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「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
日本語版前書き
現状と「記憶のずれ」
2、物的証拠
一方では、化学兵器製造を立証する証拠と、化学兵器製造が引き起こし、今なお続く公害問題が、次々と明らかになっている。1919年、軍部は化学戦計画をスタートさせた。異なるタイプの毒ガスの研究・開発は、最初、東京の陸軍科学研究所で始まった。その後、さまざまな毒ガスの大量生産が広島県竹原市の大久野島で始まった。この1つの工場だけでも、最盛期には5000人以上の労働者が働いていた。ここで生産された毒ガスは、その後、北九州市の工場に送られ、そこで爆弾、砲弾などの軍用兵器に充てんされる。生産された毒ガスは、発泡剤(サルファーマスタード、ルイサイト)、血液製剤(青酸)、ヒ素剤(ジフェニールシアンアルシン)、窒息剤(ホスゲン、ジホスゲン)である。兵器のテストと化学兵器の使用訓練は、陸軍習志野学校で行われた。1935年までには、大久野島の化学兵器工場はフル回転で生産活動を始めていたが、ここでの毒ガス生産活動は、長い間秘密にされてきた。日本の化学戦計画のことが明るみに出たのは、1984年になってからのことである。
日本軍が中国の広範囲を占領下におさめるようになると、化学兵器の製造は中国本土にまでおよんだ。日本の化学兵器工場は、北は内蒙古のフフホト、南は杭州、そして、西は中国奥地の幾つかの主要都市にまで広がっていったことが現在わかっている。化学兵器工場の多くは、満州の吉林省、特に敦化市内外に設立された。この地では、莫大な量の化学兵器が製造された。1931年から1945年8月までの間に、化学兵器に使われる毒薬が7トンから10トンも製造されたと考えられている。人体実験は開発した兵器の有効性をテストするために行われたのである。実験では何百人もの人々が死亡した。化学兵器工場の労働者もまた、生命を脅かす危険な毒薬に触れたため、数百人が死亡、もしくは、病気にかかった。
※ハリスの記述と「大久野島から平和と・・・」の記述には大きな違いがある。
ハリスによると中国でも毒ガスが日本軍によって作られたことになっている。また、量もだいぶ違う。詳しいことはわかりません。
だが日本は、1925年のジュネーブ協定を無視し、毒ガスや細菌兵器の開発、製造に力を注いだことは確かだ!!
その結果、中国で、その兵器の使用によって、多くの中国兵・中国市民に被害を与えた。また、作った工場労働者にも被害が及んだ。戦争の傷跡は今でも癒えることはない!!
大久野島は戦時中地図から消されていた。秘密を隠すため。
そして、今でも、遺棄した毒ガス弾によって、中国市民の生活が脅かされている。
人道上許されないことをやっていたのだ!!すべては大東亜共栄圏確立という大義のため?
