秘密保護法撤廃!!撤廃!!撤廃!!
“過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる”
篠塚良雄さん!!
あなたの貴重な勇気のある証言によって、私たちは戦争の恐ろしさを知りました!!
ありがとうございました!!
ご冥福をお祈りいたします!!
細菌戦(731部隊の蛮行)
【完全版三光】より
篠塚(田村)良雄・・・防疫診療助手 兵長
〈略歴〉
1939年5月 元関東軍防疫給水部本部(731部隊に入隊)
1943年3月 退職
1944年3月 元関東軍59師団32連隊に源へ現役兵として入隊
1945年8月 元関東軍125師団軍医部兵長
1946年9月 東北人民解放軍独立3師衛生部に混入
1952年6月 逮捕さる。河北省永年県において
・・・・年齢 35歳
「バレようがバレまいがそんなことに変わりがあるもんか、バレたとなりゃあ、もっと毒力の強い細菌を培養して、どんとバラまくだけの話だ。どうだ玉井、そうだろう!!」
「ああ、それで最近丸太が運ばれてくるんだな」、
さっきからみんなの話に聞き入っていた人事班の島田が、「ところで金井、特別班の色(エロ)パンフレットは刷らないのか」
「一部くれと言うんだろう、この助平野郎、写真班に行っては色写真をくれと言う!」
どいつもこいつも金井から色写真、色パンフレットをもらっているくせに、君子顔して笑い出しました。
部隊長石井四郎は二木班の性病実験のために、また、中国人の堅決(けんけつ)英雄的な細菌戦に対する反抗を恐れ、彼らを骨抜きにして実験を推し進めようともして、色写真、色パンフレットを作らせておりました。
「中国人にはどうにもならないんだ、色気が無いのか、パンフレットやっても色しゃしんやっても見もしないで引き裂いてしまうし、今じゃ色写真も色本も役立たずだ」
「本当に丸太というのは不思議だなあ、色気はないし、鉄砲玉も恐ろしがらないときては」「だから始末が悪いんだ、色気がありゃあ、少しぁ、おとなしくさせることもできるんだがなあ」
みんなそれぞれ残酷な生体実験を行なって、中国人を殺害しているので、同じようなことを言います。
篠塚良雄さん死去 旧日本軍731部隊員で証言者
細菌戦―731部隊の蛮行―
語り部フォーラム
闇に消えた虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)近藤昭二
フクシマの嘘 其の弐(隠ぺい・詭弁・脅迫)
長崎・広島市長、国連総長と会談 核禁止条約の署名渡す
解決へ「第三の声」を=慰安婦問題でシンポ―韓国
オバマ大統領、安倍首相の「サシ会談」提案を何度も拒絶―韓国紙
マンガ「美味しんぼ」への風評被害批判について。- 2014.04.29
デンマーク女王、「南京大虐殺記念館」訪問
「嫌いな男ワースト10」1位・安倍晋三について。- 2014.04.26
原子力機構調査「もんじゅ推進自信ない」について。- 2014.04.21
ふざけるな!《゜Д゜》腹が立ってしかたがありません!!(`・ω・´)
「満州国」・華北・華中の万人坑と中国人強制連行
大 同 炭 鉱 万 人 坑
清明節に南京大虐殺記念館で追悼行事 「国家追悼日」制定後初の民間活動=中国報道
日本人監督撮影のドキュメンタリー映画、南京大虐殺記念館で上映―中国メディア
(転載)
私たち南京への道・史実を守る会は、「南京・史実を守る映画祭」と題し、
2009年に『Nanking』『チルドレン・オブ・ホァンシー』『アイリス・チャン』
『南京・引き裂かれた記憶』の4本の映画上映を行い、2011年には陸川監督『南
京!南京!』の上映を行ってきました。
そして2014年5月17日(土)、私たちは『ジョン・ラーベ』(F・ガレンベルガー監督)の上映を行うことになりました。
本作品は、2009年のドイツ映画賞では主演男優賞・作品賞・美術賞・衣装賞を
受賞し、同年のバイエルン映画賞では最優秀男優賞・最優秀作品賞を受賞してお
り、また、撮影中には『ニューズ・ウィーク』誌に取り上げられるなど、世界的
