偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏825八溝・旗鉾山(茨城)地蔵菩薩

2018年12月10日 | 登山

八溝・旗鉾山(はたほこやま) 地蔵菩薩(じぞうぼさつ)

【データ】 旗鉾山 368メートル(国土地理地図に山名は無い。宮古山の南の368標高点▼最寄駅 JR水郡線・大子駅駅▼登山口 茨城県大子町中郷の宮の前集落。地図の黒丸印▼石仏 宮の前と大草を結ぶ峠、下地図の赤丸印。青丸に石祠2基、緑丸に神武天皇遥拝所石祠▼地図は国土地理院ホームページより

【案内】 八溝山の南東山麓、中郷の宮の前集落から東の山を越えた大草集落を結ぶ峠に、大きな地蔵菩薩が坐している。登山口は中郷川を渡った先、登り出してすぐ左手に墓地があるところ。沢通しに登ったら道が消えてしまい、右手の尾根に取り付いたら地蔵の前に出た。正しい道は墓地の先から左手の尾根にあるようだ。

 地蔵は蓮華座・敷茄子・台座・敷茄子・蓮華座の上に、宝珠を両手で持つ90センチの丸彫り坐像で、台座などを合わせると2メートル近くになる。その大きさに圧倒される。屋根のトタンがはがれて柱が傾いている覆い屋が、地蔵を一段と引き立てている。蓮華座に刻まれた銘は『八溝山麓の石仏』から引用する。「上造立尊像一二世安楽祈女儀一結集 元文四竜」。元文四年(1739)は江戸時代中期である。

 地蔵の脇には庚申塔、地蔵、光明真言塔も祀られていた。


 地蔵の裏から尾根通しに旗鉾山へ向かうと、一つ目の小ピークに二基の石祠がある。祭神は不明。さらに北に登ったところが旗祠山。立派な石祠があり、『八溝山麓の里山を歩いて』(注2)から要約すると、嘉永六年(1853)に地元の神官・田村賢考が設置した「神武天皇遥拝所」の標木が始めで、大正13年に石祠にしたという。田村賢考(1818~1889)と、彼が大神宮山に立てた「伊勢皇大神宮遥拝所」の石碑は、このブログの大神宮山で案内した。
(注1)大子郷土史の会編『八溝山麓の石仏』平成2年、筑波書房
(注2)飯村尋道著『故郷六十年 八溝山麓の里山を歩いて』平成21年、サン企画


【独り言1】 高遠石工 旗鉾山登山口の宮の前集落の大雲寺に、高遠石工が造った宝篋印塔があるというので尋ねてみました。それは観音堂の右手に集められた石仏群のなかのひときわ大きな石塔でした。銘は読み取れなかったので『八溝山麓の石仏』から引用しますと、「石大工 信刕高遠城□城下 □□□矢沢七エ門」と刻まれているそうです。確認のため、高遠町の北原多喜男氏からいただいた「高遠石工の作品所在地」(約千名の高遠石工名がある)から探しましがが、矢沢七エ門は見当たりませんでした。
【独り言2】 大雲寺の石仏群を見たあと、旗鉾山への道を探しました。運よく、尋ねた家の老女に登山口まで案内していただきました。山向こうの福島から嫁いできたという老女は道すがら、親のすすめで行ったこともない顔も知らない人のところに嫁いできたこと。新婚旅行は嫁ぎ先の田畑や山を巡り歩いたこと。子供ができたとき姑のすすめで峠のお地蔵さんにお参りしたこと。そのお地蔵さんは、峠の先の大草の集落を向いたり、こちらの宮の前を向いたりしたことなどを話してくれました。地蔵が自分たちの方を向くように動かしたそうです。

 そのお地蔵さん、老女の話を真にうけて動かしてみようかと手をかけました。しかし7年前の大地震で少し動いたようで、蓮華座と敷茄子が少しずれているのに気付いて、やめました。今度大きな地震がきたら倒れるかもしれません。




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