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まだ昼間だというのに、空は暗い――緞帳の様に空を覆い尽くした黒雲が一瞬だけ青白く照らし出され、グァラグァラという遠来の轟音が聞こえてきた。
その雷鳴に、馬車の御者席で隣に腰を下ろした姪がビクリと体を震わせる――雷雨の夜に忍んで村を襲った盗賊に両親を殺された経験を持つ姪は、雷がどうにも苦手らしい。
まあ無理もないが――御者としても、それを無理に改善させようという気にはならない。普段だと雷雨の夜は部屋に閉じこもって食事も取ろうとしない姪が、牛乳やチーズやバター、燻製類の納品についてくると言い出したのだから十分だろう。
だが、やはり妻と一緒に牧場に置いてくるべきだったかもしれない――雷雨の兆候を見せ始めたあたりからあからさまに落ち着きを失っている姪っ子に、
「幌の中に入ってなさい――毛布をかぶって眠ってても大丈夫だ。このあたりには山賊は出ないからね」
「ん、うん。大丈夫」 微笑する姪にかぶりを振って、
「大丈夫でもだ。じきに雨が降る――濡れない様に中に入りなさい」
その返事に、姪は素直にうなずいた。年の離れた姉夫婦の娘は、成長するごとに姉の面影を濃くしてきている。ふとした仕草に姉の面影を覗かせながら、彼女はカポカポという足音とともに馬車を引っ張る年老いた二頭の馬に視線を向けて、
「ごめんね、ディアーボ、ロドリゲス」 そう声をかけて――この名前をつけた妻の感性は、正直理解に苦しむものがある――、姪は幌をまくって荷台に入り込んだ。中には牛乳を入れた鉄の缶や、様々な乾燥度合いのチーズ、バターの入った箱が積んである――が、人ひとりが腰を落ち着けるくらいの隙間ならある。
幌越しにいろいろと話しかけてくる姪に返事をしながら、御者は周囲を見回した。ほかの土地でもそうである様に、ポルトガル王国にも山賊はいる。海に面しているので、海賊もだ――内陸にある国よりも、ある意味ではたちが悪いと言えなくもない(※)。
だがモンテモロ近くからリスボンにかけての街道には、今のところ盗賊のたぐいは出ていない――右手に見えるちょっとした丘陵地帯から視線をはずし、御者は席上で上体をひねり込んで荷台と座席の間の物置き場に置いた雨合羽へと手を伸ばした。
ちょうどその瞬間だったろう。
ひゅっという風斬り音とともに二頭の馬の悲鳴じみた嘶きがあがる――あわてて前に視線を戻したときには、ディアーボの尻に突き刺さった矢の尾羽がまだ震えているのがわかった。
姪っ子に警告を出す暇も無かった。右手から数本の矢が軽い風斬り音とともに飛来し、そのうちの一本が右の太腿に突き刺さって、御者は悲鳴をあげながら御者台から転落した――幸いだったのは、彼が左端に座っていたことか。左右の車輪の間に転落していれば、まだ止まっていなかった馬車の車輪に脚を轢き潰されていただろう。
「――おじさんっ!?」
悲鳴じみた呼びかけとともに、幌の中から姪が飛び出してくる。駄目だ、出てくるな――警告を与えるいとまさえ無かった。
幌の中から飛び出した姪が、丘陵の稜線から姿を見せた数人の人影を目にして硬直する。
「――逃げろ!」
激痛に歯を食いしばりながら姪に飛ばした指示を遮って、頭部に衝撃が走る――後頭部を爪先で蹴り飛ばされたのだと気づいたときには、視界に火花が散っていた。
「おーっと、嬢ちゃん。痛い目に遭いたくなきゃ、動くなよ」
「――おい、喰いもんがあるぜ!」
馬車の後部から歓声があがり、姪がそちらを振り返る。
「チーズにバターに牛乳にベーコンに、腸詰めもだ!」
「ほぉ、近くの牧場からリスボンに納品に行く途中か」 御者台に近づいていた髭面の大男が座席の上から姪を引きずり降ろし、そのついでとばかりに手に取った伝票を検めて、そんな言葉を口にする。
「ありがたいこった、あくせく働いて俺たちに食糧と女を献上してくれるとはな」
「その子を放せ――」 怒鳴りつけるよりも早く太腿に突き刺さった矢ごと矢疵を踏み抜かれて、御者はそれ以上悲鳴をあげることも出来ずにその場で身をよじった。
「黙れ」 人を傷つけ慣れた人間特有の酷薄な口調で、無頼漢のひとりが背後から声をかけてくる。
「あんまり暴れると、あの女
傷口を踵で踏みにじりながら、男がそんな言葉を口にする。男はふといいことを思いついたと言いたげに、
「それともあの女をおまえが犯してみるか?」
「おじさん!」 片手を捕まえられたまま、姪が悲鳴じみた声をあげる――なんとか御者の元に駆け寄ろうとしても、屈強な男に手首を捕まえられてそれもままならない。