にも注目を浴びた作品です。
日本でもインターネット上で上映を嘆願する署名活動が行われるなど、大きな
期待を受けていましたが、公開から早や5年の歳月が流れてしまいました。しか
し、私たちもこの5年間を無為に過ごしてきたわけでありません。映画会社との
交渉を幾度となく重ね、念願の上映許可を得ることになりました。
是非とも多くに皆様にご来場いただき、本作品をご鑑賞頂ければと思います。
そして、1937年の12月に南京でおこったことに思いを馳せ、平和の尊さについ
て考える機会を持っていただければと思います。
「南京・史実を守る映画祭」実行委員会
■日時・チケット
2014年5月17日(土)
第1回目 12:00開場 | 12:30上映 | 15:00シンポジウム
前売1500円 / 当日1800円
第2回目 16:30開場 | 17:00上映
前売1200円/当時1500円
※シンポジウムのパネラーは現在調整中です。
※前売り券について
インターネットまたは電話にてご予約いただき、セブン・イレブンでの発券とな
ります。代金はチケット受け取りの際にセブン・イレブンでお支払いただきま
す。ご予約時に発行される払い込み番号をセブンイレブンのレジにて提示するこ
とでチケットが発券されます。
必ずご予約後1週間以内に発券してください。1週間を超えるとキャンセル扱い
となります。
WEB予約 http://johnrabe.jp/
電話予約 0120-240-540 カンフェティチケットセンター
■場所 江戸東京博物館ホール
■交通
・JR総武線 両国駅西口下車 徒歩3分
・都営地下鉄大江戸線 両国駅(江戸東京博物館前) A4出口 徒歩1分
■お問合せ 「南京・史実を守る映画祭」実行委員会
MAIL. info@jijitu.com FAX 020-4624-0773
(以上、転載)
中国は731部隊遺跡の世界遺産への申請を通じて日本の恥をさらす、ロシア専門家が指摘―中国メディア
全人代代表、「教科書の『日本の中国侵略』に関する記述を増やすべき」と提議―中国メディア
旧日本軍731部隊遺跡を戦争遺跡公園に―中国
八王子・武蔵野「731部隊展」終了!!
「731部隊展」を終えて
今回の731部隊展を終えて感じたことは、大日本帝国実現の為に、兵器を作るのに熱中しすぎて、人間の倫理観は麻痺し、残虐な限りを尽くしたことだ。日本医学界は、上からの命令で動いたことや、アメリカが細菌戦のデータを重視し、隊員を買収してデータを集め、戦犯免責を与えたものだから、関わった者たちは戦後全くの反省することなく、自慢げに学会で発表する者すらいた。また、戦中・戦後、生体実験をもとにして書かれた論文に多くの大学が驚くことに博士号を授与した。
そして国体護持(天皇制護持)を条件に、降伏した日本は、アメリカの非人道的な2発の原爆投下を非難することはできず、731の残虐行為を隠蔽し心証をよくするため、日本医学界は全面的に、アメリカの原爆被害調査に協力し、治療はまったくしなかった。ただ、現地の医師たちだけが、患者に向き合い、治療した。
このことが、アメリカの核戦略を容認し、日本の科学界・医学界が、原子力の方向へ進むことになる。
中国、アジアで行われた医学界の残虐行為は、国家犯罪であり、日本医学界だけの問題ではなく、天皇を含め国家の上層部の責任が大きい!!日本医学界が謝罪できない理由は、こんなところにあるのかもしれない。
パネルを振り返りながらそれを見ていくと、
序章は、「薬害エイズと731部隊」
一枚目のパネルは厚生省の中庭に建てられた碑の写真から始まる。
その「誓いの碑」には、こう書いてある。
「命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する
千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した
平成11年8月 厚生省」
1980年代、アメリカでエイズが広がった。もしかしたらこのエイズも731部隊の研究成果を元に作られた可能性はある。人為的なもの?
