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この世の地獄というものがある。
それは人それぞれであろう。
たとえば、本当に偶然に起こった交通事故で馬車に轢かれ、内臓を損壊した幼子が過ごす恐怖と苦痛に満ちた死への秒読みは、その子供にとって紛れもなく地獄の顕現であろう。
たとえば、軍隊の焼き討ちに遭って家の中に大勢で閉じ込められ、建物ごと焼き払われんとしているとき、焼かれる家の中にいる者たちにとって酸欠からくる呼吸困難と意識が失われるまでの間味わい続ける灼熱感は、彼らにとってまったき地獄だろう。
たとえば、本当にたまたま愚かなならず者たちに目をつけられ、物陰に引きずり込まれてなにひとつわからぬままいつ果てるとも無き凌辱を受け続ける乙女の苦痛は、彼女にとって間違い無く地獄だろう。
だが、それよりもさらに苛烈な地獄が具現する場所がある。戦場だ。
馬蹄に踏みにじられ車輪に轢き潰される子供も、家の中に閉じ込められ火のついた松明と燃料油を投げ込まれる家族も、物陰どころかそこらじゅうで進駐してきた軍人たちの昂ぶりの処理のために純潔を引き裂かれる乙女も、彼はその目で多く見てきた。
道端で飢えて死んでいく老人も、自分たちが生き残るためにほかの難民を殺して金品を奪いさらには死肉を喰らう者たちも、死んだ親にすがりついて泣く子供も、親の屍のかたわらで飢えて死に乾燥した嬰児の亡骸も。
だが、それらすべてが霞んで見える様な地獄がこの世には存在するのだということを、彼は今はじめて思い知らされた。
屋敷の中は、死体であふれかえっていた。
まだ生きていたのか、逃げ惑う侍女たちを別な男――園丁のひとりが追いかけている。金切り声をあげながら、腰が抜けたのか四つん這いで逃げていく娘の足を捕まえ、園丁は自分のほうへと彼女を引き寄せた。
結婚を間近に控えた侍女の口から絹を裂く様な悲鳴がほとばしる。背後から圧し掛かる様にして少女の体をうつぶせに組み敷く、男――園丁はそのまま少女の衣装の背中を引き裂き、あらわになった首筋に口を近づけた。
それを目にしたときには、すでに体が動いていた――彼の意志の昂ぶりに呼応して、手にした黒い曲刀が絶叫をあげる。
首筋を真っ赤に染めた少女が、悲痛な悲鳴をあげている――その背中から組みついた男の頭蓋骨の後ろ半分を、彼は曲刀の一撃で斬り裂いた。
後頭部を引き裂かれ延髄を破壊されて、園丁の体は少女の体に覆いかぶさる様にして倒れ、そしてそれよりも早く崩れ落ちた。一体何事が起きたのか、園丁の体はまるで地面に叩きつけられた藁の燃え滓の様な灰とも塵ともつかぬ粉を撒き散らしながら消滅していく。
だが消滅するよりも早く、彼はその男が侍女の婚約者であったことに気づいていた。
「……ディミトリ……」 そのつぶやきはもはやなんの意味も為さない――唇を噛んで、彼は少女のかたわらに跪いた。少女の首筋にはディミトリが噛みついた跡が残っていた――とてもではないが、恋人同士のふざけあった甘噛みなどではない。歯が皮膚を噛み破り、肉に深々と喰い込んでいる。
喰おうとしたのだ。
容赦無く撃ち込まれた歯が肉を喰い破り、動脈にまで喰い込んでいる。艶めかしい首筋は動脈血と静脈血が混じり合ってまだら色になった血にまみれ、出血と肉を食いちぎられた激痛によるショック症状が出ているのだろう、少女の体はすでに細々とした痙攣を繰り返すだけになっていた。
「……ヴィオリカ……」 激痛に見開かれたままの少女の瞼をそっと閉じさせてから、彼はすでに事切れつつある少女のかたわらで立ち上がった。
黒い曲刀を手に背を向けて歩き出しかけたとき、それまで静かだった曲刀が突然耳を劈く様な絶叫を発した。
――ギャァァァァッ!
