【サリム・ノール*サリム湖*南東湖畔】 【イリ渓谷最深部の南部 バインブルック草原】
”峠”という文字は 和製漢字である。 国字とも言うらしい。 イメージが湧く。 我々のホテルは峠にあった。 厳密には峠の南側(湖の反対側)に位置している。 ポロホロ山脈の西側はコキルチャン山脈と呼ぶ。 ホテルはコキルチャンの鞍部にある。 以前 鳥蘇市からポロホロ山脈越えの217号線を秋に利用したが、峠を越すのに岩稜地帯の細い道を2時間近くも要して登ったことがあった。 10月に上部は雪道であった。 峠は過日の上高地は釜トンネルのようであった。 両山脈上217号と312号は直線距離で約500kmあり、その中央部に鉄道線路が敷設されている。 軍事用だと聞く。 よって イリ渓谷に入るには自動車路を使うしかない。 航空路線はある。 ウルムチから空路一時間だ。
【 イリ渓谷 三題 (過日滞在時の撮影 】
100年前の旅行記を開くと この峠からイリ渓谷に降る街道はリンゴ畑をぬって進み、二日の行程であることが判る。 我々は早朝に宿を立った。 イリ(伊寧)市に入ったのは昼前であった。 走行距離110km弱だが峠の下部で交通規制(高速道路建設)に出くわしたからである。 リンゴの樹木は姿さえない。 取り折、蜂蜜を売る露天小屋がある。 昨夜ウルムチを出立したのであろう夜行長距離バスがクラクションを鳴らし、追い上げてくる。 対向車は少ない。
ホテルにて休息の後 市内観光にでる。 この町は各民族が住み分けているようだ。 伊寧市外に出ると、ジンギスカーン皇統は縁の廟が多くある。 特に パミールは西のタシケント近郊で愚連隊を気取っていたティムール*家系はジンギスカーンの第二子 チャガタイの武将と言うが信憑性は薄い が チャガタイ家の貴女と結婚 愚連隊を強力な軍団にし ジンギスカーンの再来と言われた*と愛妻が眠ると説明を受けた 眼前のトウグルグ・ティムール廟に驚いた。 あまりにもみすぼらしい。 あの モグリスタン・ハン国(大ペルシャ帝国以上の領土)を築きインド・ロシアに遠征しすること数回。 後年 明王朝にリベンジの遠征途上で他界した英雄が このような簡素な廟で安眠できるわけがあるまい。 彼は モグリスタン・ハン帝国を統治した14世紀初頭 世界中の芸術家・歴史家・天文学者・哲学者を集め、大学を造り、各地に美しいイスラム建築を建設した偉大な征服者、ジンギスカーンは破壊し ティムールは創造したと後世に言わしめた英雄なのだから。 ”我 ジンギスカーンの血を受ける者ではない”と 皇帝の位には就かなかった見識豊かな人物なのだ。 帝国衰退後 四代目がインドに亡命し、総てを失った放浪者の生活を経験しながらも、北部インド大陸を支配したムガール帝国*モンゴル→モンゴール→ムガール*の創立者なのだから。 タージ・マハールに見られる あの極限の美学 また 世界遺産として残る中近東のイスラム建築は 大半が彼の家系の創造物なのだから。 外壁のタズベリーは剥げ落ち、日干し煉瓦が露呈する簡素な廟に彼が最愛の女性と眠っているとは思いたくない。
霍城市にも蒙古系遺構多く リンゴ畑も多かった。 キルギスタンへの通関ゲートを一瞥し 夕刻 イリ河河畔に遊ぶ。 この河にてシホ族は物理的に他民族と分離されている。 無論 イリ市内は民族的な分離が歴史的に行われてきたが、 イリ川に架かる橋の袂に佇むと民族隔離政策の重さが身を揺り動かす。【シホ族の件 別記ブログ ”愚者憂患”に記載 アクセス賜れば 幸甚】
いま一人 このイリ渓谷に関与した重要人物を紹介しよう。 毛沢東の馬鹿でかい巨像が中国 至る所に 右手をかかげる虚勢で立っている。 いずれ ロシアはレーニン像と同じ運命だろうが、この 辺境の地に記念館があり、ブロンズの静かに思慮する 等身大の立像がある人物 名を”林則徐” 清朝末期の人である。 同行の蒙古族バイッチンさんに聞けば、場所を知らぬという。 林則徐は欽差大臣として 一人 大英帝国と渡り合い、聞かぬとあらば アヘンを各港で焼却処分した壮士である。 この事件がアヘン戦争の契機となり、清帝国の崩壊に繫がっていくも、 彼は西太后が逆鱗に触れこの地”伊寧”にながされる。 