アメリカは、血友病患者に投与していた非加熱製剤がエイズウイルス汚染されていることがわかり、いち早く加熱製剤に切り替えたが、日本は、非加熱製剤のトップメーカーであったミドリ十字に配慮して、加熱製剤への切り替えがアメリカに比べ2年以上も遅れ、さらに加熱製剤販売後も1年以上非加熱製剤を回収しなかったために、薬害エイズの被害が広がった。
なぜ、ミドリ十字に厚生省は配慮したのか。両者には、天下りを通して、癒着があり、厚生省のエイズ班長であった安部英(あべたけし)にも、影響を与えた。
それでは、テレビで初めて薬害エイズの件で土下座者謝罪したミドリ十字とは、いったいどんな会社なのか?
1950年、石井四郎の懐刀(ふところがたな)といわれた内藤良一(731部隊員、防疫研究室にいて、石井ネットワークにいろいろ指示を出していた)は、朝鮮戦争の犠牲者に対する輸血血液の需要を当て込んで、売血を目的に、日本ブラッドバンクを設立をする。そこには北野政次(731部隊2代隊長)ら多くの731部隊員が集まる。そして日本の輸血が売血から献血に切り替わると、日本ブラッドバンクは、ミドリ十字と社名を変更し、血液製剤メーカーとなっていった。
内藤は、多くの731部隊関係者をスカウトし、日本ブラッドバンク・ミドリ十字の中核を担わせていく。
内藤が731部隊の人脈と技術を引き継いでつくり上げたミドリ十字は、731部隊の気風をそのままに引き継いでいた。そのことが、薬害エイズ事件を引き起こす原因の1つになった。
※731部隊の気風・・・731部隊は本当に人命を軽視していた!!
※ミドリ十字は、医薬品業界の合併を経て現在田辺三菱製薬になっている。
第1章 731部隊の創設
1931年9月18日、中国東北部の柳条湖で関東軍は、鉄道を爆破し、中国軍の仕業にして、東北地方の侵略を開始する。32年関東軍と南満州鉄道会社の支配のもとに清朝のラストエンペラー溥儀を擁立し、満州国を建国し、中国人を表の顔にするが、裏で日本人の役人が操っていた傀儡国家であった。安倍の母方の祖父、岸信介も満州国の役人であり、「満州5カ年計画」などの策定にかかわっていた。東條英機も、関東軍司令官として赴任していた。両者とも極秘裏に進められていた、731の計画も知っていただろう!!
その満州国の背陰河に秘密裡に東郷部隊を設置し、生体実験を繰り返しやっていたが、マルタ(被験者)の脱獄事件が起こり、これをきっかけに、脱獄できないもっと大規模な実験施設を平房に建設する。1938年頃主要な建物が完成する。
この巨大な施設は、議会の承認なしに、年間今のお金にして90億円が費やされた。もちろん天皇も陸軍も承認した施設であった。この施設には、今のIOCの会長の竹田の父親竹田宮恒徳王(竹田宮)は宮田中佐と名乗って、731に関与していた。
三笠宮・天皇もこの施設を視察したと言う証言もある。
安倍が秘密保護法をいち早く成立させた背景にはこういうことが関係があるかもしれない。
高杉晋吾 国策としての731部隊と原発
部隊全景
周囲8km四方を土塁と高圧線に囲まれ、部隊には鉄道の引込み線が敷かれ、物資やマルタ(被験者)を運び入れていた。飛行場もあり、専用の飛行機も数機有し、学校あり、神社、隊員の宿舎、運動場、テニスコートなどもあった。敷地内のロの字形をした研究棟(5階建てぐらい)の中に、7棟、8棟と呼ばれた特設監獄があり、そこにマルタと呼ばれていた被験者たちが収容され、いろいろな生体実験が行われていた。
731部隊の始まり
石井四郎は、京都帝大医学部を卒業後、軍医になり、1928年から2年余りヨーロッパやアメリカを視察旅行し、細菌兵器が資源の乏しい日本にとって、有効であることを確信し、永田軍務局長をはじめ、軍上層、天皇を動かし、細菌兵器の開発を傀儡(かいらい)国家満州で、取り掛かる。
731部隊組織表
731部隊には多いときで3000人の職員がいた。第1部から第4部まであった。
第1部では基礎研究でチフスやコレラ、ペストなどの細菌の研究をしていた。
第1部第3課のレントゲン班に宮川正の名前が見える。