伝票を読み上げていた男が口元をにやつかせながら、姪の体を引き寄せる。十代後半に入ってにわかに女性らしい丸みを帯び始めた少女の身体は、男にとっては十分に楽しめるものだったらしい。腕の中で暴れる姪の抵抗は――牧場で多少の力仕事に従事しているために、ほかの同年代の女性に比べれば力が強いとはいっても――、頭ひとつぶん背の高い男にとっては楽に抑え込めるものだった。
「放して!」 力ずくではかなうべくもない少女の抵抗も面白がっているのだろう、男は姪の身体をまさぐってニタニタと笑いながら、
「まったく、追い出されたとはいえこっちに来て正解だったな。さっそく上玉の女と喰い物が手に入った」 という男の言葉から察するに、彼らはどこかそれまで根城にしていた土地から追い立てられて最近このあたりにやってきたらしい。街道を張り込んで鼠取りをしている最中に、彼らふたりがのこのことなにも知らずに通りかかったというわけだ。
「だな、向こうは干上がりかけてたし」
「ああ」 仲間の同意に、姪を捕まえた大男がうなずき返す。
「仲間は残念だが人数が増えすぎてたし、ちょうどいい
どのみち先ほど抵抗して暴れる彼女を簡単に抑え込んでいたところをみると、あの男は姪の抵抗など自分が彼女を凌辱する楽しみを倍加させるスパイスくらいにしか思わないだろうが。
「やめろ、その子から――」
その言葉が終わるよりも早く、右足の矢疵に激痛が走った。深々と突き刺さった矢を、無理矢理引き抜かれたのだ――次の瞬間力ずくで抜き取られた矢を再び突き立てられ、抑えきれずに悲鳴が漏れた。
「うっせえよ、おっさん」 激痛に身をよじらせる御者の頭を地面に抑えつけて矢柄をぐりぐりと捩りながら、先ほど脚を踏みつけた無頼漢がそう言った。
「黙れッつったよな。あんまり言うこと聞かねえ様なら、てめえのワタ喰わせる前にあの女の乳を切り取っててめえに喰わせるぞ。ああ?」
「おじさん!」 泣き声の混じった姪の声が聞こえてくる。
「おじさぁん!」 と、これは彼女の身体をかかえた髭面の大男だ。ここにいる蛮族たちの中で唯一、革鎧ではなく金属製の軽装甲冑を身に着けている。
一番いい装備――ここにいる中では、こいつが一番偉いのだ。彼は自分を呼ぶ姪の泣き声を復唱してげらげら笑いながら彼女の身に着けたシャツを捲り上げ、服の下に無遠慮に手を突っ込んで未熟な胸と下半身を弄んでいる。
どんなに抵抗を試みても、おそらくは無駄だろう――この髭が一番いい装備を着けているということは、彼らの頭目はこの男で、そして一番強いのだ。ならず者や無頼漢には、力以外の序列は存在しない。
髭面の大男は暴れる姪の抵抗を簡単に抑え込んで彼女の身体を思うさままさぐりながら、
「よし、馬車を移動するぞ。馬車ごと持ち帰る――おっさんも馬車に乗せろ。はずした矢も回収して、痕跡は残すな」
その指示に、無頼漢のひとりが舗装された石畳を見下ろして、
「血糊はどうする?」
「ほっとけ。どうせじきに雨が降って洗い流される。それよりも雨が降って車輪の跡が残る前に、馬車を移動させ――」
大男の言葉は、唐突に止まった。御者を馬車の荷台に詰め込もうとしていた無頼漢ふたりがいぶかしげにそちらを見遣ってから、頭蓋に鋼をぶち込まれた頭目の姿に驚いて彼の体を地面に落とす。
右脚に激痛が走ったが、それどころではなかった――姪の身体を捕まえて凌辱していたクソ野郎が、頭蓋に鋼鉄製の短剣をぶち込まれて絶命しているのだ。
姪の身体を下敷きに、頭目の身体が草の上に倒れ込む。
ざわり――と、その場にいた者たちに動揺が走った。風に撫でられた畑の麦穂の様に。
短剣は右のこめかみに突き刺さり、左のこめかみから鋒を覗かせている――鋼材を叩き伸ばして形を整え、握りの部分に革紐を巻きつけただけの簡素な短剣。だが柄もなにも無い装飾性ゼロの短剣が、部材の量に見合って十分な強度と重量を持っていることは想像に難くない。装飾性を一切度外視して武器としての機能性だけを追求した、格闘戦用の短剣だ。
短剣が突き刺さったとき、彼は御者のほうを向いていた。つまり――
太陽を追う向日葵みたいに、無頼漢たちが一斉にそちらを見遣る。彼らが一斉に視線を向けた先、街道のすぐ脇に転がった巨大な岩に雷が落ちてバーンという雷鳴が耳を聾し、周囲が稲光に照らし出されて一瞬だけ昼間の様に明るくなった。
その男が雷を呼んだのか、それとも雷が彼を運んできたのか。昼間だというのに薄暗い空の下、漆黒の外套を羽織ったその男は岩のすぐ横にたたずんでいた。
「あ――」
