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「――今週の土曜って、話聞いたの金曜日の夜だよ、
手荷物受取場の天井を見上げて、アルカードはひとりそうぼやいた――柱から体を離してバックパックを拾い上げ、コンベアに向かって歩き出す。それなりの長期間の拠点移設を踏まえた移動の準備、雇い主への事情説明、欧州にいるであろう知己への事情説明と支援要請――昨夜はなかなかハードスケジュールだった。
『アルマゲスト』の拠点はドイツとスイスの国境附近にあり、知己はバイエルンで燻製とビールを満喫中だったので、まあすんなり合流出来るだろう。彼が作戦に参加すれば、魔術師どもの姑息な罠もキメラもガーゴイルもゴーレムも問題にならない――ろくでもない外法の研究者どもが生き残る目もあるまい。
コンベアの周りに集まっていた人のほとんどはすでにいなくなり、コンベアに残った荷物もまばらになっている――アルカードは目の前に流れてきたトラベルバッグを取り上げ、預かり番号を確認してから取っ手を引っ張り出した――いったん元いた柱のそばに取って返し、アルカードはその場に残っていたペットボトルの底を足で刈り払う。
間の抜けた音とともに横倒しになりながら宙に浮いたペットボトルを爪先ですくい上げて片手で掴み止め、アルカードは到着口に歩き出した。
手荷物チェックの従業員にシールになった半券を示して、ロビーに出る――真向かいにローソンがあり、その両隣に手荷物一時預かり所と外貨の両替所があった。もう少し出るのが早ければ人でごった返していたのだろうが、荷物の受領に時間をかけていたので同乗していた乗客たちはすでに散ってしまい、まばらに人が残っているだけになっていた。
ローソンの前に雑誌の棚と並んで置かれた商品陳列台に平積みにされたとうきびチョコレートに目を留めたとき、ウェストポーチの中の携帯電話がメールの着信を示す着信音を鳴らした――SUM41のStill Waiting。
ペットボトルをローソンの店の前のごみ箱に投げ込んでから携帯電話を開いてパスワードを打ち込み、メーラーを開く――レンタルビデオ大手のメールマガジンだったのでそのまま携帯電話を閉じ、アルカードは歩き始めた。
まずは
返却の手間を考えると、白星学園がある千歳市街地近郊でレンタカーを用意するのが望ましい――空港内にもトヨタレンタカーがあるが、返却するのに新千歳空港まで持ってこなければならない。
事前に調べた限りでは――JR千歳駅近くに、ホンダレンタリースの営業所がある。駅からは遠いが、徒歩で行ける距離なので空港で借りるよりはましだ。昨夜のうちに渉外局から、アルカードの名義でGD3のフィットを一台レンタルする様に予約されているはずだ――インターネットの発達は実に便利だと言える。
札幌はともかく千歳市近隣には聖堂騎士団の指示に従わせられる人間がいないので、車を事前に用意させることは出来ない――それなら自分で借りに行ったほうが面倒が少ないし、余計な人間を巻き込むことも無い。
さて――
まず目指すはタクシー乗り場だ。襲撃を警戒するなら、自前以外の交通手段としてはタクシーが一番安全性が高い――仮に外から攻撃を受けても脱出が容易だし、それが襲撃であれ事故であれ、車を棄てて脱出しなければならない様な事態になっても運転手ひとり程度なら十分助けてやれる。これがバスや電車だったらそうはいかない。
周りを見回してタクシー乗り場の看板を見つけ、アルカードは歩き始めた。
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「――なに? また休暇か?」
店舗とつながった自宅のリビングでダイニングテーブルに頬杖を突き、アレクサンドル・チャウシェスクはそう返事をしてきた。どうやら従業員たちと酒盛りをしていたらしく、目が若干据わっている。子供が同席しているのに酒盛りはどうかとも思うのだが。