1954年のアメリカの水爆実験のとき、被害を受けた船を第五福竜丸だけにした男だ。
そのとき、1000余り被曝したのだが、アメリカの意向を受けて過小評価した。
宮川正の軌跡
1944年3月4日、宮川は、関東軍防疫給水本部に配属され、731部隊のレントゲン担当となった。第1部細菌研究部第3課の吉村寿人の下には、レントゲン担当の二つの班ー宮川が班長を務める宮川班と在田勉(任期・1939年4月5日~1944年8月25日)が班長を務める在田班があった。
西野瑠美子が取材したレントゲン班の元隊員の証言によれば、男性用の収容棟と女性・子どもの収容棟にそれぞれ1ヶ所ずつレントゲン室があったとされる。細菌に感染させるマルタ(被験者)の健康診断のためのエックス線撮影が主な仕事で、部隊敷地内の隊員と家族のための診療所でもレントゲン診断を行った(西野瑠美子「731部隊―歴史は継承されないのかー元隊員を訪ねて」『世界』1994年4月号掲載)。健康なマルタの病変の経過を見ることが部隊の関心対象だったため、健康診断を受けさせ、健康と判定されたマルタだけが人体実験の対象になった。
レントゲン班でも、人体実験が行われていた。西野が取材したレントゲン班の元隊員の証言によれば、「レントゲンを肝臓に当てる実験に立ちあった」といい、レントゲン班では、細菌に感染したマルタのレントゲン撮影を一定の期間をおいて実施したとされる。
これと似通った匿名の731部隊班長の証言が吉永春子の書き下ろし『731 追撃・そのとき幹部達は」(2001年、筑摩書房)に収録されている。肝臓にレントゲンを照射して致死量を確認する実験を行ったという証言は、TBSテレビで1976年8月15日に放送されたドキュメンタリーのために吉永らが行ったインタビューの中で行われたものだった。内容から、匿名の証言者は宮川ではなく、もうひとつのレントゲン班の班長と推察される。
宮川は、戦後、亀井文夫監督の記録映画「世界は恐怖するー死の灰の正体」(1957年)の撮影に協力している。この映画には、宮川も理事を務めていた日本放射性同位元素協会(後の「日本アイソトープ協会」)や山崎文夫、村地孝一らの科学者も協力していた。映画には、放射線を長時間、実験用のマウスに照射して死に至るまで観察する実験が記録されている。ネズミへの放射線照射の映像は、映画の中では、あくまで放射線の恐ろしさを実感させる素材として使われているが、一面で731部隊が死に至る人体実験の様子をフィルムに記録したという証言を彷彿させるものだった。1960年8月には、茨城県東海村の日本原子力研究所で宮川らがネズミにガンマ線を照射し、被曝時の生体変化を観察する実験を実施すると報道されたこともあった。
宮川が731部隊でレントゲン班の責任者だったことは消せない事実だが、宮川が直接行ったとする人体実験の具体的な証言や記録は今のところ確認されていない。
・・・・これらの事例とは対照的に、宮川が公職追放を受けなかったのはいったいなぜなのだろうか。
・・・宮川正は、1949年「科学朝日」8月号の皆川理らとの座談会「放射能とは何か」に国立東京第一病院の医師として登場し、放射線の医学的な利用等について説明している。国立病院の勤務医になったことは、731部隊時代の行動について「お咎めなし」のお墨付きが得られていた証だろう。
・・・宮川は1953年に横浜医科大学の教授となり、やがて放射線治療の分野で名が知られるようになっていった。
・・・宮川と731部隊の関係者の繋がりは戦後もある時期まで、維持されたものと考えられる。
・・・第5福竜丸事件が起こると、宮川は4月から5月にかけて横浜・川崎両港に入港した民間船の放射能汚染調査と、5月からの横浜市内の上水道の放射性物質の測定を開始した。此れが評価されたためか、宮川は、10月に厚生省に設置された「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」の環境衛生部の委員に任命されることになった。
