本日記載附録(ブログ)
アフリカでしばしば大発生し、ユーラシアの農作物に深刻な被害を及ぼすサバクトビバッタ。
防除のために巨額の費用が投じられているが、未だに根本的な解決策は見出されていない。
『バッタを倒しにアフリカへ』と単身、西アグリカ・モーリタニアに渡った日本人がいる。
”愛するものの暴走を止めたい”と語る前野ウルド浩太郎、秋田市土崎港出身の人である。
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
“サバクトビバッタの相変異” の解明が世界を救う
前野ウルド浩太郎(07) ◇◆ 第3回 バッタ博士、サバクトビバッタと出会う =1/3= ◆◇
目下、モーリタニアのサバクトビバッタ研究所で、ポスドク(博士研究員)として野生のサバクトビバッタの研究をしている前野さんは、そもそもどうやって、サバクトビバッタの研究に足を踏み入れたのか。
前野さんは、いわゆる昆虫少年だった。ぼくの見立てでは、多くの少年が、一度は昆虫少年になるが、その後、興味を他のことに振り向ける。しかし一定の割合、「生涯昆虫少年」がいて、前野さんもその1人だ。
前野さんのバッタについての強烈な思い出。
「最初にバッタに強烈にインパクトを覚えたのが、小学校のときに読んだ科学雑誌の記事ッス。バッタ見学ツアーが外国で組まれて、見学に来た外国人の女性が緑色の服を着ていたところ、バッタが群がってきて服を食べてしまったという内容で、もう強烈に頭の中に残りました」
このエピソードはブログにも著作にも書かれていて、かなり有名かもしれない。
さらに……前野さんが昆虫少年としての座右においていたというのが『ファーブル昆虫記』だ。
「将来はファーブル昆虫記を書いたファーブルのような昆虫学者になれたらいいなあというふうな思いを抱いていました。大学を受けるときに、自分は何をしたいのかと考えたら、それを思い出しまして。実家の秋田県から近い、青森県の弘前大学で昆虫学をやってらした安藤喜一先生のところへ行こう! と決めたんです」
弘前大学で、前野さんが取り組んだのはイナゴを飼育繁殖させた上での脱皮についての研究だ。この時点で、前野さんの昆虫学における方向性にバッタ要素が加わったと言える(バッタとイナゴは違うのだが、ざっくりとした意味で)。ただし、安藤先生の退官と、前野さんの大学院進学の時期が重なったため、前野さんは進学先を外に求めなければならなかった。
前野さんが修士課程から博士号を取得、さらにはその後のポスドク(博士研究員)の最初の3年間、合計8年間も腰を落ち着けることになったのは、つくば市にある独立行政法人農業生物資源研究所。研究所の田中誠二博士は弘前大学出身であり、なおかつ、トノサマバッタの研究をしていた。そして、近縁のサバクトビバッタも比較の対象として飼育していたため、前野さんに本格的に研究してみないかと声を掛けたのだった。このオファーを受けた瞬間、おそらくは生涯続くであろう、前野さんとサバクトビバッタの繋がりが始まった。
日本で飼育されるサバクトビバッタは超要注意昆虫として扱われる。厳重な防疫の条件をクリアした上で、輸入害虫を管理するための二重扉の中でのみ飼育が許される。おまけに暑い地域のバッタだから、飼育温度は世界的に31℃と決まっているそうで、前野さんの研究は、夏でも冬でも、朝でも夜でも31℃、まさに常夏の飼育室での「格闘」となった。
そのかいあってか、前野さんの農業生物資源研究所時代は、学問的な意味で非常に生産的だった。師である田中博士とともに出した論文、それもファーストオーサーとしてのものが17報、セカンド、サードのものも合わせると22報を数える。すべてを網羅するわけにもいかないので、ご本人のセレクションで「お気に入り」という2報について述べてもらった。
・・・・・・・・明日に続く・・・・・・・・
…… 参考資料: バッタに人生を捧げます!! ……
天災レベルに大発生する害虫を愛する男が行き着いた"ある場所"
私はまだ自分自身でウルドの扱いに戸惑っており、自分でウルドを名乗ったことがなかったが、所長の中では「ウルド」はすでに確定している感じだった。「ウルド」を名乗るが良いと許しを得たのはいいが、親からもらった名前を勝手に変えるわけにはいかない。両親に相談したら、「お~、名前もモーリタニア風に変えるのはグッドアイデアでしょ!」と快諾されていた。どこまでもノリが良い両親だった。
出席者の自己紹介では会場がざわついた
会議はすべてフランス語だった。モーリタニアはフランスの植民地だったので、フランス語が主流となっている。
私もモーリタニアに渡航する直前に隣の研究室のフランス人のリシャー博士に付け焼刃でフランス語を教わっていた。「ケスクセ(これは何ですか?)」はとりあえずマスターしたのだが、質問した人がせっかく説明してくれてもその内容が理解できないことに気づいたのは渡航後だった。
会議が始まると20人近くの出席者が全員自己紹介をすることに。各国の長がテンポよく自己紹介していく。自分も腹をくくり、「日本人のコータロー・ウルド・マエノです。研究者やってます」と、よそゆきのフランス語で自己紹介したら、会場がざわついた。すぐに所長さんが補足説明してくれたら、会場が大笑いしていた。きっとウルドの件についてだろう。
その後、各々のプロフィールを回し書きする一枚の紙が回ってきたので、初めて「Koutaro Ould Maeno」と記入し、隣に座るババ所長に渡すと、それに気づいた瞬間、ハッとこちらに振り向き「コータロー……」と、ボソッとつぶやき、満面の笑みを浮かべてうなずいてきた。私も所長を見つめ、無言でうなずき返した。
「これからもずっとアフリカで」ついに論文名まで…
研究者が名前を途中で変えると論文検索するときに支障をきたすと聞いたことがあった。しかし、これからもずっとアフリカでサバクトビバッタの研究をしていく気満々だったので、とりあえず「形」から自分もアフリカ仕様になるべきだと考え、論文に使う名前を改名することにした。
「この外国人かぶれが!」と怒りを覚える人がいるかもしれないが、その昔、日本でも戦国武将たちはしばしば名前を変えていたではないか。「ウルド」には、これからサムライとして世界で闘っていく日本人としての誇りも込めていた。
現地の研究者たちにフランスのシリル博士、さらに以前アフリカのケニアにある昆虫学に関する国際的な研究機関の国際昆虫生理生態学センター(International Centre of Insect Physiology and Ecology:ICIPE)でサバクトビバッタを研究されていた中村達先生(国際農林水産業研究センター:JIRCAS)に助言を仰ぎ、初のフィールドワークでの結果を論文発表できるか挑戦したところ、最初に投稿した雑誌からは不受理の連絡をもらったが、二つ目の雑誌で無事に受理された(Maeno et al., 2012)。
自分の信じてきたローテクの研究スタイルがサハラ砂漠でも通用したことに手ごたえを感じ、このときばかりは熱い涙が頬をつたった。そして、この世にウルドを名乗る新しい研究者が生まれた瞬間だった。
・・・・・・・・明日に続く
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https://youtu.be/xeHukQ6Ux1k == Fighting a locust plague amid Covid-19 in east Africa ==
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