頭目を仕留められたからだろうか。それとも彼を知っているのか。
無頼漢たちの表情に、隠し様も無い動揺がにじんでいる――その気になれば相手はただひとり、十二、三人という数の差を考えれば容易に押し潰せる相手だろうに。
さもあろう――彼らがおびえるのも無理は無い。
一目見た瞬間、御者の目にはそこに立っているのが人間ではなく悪魔に見えた――姿かたちが化け物じみているわけではないが、男の纏った異様な気配がそう錯覚させたのだ。
おそらく
「
誰かがそうつぶやくのが聞こえる――その声は明らかに恐怖で震えており、視線の先にたたずむ攻撃者を知悉していることを示唆していた。
間違い無い――彼らはこの男に縄張りを追われて、この近辺まで逃げてきたのだ。
フードを目深にかぶっているために、男の表情は窺えない。男はその場に棒立ちになったまま、外套の合わせ目から左手を出した。
おそらくはなにか持っているのだろうが、脚の傷の出血で意識が朦朧としている御者には細かいところまではわからない。
男が左手を下から上へと振り上げて、左手で握っていたものを宙に放り上げる。なにか無数の小さい黒い粒の様な――石ころか、あるいは金属の球か。
いったいなにをやったのか、男の正面の空間でバチュンバチュンという金属音とともに立て続けに火花が散り――次の瞬間ある者は眉間ある者は側頭部、無頼漢たちの頭部に近い箇所で次々と紅いものが散り、そのさらに次の瞬間には無頼漢たちがうち棄てられた
どさりと音を立ててすぐそばに倒れた無頼漢の死体の眉間に、小さな穴が開いている――その無頼漢の死体の膝の上に倒れ込んだ別の無頼漢の屍は、おそらく眉間から入った攻撃が後頭部に抜けたのだろう、後頭部に大きな穴が開いてそこから脳髄がこぼれ出していた。
おそらく残る者たちも、同様にして殺されたのだろう――そう、殺されたのだ。
いつそうしたのか、男は左手を下ろして代わりに右手をまっすぐに伸ばしている――なにをしたのかもわからない。男の左腕の下膊を鎧う金属の手甲に、薄い
男が一歩踏み出してから足を止め、ふと丘陵側へと視線を転じる。
「もう一匹いたのか」 癖が無く聞き取りやすいポルトガル語で、男がそんな言葉を口にした――まるで十代の若者の様に精悍で若々しい、しかし錆びた鉄を無理矢理こすり合わせたきしみ音の様にも聞こえる声。
その視線を追うと、どうやって隠れていたのかは知らないが――荷台でチーズをあさっていたのか、あるいはただ単に攻撃の当たらない場所にいたのか。いずれにせよ頭髪を剃り上げた男がひとり、仲間の屍に背を向けて丘陵の勾配を駆け登っている。
男は別段追い駆けようとする様子も見せずに足元に転がっていた小石をひとつ拾い上げてそちらに向き直ると、そのまま一歩踏み込みながら上体をひねり込んで手にした小石を投げつけた――のだろう、たぶん。一体どういう現象なのか、白く細い雲の様な筋が尻に帆かけて逃走を試みた無頼漢の背中へと伸び――次の瞬間には無頼漢の巨体が撃たれた兎の様に跳ね、投げ棄てられた芋袋みたいにその場でどさりと倒れ込んで動かなくなる。
一分と費やさずに無頼漢十数人を虐殺してのけたその男は無遠慮な足取りで御者のほうに近づいてくると、邪魔だったのか御者のすぐ横に倒れ込んでいた無頼漢の体を片手で持ち上げて適当に脇に放り棄てた。
「民間人か」
そんなつぶやきが聞こえてくる。ぽつりと、ようやく降り始めた雨滴が頬を濡らした。
異形の気配を纏ったその男が、御者のかたわらにかがみこむ――手を伸ばしてなにをしようとしているのかもわからないまま、御者はその場で意識を失った。
※……
現代の海賊、たとえばレーダーやソナーなどの電子索敵装置を備えたシーシェパードやグリーンピース、ソマリアの海賊といった海の無法者たちと違い、大航海時代の海賊は航行する船を遠距離から発見する手段を持っていませんでした。
船は航路を必要に応じて自由に設定出来るので、いわゆる陸の盗賊たちの様に街道を張り込んで待ち構える様な略奪はせず、つまり海賊が船で船を襲うことは稀でした。あるとしたら、たまたま航海中に発見したケースです。
したがって大航海時代における海賊とは離島に根拠を構え、船で移動して沿岸沿いの村々を襲うことがほとんどであった様です。山賊が陸路を使う盗賊なら、海賊は海路を使う盗賊ってところですね。
北斗の拳に例えるなら、山賊はモヒカンがバイクで、海賊はモーターボートで襲ってくるって感じです。
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