あわてて振り返る――そしてそれよりも早く足を掴まれた。
足元に視線を投げると、床の上で倒れていたヴィオリカが彼の足首を掴んでいる。顔を上げてこちらを睨みつけていたが、もはや記憶にある愛らしい笑顔の欠片も見て取れない。
濁った瞳はなにも映しておらず、その表情は血に飢えた獣の様だった。口の端から涎が滴り落ち、狂った様に言葉にならない声をあげている。
足首を掴む力は、非力な女の子の握力とは思えない――左脚を鎧う脚甲の装甲板が、信じられないことに指の形に歪み始めている。
なんだと――完全な不意討ちに、彼は小さくうめいた。まさか――化け物に襲われると化け物になるのか!?
毒づいて、彼は咄嗟に黒い曲刀を振り翳して彼女の背中に突き立てた――たとえ咄嗟の反応でも、否、だからこそ訓練を受けた熟練の殺戮者にとって標的は見誤り様もない。逆手に持ち替えて突き下ろした曲刀の鋒が、脊椎の横から肋骨の隙間を縫って、正確に心臓を貫く。
その瞬間、刺された豚の様なすさまじい絶叫とともに少女の体が崩れ散った――血で真っ赤に染まった衣装を残して、ヴィオリカの体が塵と化していく。
あっという間に崩れ散ったあとに残った少女の衣装を見下ろして――彼は踵を返した。
ヴィオリカの最期の絶叫が仲間を呼ぶものだったのか、あるいは彼の臭いでも嗅ぎつけたのか。
彼が立っていた屋敷の中庭の入り口から、多くの男女が中庭に出てきている――いずれも足元がおぼつかず、まるで幽鬼の様な足取りだ。
皆、知っている顔だった。
誰も彼もが、この屋敷の使用人だったのだから当たり前だ。
先頭にいるのはボグダンだった。
祖父の代から息子まで、四代にわたってこの屋敷に料理人として仕えていたボグダン。養父の稽古でへとへとになった幼い頃の彼を迎えてくれたのは、いつもボグダンだった。
「ボグダン――」 思わずボグダンの名前が口を衝いて出た。変わり果てた姿のボグダンが左半分が喰いちぎられた顔で微笑んだ様な気がしたが、それは所詮気のせいだったのだろう――ボグダンが包丁傷のある大きな右手を伸ばしてくる。左手は肘から先が喰いちぎられ、筋繊維のこびりついた骨が突出していた。
次の瞬間には彼の強振した曲刀が、ボグダンの腕を半ばから切断していた。切断された腕が回転しながら地面に落下し――そしてそれよりも早く消滅する。次の瞬間には刀身を切り返した続く一撃が、ボグダンの胴を薙いだ。
仰向けに倒れ込んだボグダンが、こちらに手を伸ばしながらすさまじい絶叫をあげる。その声は、彼が手にした曲刀の鋒を肋骨の隙間から心臓に差し込むと同時に途絶えた。
視界が揺れている――足が震えているのだと気づいた。眩暈にも似た感覚を感じながら、唇を噛む。
足元で塵になっていくボグダンから視線を転じる。ボグダンの妻のクララが、左脇の肋骨が剥き出しになった姿で近づいてきていた。
肋骨がいくつか無くなっていた。心臓が半分無くなっているのが見えている、致命傷のはずだ。
喉の奥から熱いものがこみ上げてくる。強烈な嘔吐感と闘いながら、彼はクララと、彼女の背後から近づいてくる鎧武者に視線を向けた。
「……グリゴラシュ……」 まだ自我が残っているのだろうか。ドラキュラと対峙したあの部屋でアンドレアとともに屍になっていたはずの男は、ほかの生ける屍たちとは対照的にしっかりとした足取りで近づいてきている。暗闇の中で爛々と輝く紅い瞳が、こちらを捉えていた。