(参考ホームページ)
大久野島から平和と環境を考える会
1 大久野島と軍とのつながり。
・大久野島は周囲約4kmの島です。もともとは、瀬戸内海を拠点に南北朝頃から台頭してきた村上水軍の末裔が住みついていた過疎の島でした。
日清戦争後、日露戦争の前、軍都広島と軍港呉を守るために要塞地帯法がつくられ瀬戸内海の島々や岬に砲台が設置され芸予要塞が構築されました。大久野島にも1902年、北部・中部・南部と3つの砲台が置かれ、あわせて16門が設置されました。それ以降大久野島と忠海町は軍隊と深いつながりをもつ島と町としてその歴史を刻んできました。
・大久野島に毒ガス工場が設置されたのは1929年でそれから1945年の敗戦まで16年間、陸軍兵器工場が置かれていました。ここでつくられた毒ガスは、北九州の曽根というところに運ばれ、そこで、迫撃砲弾や航空機からの投下爆弾に装填され、戦場へと送られていきました。
長崎に投下された原爆がはじめは小倉を標的にしていたのは、米軍がこの毒ガス工場の存在を重視したからだという説もあります。
・毒ガス兵器という国際的に禁止された兵器をつくっていたので、戦争中はこの島は地図からも消されていました。
・このように大久野島は、明治以降軍事的な要地として利用されてきた島です。今でも日露戦争前に造られた北部・中部・南部砲台の建造物が残されています。
2 日中戦争の頃の毒ガス製造。
1929年陸軍造兵廠火工廠忠海製造所完成、毒ガスの製造始まる。最初は毒ガスの生産は需要の少ないこともあってサイローム(特殊赤土に青酸を吸収させる。)生産。ミカンの木に着く貝殻虫を駆除する農薬なども生産していました。
1937年日中戦争が始まると毒ガスの生産量が急増、中国各地で実戦に使われるようになりました。しかし、日本軍は国際法上禁止された毒ガス製造と毒ガス使用をひた隠しにしながら、日中戦争で使用し、多くの中国人を殺傷しました。
日本軍が毒ガスを製造したのは、陸軍の毒ガス製造工場である大久野島と海軍の毒ガス製造工場の神奈川県の相模海軍工廠の2カ所だけです。
相模海軍工廠は製造が始まったのも1943年で日中戦争末期であり、生産した毒ガスの総量は760トンで本土決戦に備えて国内各地の海軍の貯蔵庫に配備されたが使用されませんでした。
大久野島の毒ガス生産総量は6616トン、その約半分が国外に持ち出され戦争に使用され、日中戦争では約1万の死者が出たといわれています。日本軍が戦争で使用した毒ガスは大久野島で製造されたものでした。
3 敗戦時、日本軍は大量の毒ガスを中国に捨てて帰りました。
敗戦時、日本軍は国際条約に違反した毒ガス使用の事実を隠すために、中国の畑の中や川の中などあちこちに毒ガスを棄てて帰りました。そのために戦後、2000人以上の中国の人達が農作業や下水道工事などの時、埋もれていた遺棄毒ガスによって被害に遭い、現在でもその後遺症に苦しんでいます。掘り出された毒ガス缶が何か解らないので調べているとき被害を受けたり、工事中壊れた毒ガス弾の毒液が水の中に漏れ出ていて知らずにその中に足を入れたり毒液をかぶったりして被害を受けました。戦争が終わっても平和に暮れしている人を傷つけ生活を破壊しているのです。
1993年に発効した化学兵器禁止条約によって日本政府は中国に棄ててきた毒ガス弾を処理する国際的義務を負っています。2003年までに約70万発(中国側の資料では約200万発)を掘り出し処理しなければなりません。これをなすには莫大な費用と時間がかかると予想されます。2000年9月13日黒竜江省の北安市でその処理作業が始まりました。
4 敗戦時、大久野島にも大量の毒ガスが残されたていました。
敗戦直後、大久野島周辺に残されていた毒ガスの量。
敗戦時、大久野島とその周辺には約3000トンの毒ガスと16000発の毒ガス弾が残されていた。これは世界中の人間を殺戮できる量です。国際条約で禁止されていた毒ガスはどのように処理されたのでしょうか。その方法を探っていけば、現在の大久野島の砒素汚染の原因も明らかになってきます。
大久野島の毒ガス処理を請け負って実施した帝国人絹三原工場の社史によると敗戦時の毒ガス貯蔵量は約3000トンでした。
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
父や母の被害
方栄昇(男、68歳)の証言
1937年には家は水西門倉巷55号でした。日本兵が南京に侵入してから、私たち一家5人は鼓楼の陰陽営の難民区に逃げて行き避難しました。ある日、日本軍が家に闖入してきて、16歳の弟を捕まえて行ったきり、いまだに音信がありません。その頃父は家のことが心配で、様子を見に帰ろうと思い、結局道の途中で日本軍に銃殺されたのです。(方栄生と李幗義が記録)
●『陸軍登戸研究場見学ツアー』(転載)
●日時:12月20日(日)10時
●集合場所:小田急線「生田駅」前集合
●見学後、明大食堂で姫田先生のお話
●参加費:無料
●主催:埼玉9条連・川崎9条連「共催」
◆『フィールドワーク・陸軍登戸研究所』
http://www.book.janjan.jp/0909/0909069848/1.php
●【裁判のお知らせ】(転載)
チチハルの毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2009年12月21日(月) 10:00~11:30
場所:東京地方裁判所 103号法廷
結審です。丁樹文さんが来日して弁護団と共に
最終意見陳述を行います。丁樹文さんが、より
多くの人に見守られ、励まされて、陳述できる
よう、ぜひ傍聴にいらして下さい。
裁判終了後、東京地方裁判所裏の弁護士会館
1002号室で報告集会が行われます。
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円
休館 月・火
03-3202-4633
早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分
●独り言
・事業仕分けでは宮内庁の事業を見直したのだろうか?テレビからの報道では全然報道されなかったけれど?聖域なくやってもらいたい!!いろいろ建物を改装しているのではないか?
