたことか。役目を終えたという意味か。榛名山の烏帽子ヶ岳では壊されない沢山の狐の焼物が奉納されているのを見たが、蚕の産地群馬ではいろいろな蚕神信仰に出会う。
(注)中山郁著「本明院普寛と上州武尊開山」平成11年『ぐんま資料研究』19号
(地図は国土地理院ホームページより)
戸室山(とむろやま) 笏谷狛犬(しゃくだにこまいぬ)
【データ】戸室山 547メートル▼最寄駅 JR北陸新幹線・金沢駅▼登山口 石川県金沢市俵町の医王山スキー場▼石仏 戸室山山頂の西。地図の赤丸印▼地図は国土地理院のホームページより
【案内】加賀藩金沢城の石垣の石を掘り出した山が戸室山。その南のスキー場があるキゴ山一帯も石を掘った山。二つの山の間、スキー場駐車場先の医王山寺が戸室山の登山口。長い石段から道が始まる。
山頂三角点の西、金沢市街がよく見える場所に大きな寄棟造りの石祠が2基祀られている。神仏を祀る石祠のなかで、屋根が流造りは神、寄棟造りは仏を祀るという傾向があるので、戸室山の石祠は仏堂とする。
大きい仏堂は高さ110㎝、小さめの仏堂は100㎝と内部に仏像を納めるには十分な大きさである。これも戸室石なのだろう。仏堂には戸室権現を祀っているのだろが、しかし室部正面に大きな石がはめ込まれていて室内を見ることはできない。
手もとに戸室山信仰の資料もないので戸室権現についてはわからないが、その東の医王山と一体の信仰とされている。この医王山は尾根続きの白山との関係があったことは知られている。
小さめの仏堂の前に小さな狛犬が鎮座している。頭が小さな狛犬は古風な印象。狛犬を研究している龍谷大学非常勤講師・山下立氏の資料(注)によると、このような形の狛犬を「笏谷石制狛犬(笏谷狛犬)」としている。笏谷(しゃくだに)は地名。戸室山の狛犬が笏谷狛犬かどうか私には判断できないが、以下は山下氏の笏谷狛犬資料から抜粋する。
笏谷狛犬とは、福井市足羽山(石谷山)麓で採掘される笏谷石で制作された狛犬。時期は室町時代から桃山、江戸時代までで膨大な作品を生み出し、これが桃山以降に各地に供給され、北海道・東北から山陰に至る日本海沿岸部、近畿・中京地域に作品が現存する。構造は台座供一石調成、初発期から幕末期まで作品は変わらない。
改めて戸室山の狛犬に戻ると、全体的な容姿と整ったタテガミは笏谷石狛犬のようだが、石が荒く黒い色が笏谷石らしくない。(注)山下立著「日本狛犬史から見た石造狛犬」2022年6月、日本石仏協会談話室資料
ブログ・偏平足の山の石仏案内が、1000回に達しました。2006年の『里山の石仏巡礼』(山と渓谷社)発刊後に、まだ紹介したい山の石仏があるということで始めたこのブログ、あしかけ16年かかっての1000回です。すでに案内した山の別の石仏を取り上げたこともあったので1000の山とはなりませんが、1000の石造物を写真とともに案内しました。また番外があり、これをあわせると1284回になります。
ブログを始めたころは仕事の合間に山に登ってまとめた原稿でしたから、平凡な内容でした。石仏の案内に考察も加えるようになったのは仕事を辞めてからで、これを支えたのが過去に集めた山の石仏記録、山岳書、石仏書でした。その本と著者に敬意を表して、ブログでは書名・著者も紹介することに務めました。内容を確かなものにするため、下山後に山麓の図書館での資料探しも楽しみでした。
これで山の石仏調べと案内のこのブログは一区切りです。振り返りますと、20代に登山のついでに見ていた石仏が、30代からは石仏探しのための登山になっていました。その間、藪山、道のない山での石仏探しで景色を見ることも忘れていました。歳も重ねて体力もなくなりましたから、これからは里山の風景を楽しみながら石仏を見ることにします。
それから、この偏平足を見ていただいた皆さん、なかでもアップするたびに応援していただいた皆さんさんには、心から感謝いたします。
最後に50数年前に始めた石仏調査、それをまとめて〝偏平足〟の出発点となった冊子(10年間で12号)がありますので、表紙だけ付け足しておきます。
1969-07
1969-12
1970-03
1970-12
1971-11
1972-07
1973-03
1975-05
1976-12
片曽根山(かたそねやま)磨崖仏(まがいぶつ)
【データ】 片曽根山 719メートル▼最寄駅 JR磐越東線・船引駅▼登山口 福島県田村市船引町の船引駅▼石仏 山頂に西側、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山の渓谷社)から転載したものです
【里山の石仏巡礼91】 昭和29年(1954)の夏、上級生に連れられて初めて片曽根山に登ったとき、山の裏側に広がる大きな世界を見た。それは安積平野と、その後ろに連なる吾妻から那須に続く山脈だった。これ以来、山の裏側を見るのが山登りの楽しみとなり、今も続いている。そのとき見た石仏も印象に残り、山の石仏探しも今だに続いている。片曽根山の山頂には磨崖仏の三十三観音があって、それを探し出すのも楽しみの一つだった。弁慶が刻んだ磨崖仏との伝えを信じて何度も藪をかきわけたが、所詮子供の遊びであり三十三体すべて数えたことは一度もなかった。
磨崖仏は岩に直接仏像を刻んだもので、平安時代には日本各地に大型で肉厚のものが造られた。なかでも畿内と九州大分の磨崖仏は数も多くよく知られており、次に多いのが阿武隈山地の周辺なのだが、これについてはあまり知られていなかった。片曽根山の磨崖仏は線刻の三十三観音、彫りが浅いうえ形も小さく、素人の手によるものであることは明らかだった。
昭和49年の冬、久しぶりに片曽根山に登ったときには山頂まで車道が切り開かれ、三十三観音がある岩場は藪が刈られて石仏散策コースになっていた。これで石仏探しの楽しみはなくなってしまったが、初めて三十三体確認した。入口にある案内には「今から七百年前、弁慶坊が一丁の鉈で刻んだと伝えられているが、農民の一人が安楽平和と五穀豊穣を念じて刻んだものではないか」とあった。
平成4年の夏、片曽根山山麓に住む郷土史研究者・吉田今朝太郎氏から「片曽根山三十三観音の由来」なる冊子が届いた。吉田氏にはこの数年前に、片曽根山の南にある鞍掛山の姥神を案内していただいていた。冊子には、片曽根山の三十三観音は「江戸時代の文政のころ、山麓に住む農民・橋本辰治が自分の体調を治すために山に籠って刻んだもの」と記されていた。