グリゴラシュ・ドラゴス――彼と同じドラゴスの名を冠する剣士であり、彼の養父の実子でもある。そしてここ数年ハンガリー王フニャディ・マーチャーシュの命のもと、叛オスマン派の
「よぉ、ヴィルトール。おまえもそうなったのか」 唇をゆがめて笑みを作り、グリゴラシュが声をかけてくる。
「……おまえ……」
グリゴラシュが笑みを浮かべる。
「どうした? なんでそんな身構えてるんだよ――義理とはいえ兄上に対して、随分と冷たい態度じゃないか。なあ?」
一歩踏み出したグリゴラシュの鼻先に、彼は曲刀の鋒を突き出した。
「それ以上近づくな」
「おいおい。どういうつもりなんだよ」
「どうしたもこうしたもあるか――おまえ、その顔はなんだ?」
その言葉に、長身の美丈夫は口元を濡らす赤い血を拭った。
「ああ、これか? さっき喉が渇いて仕方無かったから、厨房の樽の中に隠れてた子供で腹ごしらえをな」
たいしたことじゃないだろ? と肩をすくめるグリゴラシュ――その上体が大きく後ろにそれた。彼が無言のままで踏み込みながら振るった曲刀の一撃を躱して、そのまま後方へと跳躍する。
「ひどいな。なにをするんだ?」
「黙れ。ひどいだと? 笑わせる。グリゴラシュ、おまえ――この屋敷の生き残りを喰ったのか? 子供だと言ったな――樽の中に隠れられる様な子供といえば、ボグダンの孫のウジェーヌだけだ。ウジェーヌを殺したのか――まだ二歳にもならない様な子供を!」
吼えて、彼は地面を蹴った。彼の怒りに反応してか、曲刀の刀身が発した絶叫が中庭の空気を震わせる。
すでに接近しつつあったクララの腕をかいくぐり――そのまま脇をすり抜け様に背面越しに曲刀の鋒を背中に突き立てる。耳障りな絶叫とともに塵と化して消滅していくクララにはそれ以上目も呉れぬまま、彼はグリゴラシュに襲いかかった。
思い風斬り音とともに振るった曲刀の鋒が、標的を失ってむなしく宙を薙ぐ――再び曲刀の鋒を躱して後方へ跳躍し、グリゴラシュは間合いを作り直した。
「馬鹿馬鹿しいぜ、ヴィルトール――なにを怒ってるんだ? 公爵殿下が言ってたじゃないか――俺たちは人間を超えたんだ。下等生物をどうしようが自由だろ? 俺も、おまえも」
「公爵『殿下』だと……?」 思いきり顔を顰めて、彼はグリゴラシュの言葉を反芻した。
「なんの寝言だ、グリゴラシュ――この屋敷をこんな有様にして、おまえの生家に仕える者たちをあんなふうにしたのはあの男だぞ、グリゴラシュ」
「ああ、そうだな。それがどうした?」
そう返事をしながら、グリゴラシュが腰に吊った長剣の鞘を左手で掴んで軽く持ち上げる。薔薇をあしらった意匠の装飾が施された柄に手をかけ、グリゴラシュは帯びていた長剣を引き抜いた。
「この一年間ともに剣林弾雨を駆け抜けた、義兄弟と剣を交えるのは心が痛むがな――」
オスマン帝国軍との歴戦の中でかなり傷んだ長剣がかすかな摩擦音とともに抜き放たれ、中庭の端の方に焚かれた篝火の明かりを照り返してオレンジ色に輝く。
「――まあ、仕方が無いか」
「一緒にするんじゃ――ねえッ!」 吼えて、彼は地面を蹴った。
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