【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

政治力の背陰に幻覚剤入りの酒=チチャ= (2/5) ; 歴史深層(036)

2022-09-22 05:35:37 | 史蹟彷徨・紀行随筆

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月22日<ⰧⰊⰧ

☆★ うまいこと大金ゲットしたはずなのに、パクられちまったZE!!! Oh!!Mistake...(1950年)。=少年が給料を強奪し、愛人と逃走するも2日後に逮捕(日大・オー・ミステーク事件)=☆★ 日光猿軍団の夢と東照大権現の御利益を載せた特急列車「けごん」が運行開始(1951年)。☆★ 天皇陛下におかせられましては本日手術に臨まれましたものの、本当の御病状を申し上げるには畏れ多く膵臓の病気であると陛下に申し上げ奉りました(1987年)。

本日記載附録(ブログ)

インカ帝国では、政府によって労働賦役が課せられていたが、その見返りとしてインカ主催の饗宴が執り行われていた。 饗宴では、織物などの他、チチャが与えられ、重宝されていた。 依って、チチャはアンデス中に最大限広がっていった。

国家による酒販売の独占形態であり、チチャの利用は、饗宴などを通して集団間の摩擦を和らげる働きがあった。 支配者には儀礼用としても非常に価値があった。 時には、幻覚剤を混ぜ、飲酒者の死的恐怖・肉体的苦痛を取り去り、催眠的暗示を施すのに用いた。

このように、チチャあるいはその原料となるトウモロコシは、アンデス文明の形成過程において、けっして欠かすことのできない重要なものであった。 それゆえ、品種改良で膨大な種類のトウモロコシが生み出された。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

 一千年前の古代ペルーを支えていたチチャ。 政治的政略・民意洗脳の酒=チチャ= …… 

◇◆  幻覚剤を混ぜた酒で人心掌握、一千年前のインカを支えていたチチャ =2/5= ◆◇

「離脱体験」
 アマゾン伝統の幻覚剤アヤフアスカと同様に、ビルカは鮮やかな体外離脱体験をもたらす。口から摂取するとその作用がかなり弱くなるので、通常は種子をいぶしたり、すりつぶして嗅ぎ薬にしたりする。だが、すりつぶしたビルカの種子をコショウボクのチチャに加え、双方の幻覚作用をもっと長続きさせるという発想には化学的な根拠があるとジェニングス氏は話している。

    「このチチャを飲むと、ある程度の幻覚や幽体離脱を体験することができます。ただしゆっくりと穏やかで、あまり過激ではありません。どこかに行くような体験や幻覚が生じますが、皆と一緒に行く感覚なのです」

 チチャに使用するコショウボクはキルカパンパの近くに生育していたが、ビルカの種子は、アンデス山脈の東側の山腹から入手しなければならなかった。つまり、キルカパンパにあったワリ族の村はこの地方の活気ある交流拠点で、効果抜群なチチャはこの村の特産だったかもしれない。ワリ文化の酒器に、特徴的な実をつけたビルカの木がたびたび描かれているのも、当然だろう。

 米ミルサップス大学の人類考古学者べロニク・ベリスレ氏は、今回のキルカパンパの調査には関わっていないが、古代ペルーにおける幻覚剤の使用について研究してきた。同氏によれば、ワリ帝国ではチチャにビルカを加えて飲んでいたと長く考えられてきたが、今まで考古学上の裏付けがなかった。

    「ワリ族の入植者たちが宴会を開き、ビルカを混ぜたチチャを客にふるまっていたことが、今回の研究で明らかになり、アンデス山脈の考古学に重要な進展をもたらしました」と、ベリスレ氏は言う。

    しかしながら、すべての考古学者がこの説に納得しているわけではない。米シカゴのフィールド博物館の学芸員、ライアン・ウィリアムズ氏は、160キロほど南東のセロ・バウルで、ワリ族の儀式拠点の遺跡を発掘した研究者だ。