そろっているメンツは大学生のアルバイト従業員四人と老夫婦、それに孫ふたり。デルチャはいない――蘭の話だと、早々に酔い潰れた夫を寝かせに行っているらしい。
あの妖怪夫婦の遺伝子を受け継いでいるとは思えないくらいに酒の飲めない神城恭輔は、実際ビール一杯で酔っ払って寝てしまう。それが悪いとは思わないが――なにせ安上がりだ――、なんというかその場で寝てしまうので寝床まで運ぶのが面倒だ。
「はい」 勧められて硝子テーブルを囲むソファーの空いた席に腰を下ろしたアルカードがうなずくと、老人はかぶりを振って、
「おまえさんもあれだな、忙しいよな。で、今度はどこに行くんだね?」
「北海道です。期間はまだわかりません」 そう答えて、アルカードは大皿に開けられたポテトチップをつまみ上げた。
「おいおい、仕事はどうするんだ?」 柿ピーをつまみつつ、ジョーディがそう言ってくる。アルカードはばりぼりと柿ピーを噛み砕いているジョーディに視線を向け、
「しばらくは君らで頑張ってもらうしかない」
「よし。力仕事は任せたぞ、ジョーディ」 ぽムと肩を叩くフリドリッヒに、ジョーディが冷たい視線を向ける。
「……おまえのほうが体格いいだろ」
「俺はバイオリンより重いものは持ったことが無いんでね」
「こないだ俺と一緒に冷蔵庫運んだよな」 ジョーディと言葉を交わすフリドリッヒの主張を一言で片づけて、アルカードはお皿に盛られたカラムーチョを一枚取り上げた。老人の肩越しに時計を見遣りつつ、
「とりあえずこれから、事務仕事に関してはやれるだけやっていくつもりです。残りはこの案件が片づいてからですね」
「アルカードがいないと、わたしたちの仕事が三倍に増えるんだけど」 エレオノーラのグラスにビールを注ぎながら、そう言ったのはアンだ――アルカードは肩をすくめ、すでにへべれけに酔っぱらって着ているものを脱ぎ出そうとしているエレオノーラの腕を拘束した。別に飲むなとまでは言わないが、酒癖が出て脱ぎ出そうとするほど飲むのには問題があろう――目の保養にはなるのだが。
「たまにはありがたみを痛感しろ」 アルカードはそう言って、エレオノーラのグラスを奪い取って自分が一息に飲み乾した。
「というかおまえの女だろ、止めろよフリドリッヒ」 その譴責に、フリドリッヒが首をすくめる。アルカードはポテトチップを空いた手でつまみつつアレクサンドル老に視線を戻し、
「そんなわけで、しばらくは帰ってこられません――二、三週間くらいかかるかもしれません」
「そんなにかかるの?」 アルカード用だろう、池上の細君の実家からの土産物の国士無双の酒瓶を手に戻ってきたイレアナが、そう声をかけてくる。
「まだ流動的です。なんとも言えない」
「そうか。まあわかった、そこらへんは有給にしておいてくれ――おまえさん、普段は定休日でも仕事してることがあるからな。代休と有給の消化率がえらいことになっとるから、ここらへんで少し使ってくれ」
老人の言葉に、アルカードは頭を下げた。
「申し訳ありません」
「いいんだ。それより――」 にじり寄る様にしてアルカードのそばに近づいてくると、老人は彼の首に腕を回した。酒臭い息を吐きながら、
「わしはハスカップワインな――おいみんな、アルカードに土産物の注文を今のうちにしておけよ」
「インカの目覚めだったかしら? あのジャガイモを食べてみたいわね」 というのは老夫人の発言である。
「わたし白い恋人」 アンがそう言ってきた。
「それじゃ、俺はとうきびチョコレートを頼むわ。白黒両方で」 ジョーディがそんなことを言ってくる。
「よいとまけっていうロールケーキみたいなやつ、あれまた食べたいから買ってきてくれ」 フリドリッヒがそう言ってから、あと、ウィーンに送ってやりたいから日持ちのするものを頼むと続けてきた。
「わらしゆうぱりえろんえりー」
呂律が回ってない。わらしってなんだわらしって――エレオノールの言葉に胸中でだけ突っ込んで、アルカードは溜め息をついた。夕張メロンゼリーか。
