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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-02-22 06:12:26 | Weblog

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」
    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
       Ⅶ
 非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。この感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章及び旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。
 ノモンハンでの経験に支えられて、石井は続く数年のうちに実地試験の展開範囲を、満州全域及び中国における日本軍占領地域と非占領地域との双方を含む広範な地域に拡大した。1939年後半から1942年にかけて、731部隊の工作員たちは、敵軍に対しても、また民間の人々に対しても、多くの試験を行った。このような広範にわたる試験を行うのに必要な兵站の物資及び労力の確保は大変なものだったので、石井は、関東軍の幹部たちと中国に侵略している日本軍指揮官たちの双方から〔試験実施の〕許可を受けなければならなかった。論理的に考えれば、東京の陸軍省のトップたちも、当然彼の作戦を評価し続け、是認していたはずである。石井の行った軍事実験は非常に大規模なものであったので、彼が(呪縛を解き放って)現出させた破壊や大虐殺は、中国から無数の抗議を受けた。その抗議があまりにすさまじく広範囲から寄せられたので、それらは嘘つきの国民党のプロパガンダ以外の何ものでもない、という反論の仕方がされるほどであった。
※ノモンハンで実施した細菌戦で、石井は天皇から勲章をもらった。そしてその後、細菌戦の本格的な実施に向けていろいろといろいろな作戦に取り組み、効果を見ていた。この軍事実験によって多くの中国人の犠牲者が出た!!もちろん、当時の日本人には細菌戦については何も知らされなかった!!
●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
高史氏(女、85歳)の証言
 1937年に家は後宰門で、日本軍が南京に侵入して何日もしないで、家に闖入し、夫と弟と私の弟にホアクーニャン(=若い娘)を要求しました。その頃後宰門地区に住んでいた世帯は多くなく、ある者は難民区まで逃げて行っていて、ほとんど人がいないのに、どこからホアクーニャンが来られるんでしょう。日本軍の要求を満足させなかった為に日本軍に発砲され撃ち殺されたのです。
 翌年の1月16日に、日本軍がまた我が家に突っ込んで来て、夫にホアクーニャンを要求し、同じように要求が満足させられず、その場で日本軍に大きな刀で頭を真っ二つに割られ、全く見るに忍びないすさまじさでした。(習宇清と李秀英と呉建野が記録)
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
※シャープの電子辞書パピルスの「日本史辞典」に「毒ガス戦」について次のような記述があった。
毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。
※日本は1925年のジュネーヴ議定書で戦時使用が禁止されてから、毒ガス戦・細菌戦を大々的にやったことになる。
日本政府は考えてください!!日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。
731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
●戦後日本
・国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られることになる。そのためには国として過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。・・・すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。【『731部隊』:常石敬一著 200頁 講談社現代新書】
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(『昭和史』:遠山茂樹ほか著より)
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
●昭和天皇と731
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 (以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

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