    今回の論文の仮説は「興味深い」ものの、ビルカとチチャを混ぜて飲んだという証拠が見つかっていないと指摘している。ウィリアムズ氏は、セロ・バウルで見つかったコショウボクを用いた古代の醸造所でワタの種子が発見されたことに触れ、「でも、私たちは、ワリの人々がワタを(チチャに入れて)飲んでいたとは言いません」と述べている。

 確かに、キルカパンパの人々がコショウボクのチチャにビルカを混ぜたという直接の証拠はない。同じ場所でこの2つが見つかっただけだ。ジェニングス氏も、こうした点については認めている。「残念ながら、決定的な証拠はありません」。

    今後の調査では、ワリ文化のカップや酒器に残っているチチャの残留物にビルカの痕跡がないか調べる予定だ。「ビルカとコショウボクが同じ酒器に入っていた確証を得るために、ぜひ調査を実施したいと考えています」と、ジェニングス氏は意欲を燃やしている。 文=TOM METCALFE/訳=稲永浩子

・・・・・次回は”インカ以前、ワリ帝国「ビール外交」の謎を解明”に続く・・・

⨁⨂参考資料: ワリ (2/2) ⨂⨁

ワリ文化では、自らの領域内に、アンデスでは数少ない黒曜石の産地を数カ所持っていたので、多少は利用されていたようである。例えば、アレキパ県にあるAlcaやChivay付近、クスコ県の山間部では黒曜石を産出するため、その交易がワリ期に広範囲にわたって行われていたことが分かってきている。

ティワナク遺跡やその周辺遺跡から出土する黒曜石のほとんどが、このワリ文化圏から移入されていたと言われているが、実際のティワナク関連遺跡からの出土総数は極めて少なく、石鏃などの一部に利用されているにすぎない。

ティワナク文化ではむしろ黒色玄武岩などが珍重され、この石材はプーマをかたどった彫像など特殊な彫像などのために利用されている。ワリ文化では、特にワリ遺跡の中心部などでも、尖頭器(槍先)が出土しており、威信財として用いられていた可能性があるが、正式な調査はなされていない。また、チャートなど在地の石材が主に日常生活の利器には利用されていた。

ティワナク
ワリが栄えた時代には、現在のボリビア共和国にティワナクと呼ばれる文化が栄えていたことが確認されている。おそらくこのティワナク社会はかなり複雑な国家レベルの政治組織を持つ社会であっただろうと言われている。

かつて、ワリはティワナコイデあるいは海岸ティアワナコとよばれていたが、現在ではティワナクとは異なった政治組織および文化であることがわかったため、ワリと呼ぶようになった。

ワリとティワナクの境界はおおよそモケグア県あたりであったといわれている。モケグアには、ワリの地方遺跡であるセロ・バウルとティワナク政体の飛び地であるオモ遺跡群がある。これらは、それぞれ立地条件が異なっており、セロ・バウルが山の頂に、オモ遺跡群がモケグア川の近く谷底周辺に立地する。両者の具体的な関係はわかっていないが、このように棲み分けがなされていたことは注目に値する。

また、ワリ遺跡ではティワナク様式の土器などが散見されるが、ティワナク遺跡ではワリ文化の遺物が発見されることはほとんどない。

ワリとインカ

ワリの滅亡後、300年が経過すると、インカ帝国が成立する。ワリの支配の方法はインカ帝国にも受け継がれたといわれており、さまざまな面で影響を与えているといわれている。たとえば、インカ帝国全土に広がる道路網はワリ帝国の時代に基礎が築かれている。また、ワリの王統がインカに継承されているとも言われており、口承で残っている。

さらに、インカ期に用いられたキープ(結縄)と呼ばれる縄の結び目を利用した文字の代替用具が、ワリ期にすでに存在したとも言われている。さらに、インカの宿敵であったチャンカは、アヤクーチョが起源といわれている。

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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