憔悴の旅の途上で記した日記が残っている。 彼もシルクロードが歴史を唯一の友に歩いたらしい。 トルファンではカレーズ(地下水道)に驚愕し、ウイグル民族の技量を 被支配者民族の文化に敬意の表している。 辿り着いたイリは乾隆帝の圧制そのもので 清朝はイリ将軍が少数の漢族とシホ族を執行官として 土着住民を奴隷のごとく 取り扱う行政に激怒する。 また ロシアの猛威を肌で感じる。 国土の防衛は ここに住む住民の郷土愛が根幹であるはず。 遊牧の民は状況しだいで国境すら渡り歩きく郷土愛の喪失者の群れ。 よって この地を豊潤な土地に 誇れる郷土に変えねば成らぬと 立ち上がる。 民族の垣根を越えて イリ渓谷(渓谷のイメージではこの地の広大さは判断できないでしょう 上記の写真を参照ください)の灌漑事業に後半の人生を掛けた人物です。 だから 人々は彼を愛し、 像を造り、記念館を自発的に維持しているのです。
翌日 イリ渓谷を詰め 大草原と湿原を見に行こうと イリ河沿いに4時間走る。 途中 定期青空バザールで停滞するも、走れども 走れども イリ河沿線の 穀倉地帯の風景は変化しない。 小生がポロホロ山脈はイリ渓谷側(南側)山麓で 蒙古族のパオ(夏用移動住宅)で過ごした 思い出の場所も まだ遥か先だ。 蜂蜜採集用のミツバチ箱が一面にあった山腹もまだ先だ。 モウーいい ユウ・ターン 勇たーん
翌日 帰り着いたウルムチ市内は やや落ち着きを取り戻している様子であった。 カービン銃を構えて 警備する軍属が交差点で目を光らせていた。
その夜 何時もの定番 屋台に足を運んだ。
【 屋台 カバブー店 風景 ・ 天山山脈 最高峰 テングリ・カン/7443m 近辺には立ち寄れない 】
閲覧 ありがとう 次回は”カシュガールからトルファンまでの【天山南麓 シルクロードロマン】”を開帳しましょう ご期待にそえるかな・・・・・・テングリ・カン(神の王)があなたを見守っています くよくよせずに 旅にでよう・・・・・・
”峠”という文字は 和製漢字である。 国字とも言うらしい。 イメージが湧く。 我々のホテルは峠にあった。 厳密には峠の南側(湖の反対側)に位置している。 ポロホロ山脈の西側はコキルチャン山脈と呼ぶ。 ホテルはコキルチャンの鞍部にある。 以前 鳥蘇市からポロホロ山脈越えの217号線を秋に利用したが、峠を越すのに岩稜地帯の細い道を2時間近くも要して登ったことがあった。 10月に上部は雪道であった。 峠は過日の上高地は釜トンネルのようであった。 両山脈上217号と312号は直線距離で約500kmあり、その中央部に鉄道線路が敷設されている。 軍事用だと聞く。 よって イリ渓谷に入るには自動車路を使うしかない。 航空路線はある。 ウルムチから空路一時間だ。
【 イリ渓谷 三題 (過日滞在時の撮影 】
100年前の旅行記を開くと この峠からイリ渓谷に降る街道はリンゴ畑をぬって進み、二日の行程であることが判る。 我々は早朝に宿を立った。 イリ(伊寧)市に入ったのは昼前であった。 走行距離110km弱だが峠の下部で交通規制(高速道路建設)に出くわしたからである。 リンゴの樹木は姿さえない。 取り折、蜂蜜を売る露天小屋がある。 昨夜ウルムチを出立したのであろう夜行長距離バスがクラクションを鳴らし、追い上げてくる。 対向車は少ない。
ホテルにて休息の後 市内観光にでる。 この町は各民族が住み分けているようだ。 伊寧市外に出ると、ジンギスカーン皇統は縁の廟が多くある。 特に パミールは西のタシケント近郊で愚連隊を気取っていたティムール*家系はジンギスカーンの第二子 チャガタイの武将と言うが信憑性は薄い が チャガタイ家の貴女と結婚 愚連隊を強力な軍団にし ジンギスカーンの再来と言われた*と愛妻が眠ると説明を受けた 眼前のトウグルグ・ティムール廟に驚いた。 あまりにもみすぼらしい。 あの モグリスタン・ハン国(大ペルシャ帝国以上の領土)を築きインド・ロシアに遠征しすること数回。 後年 明王朝にリベンジの遠征途上で他界した英雄が このような簡素な廟で安眠できるわけがあるまい。 