・町内会費から、この地区の神社に勝手に寄付されている!!「境内御神木、枝はらい、保護事業」何だ!これは?
まだ日本の多くの町内会では、神社に多くの寄付が自動的にされているのではないか?私が住んでいる所は自動的に町内会費が天引きされ引きされ、8月のお祭りには一律千円をこれまた、自動的に引き落とされている!!まだ、日本には戦前・戦中の国家神道の名残が色濃く残っているのではないか!!
・毎年、正月に民主党と自民党の幹部が伊勢神宮に参拝するのはなぜだ?もう国家神道の時代は終わり、天皇も『人間宣言』したはずなのに!!まだ、日本は天照が神様なのか?
・ 今、政治の世界では沖縄の普天間基地の移設問題が大きな問題となっているが、そもそも沖縄を軍事基地化させたのは昭和天皇ではなかったか?
1947年11月14日に昭和天皇とマッカーサー元帥の第5回目の会談が行われている。その内容は明らかになっていないが、豊下楢彦著(岩波現代文庫)『昭和天皇・マッカーサー会見』によると【もっとも、9月19日付の寺崎の日記は1つの手がかりを与えてくれるようである。そこには、「シーボルトに会う 沖縄の話 元帥[マッカーサー]に今日話すべしと云う 余の意見を聞けり 平和条約に入れず 日米間の条約にすべし」と記されている。
この日、マッカーサーの政治顧問であったシーボルトに対し寺崎から、「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」のもとで米軍による沖縄占領の継続を求める、という天皇のメッセージが伝えられたのである。さらに、会見予定が決められる1週間前の10月3日にも両者は沖縄における米国の統治方法をめぐって議論を交わしていることから見て、沖縄問題が議論された可能性が考えられる。】
※シャープの電子辞書パピルス(日本史辞典)で昭和天皇を調べると次のように出てくる。
昭和天皇・・・「・・・・大日本帝国憲法下で統治権を総攬(そうらん)した。‘24久邇宮良子(くにのみやながこ)と結婚。‘26年(昭和1)12月25日践祚(せんそ)して昭和と改元、‘28、11月京都で即位。このころから日本は治安維持法体制による社会運動を弾圧、山東出兵・張作霖(ちょうさくりん)爆殺に始まる中国への武力干渉など、ファシズムと戦争への道を歩んだ。昭和天皇は‘29,6月首相田中義一への不信任を表明して内閣退陣に追い込むなど政局を左右し、満州事変以後は軍の統帥に積極的に関与、‘41の対米英開戦も成算を認めて裁可した。戦局の悪化後も軍部の主張に期待して早期和平論を退け、結果的に惨害を大きくしたすえ、天皇制護持を至上課題として降伏決定過程をリード。しかし対日占領を円滑に進めたいとするアメリカの方針もあって戦争責任は追及されず、新憲法上の象徴天皇の地位を得たが、戦後も政治関与を続けた。・・・・」
●南京大虐殺
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷したした兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。
※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
731はもっと無視されているのかも知れない。
昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!
栗原利一資料集