「ミッフィーちゃんのラベンダー色がほしい」
「きつねさんのぬいぐるみー!」
蘭と凛が口々に言ってくる。子供たちの頭を撫でてから、アルカードは口元を緩めてうなずいた。
‡
試される大地・北海道――近くの壁にでっかい看板が飾られている。
北海道で試されるものとはなんだろう。
寒さに対する耐性。
あるいは夏場は結構暑いので、気候変化に対する耐性。
ウィンタースポーツの技量。
幹線道路で信号が少ないことからくる、スピード違反の誘惑に対する忍耐。
どれもありそうではある――とりあえず餞別つきで頼まれた土産物を先に宅急便で送るべきか、それとも帰るときに持って帰るべきかで思案しつつ、アルカードはターミナルビルの建物から外に出た。
少し離れたところのタクシー乗り場に、数台のタクシーが止まって客待ちをしている――アルカードがその先頭の緑がかった水色を基調としたタクシーに近づくと、彼の接近に気づいて助手席のドアにちとせ交通と社名を書いたタクシーの後部ドアが開いた。
運転手は英語含む外国語にはあまり明るくないのか、社内を覗き込んだのが外国人であることに気後れした様だったが、
「近くですけどかまいませんか」 アルカードが日本語で話しかけると、安心した様だった。
「どちらまで?」
「ホンダレンタリースまでなんですが」
肩越しにこちらに視線を向ける初老の運転手の問いにそう返事をすると、運転手はちょっと考えて、
「勿体無いですよ――ほんとに近くです。歩きでもそうかかりません」
「いいんです――土地勘が無いんでね」 その返事に、運転手はうなずいた。
「それならいいですけど」 そう返事をして、運転手がトランクオープナーを操作する。トランクリッドのロックがはずれるかちゃりという音が、車体後部から聞こえてきた。
トラベルバッグをトランクに積み込んでから後部座席に乗り込むと、運転手がタクシーを発進させた。
「お客さんはどちらから?」
「東京です――普段どこに住んでるのかって意味ならね。日本に来る前はローマにいました」
「イタリアですか――うちの娘がイタリア人に嫁いでね、今はローマで暮らしてます」 運転手がそんな返事を返してくる。
「へえ――でも僕はイタリアじゃなくて市国のほうでしてね」
「市国――ヴァチカンのことですか。へえ、神父さんには見えないけどなあ」 アルカードは運転手の言葉に苦笑して、
「今はプライベートですからね。これでも修道服も持ってるんですよ」
「お客さんは背が高いし恰好いいですから、似合いそうですね――うちの下の娘が結婚することになったら、お客さんの教会でお願いしましょうかね」
「残念ながら、普段は東京なんで要望には応えられそうにないですね」
「それは残念――と、ここです」
初老の運転手がウィンカーを出してアクセルを緩める――向こう側にホンダレンタリースの看板が出ているのを確認したところで、
「中に入ります?」
「ここに止められるなら、ここで結構です」 停止しにくいなら中に入ってください――と続けるより早く、運転手はタクシーを停車させてハザードランプを点燈させた。トランクオープナーを操作したのだろう、車体後部からロックがはずれるがちゃりという音が聞こえてくる。
運転手が料金を告げるよりも早く二千円札を一枚取り出して手渡し、釣銭を待たずに車から降りると、アルカードはトランクリッドを持ち上げてトラベルバッグを引っ張り出してからトランクを閉めた。
「お客さん、釣銭を――」 声をかけてきた運転手に、助手席の背もたれの裏側に用意してあった名刺を軽く振ってみせる――運転手の名前と電話番号入りで、気に入った運転手を名指しするためのものだ。
「またなにかあったら、お願いしますよ」 それだけ告げて、アルカードはたまたま出てきた従業員が開けてくれた営業所の扉をくぐった。
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