彼は モグリスタン・ハン帝国を統治した14世紀初頭 世界中の芸術家・歴史家・天文学者・哲学者を集め、大学を造り、各地に美しいイスラム建築を建設した偉大な征服者、ジンギスカーンは破壊し ティムールは創造したと後世に言わしめた英雄なのだから。 ”我 ジンギスカーンの血を受ける者ではない”と 皇帝の位には就かなかった見識豊かな人物なのだ。 帝国衰退後 四代目がインドに亡命し、総てを失った放浪者の生活を経験しながらも、北部インド大陸を支配したムガール帝国*モンゴル→モンゴール→ムガール*の創立者なのだから。 タージ・マハールに見られる あの極限の美学 また 世界遺産として残る中近東のイスラム建築は 大半が彼の家系の創造物なのだから。 外壁のタズベリーは剥げ落ち、日干し煉瓦が露呈する簡素な廟に彼が最愛の女性と眠っているとは思いたくない。
霍城市にも蒙古系遺構多く リンゴ畑も多かった。 キルギスタンへの通関ゲートを一瞥し 夕刻 イリ河河畔に遊ぶ。 この河にてシホ族は物理的に他民族と分離されている。 無論 イリ市内は民族的な分離が歴史的に行われてきたが、 イリ川に架かる橋の袂に佇むと民族隔離政策の重さが身を揺り動かす。【シホ族の件 別記ブログ ”愚者憂患”に記載 アクセス賜れば 幸甚】
いま一人 このイリ渓谷に関与した重要人物を紹介しよう。 毛沢東の馬鹿でかい巨像が中国 至る所に 右手をかかげる虚勢で立っている。 いずれ ロシアはレーニン像と同じ運命だろうが、この 辺境の地に記念館があり、ブロンズの静かに思慮する 等身大の立像がある人物 名を”林則徐” 清朝末期の人である。 同行の蒙古族バイッチンさんに聞けば、場所を知らぬという。 林則徐は欽差大臣として 一人 大英帝国と渡り合い、聞かぬとあらば アヘンを各港で焼却処分した壮士である。 この事件がアヘン戦争の契機となり、清帝国の崩壊に繫がっていくも、 彼は西太后が逆鱗に触れこの地”伊寧”にながされる。 憔悴の旅の途上で記した日記が残っている。 彼もシルクロードが歴史を唯一の友に歩いたらしい。 トルファンではカレーズ(地下水道)に驚愕し、ウイグル民族の技量を 被支配者民族の文化に敬意の表している。 辿り着いたイリは乾隆帝の圧制そのもので 清朝はイリ将軍が少数の漢族とシホ族を執行官として 土着住民を奴隷のごとく 取り扱う行政に激怒する。 また ロシアの猛威を肌で感じる。 国土の防衛は ここに住む住民の郷土愛が根幹であるはず。 遊牧の民は状況しだいで国境すら渡り歩きく郷土愛の喪失者の群れ。 よって この地を豊潤な土地に 誇れる郷土に変えねば成らぬと 立ち上がる。 民族の垣根を越えて イリ渓谷(渓谷のイメージではこの地の広大さは判断できないでしょう 上記の写真を参照ください)の灌漑事業に後半の人生を掛けた人物です。 だから 人々は彼を愛し、 像を造り、記念館を自発的に維持しているのです。
翌日 イリ渓谷を詰め 大草原と湿原を見に行こうと イリ河沿いに4時間走る。 途中 定期青空バザールで停滞するも、走れども 走れども イリ河沿線の 穀倉地帯の風景は変化しない。 小生がポロホロ山脈はイリ渓谷側(南側)山麓で 蒙古族のパオ(夏用移動住宅)で過ごした 思い出の場所も まだ遥か先だ。 蜂蜜採集用のミツバチ箱が一面にあった山腹もまだ先だ。 モウーいい ユウ・ターン 勇たーん
翌日 帰り着いたウルムチ市内は やや落ち着きを取り戻している様子であった。 カービン銃を構えて 警備する軍属が交差点で目を光らせていた。
その夜 何時もの定番 屋台に足を運んだ。
【 屋台 カバブー店 風景 ・ 天山山脈 最高峰 テングリ・カン/7443m 近辺には立ち寄れない 】
閲覧 ありがとう 次回は”カシュガールからトルファンまでの【天山南麓 シルクロードロマン】”を開帳しましょう ご期待にそえるかな・・・・・・テングリ・カン(神の王)があなたを見守っています くよくよせずに 旅にでよう・・・・・・
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