・・・1956年4月、宮川が東大医学部放射線医学講座の主任教授となった。宮川は、5月16日、原子力委員会の「国立放射線医学総合研究所設立準備小委員会」の5人の専門委員のひとりに任命された。
・・・宮川は、1956年に日本学術会議原子力問題委員会の放射線影響調査特別委員会委員に選ばれたのに続いて、翌年5月25日には原子力委員会の放射能調査専門部会(部会長・都築正男)委員にも任命された。宮川は、1958年9月1日、ジュネーブで開かれた第2回原子力平和利用国際会議にもアイソトープ・生物学関連のふたつのグループの責任者のひとりとして出席している。
731部隊関係者の中で、原子力行政にこれほどまでに、食い込んだ者は、宮川以外には見当たらない。そうした意味で宮川は部隊の元関係者の中では特異な存在だった。
『ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影』
堀田伸永著より
ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影【無料版】堀田伸永
※また福島事故後に有名になった医学者の一人に同じく東大出身で、東大病院放射線科の中川恵一準教授がいます。彼は、「福島で健康被害は出ていない、今後も出ない」と主張する学者の代表格です。私は中川医師の『被ばくと発がんの真実』という著書に、科学的な疑問点が100か所以上見受けられたので、質問を送りましたが、どれひとつとしていまだに回答をいただいておりません。
実は免責された731部隊は、放射線医療業界にも歴史的につながっています。例えば731部隊、レントゲン班でも致死量を当てる人体実験が行われ、リーダーのひとりであった宮川正は、戦後放射線治療の専門家になりました。第五福竜丸事件の後、福竜丸以外の船員が放射線障害で苦しんでいても、放射線障害ではないだろうという理論を展開し、800あったと言われる被曝船は、一隻とされたのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・
(XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より)
東大・中川氏 正しい放射線・放射能・被ばくに関する対応とは
崎山比早子先生 『御用学者・東大中川恵一を痛烈批判!』
陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク
天皇の承認の元に、細菌戦の攻撃面の命令は参謀本部作戦第2課が行ない、研究は陸軍省医務局が管轄していた。細菌戦部隊はアジア各地につくられ、防疫給水という名称によって、隠された。ハルピンをはじめ、北京、南京、広東、シンガポールにつくられた。
防疫給水部全体のネットワークは石井機関と呼ばれ、陸軍軍医学校防疫研究室の内藤良一が采配を振るっていた。
大学教授は、防疫研究室の嘱託となって、弟子たちを731部隊に送り、731部隊に指示を出していた。731部隊に行った弟子たちは生体実験などのデータを防疫研究室に送って、情報の共有をはかった。
日本医学会総会軍陣医学部会
1942年の第11回の日本医学会総会は東大で開かれた、写真は東大の安田講堂の前で第9部微生物学分科会の記念撮影。
前列向かって左側に、731部隊初代隊長の石井四郎、右側には2代目隊長の北野政次、3列目の左には1644部隊長の増田知貞の顔が見える。いかに、この部会で細菌戦部隊が幅を利かせていたかがわかる。
部会では、多くの細菌戦部隊員が参加し、人体実験で得たデータを元に書いた論文を発表している。
石井軍医少将は「所謂孫呉熱ノ研究」を研究グループを代表して軍陣医学部会の最後に講演した。
第2章「マルタ」
ロ号棟(四方楼)に囲まれた特設監獄(7棟、8棟)に被験者は「マルタ」(丸太)と呼ばれ収容され、人体実験が行われていた。
憲兵隊と「特移扱」(特別移送扱)
憲兵隊や特務機関に逮捕された者は秘密裡に731部隊に送られた。人体実験の被験者は「マルタ」と呼ばれた。「丸太」という意味である。
「特移扱」(とくいあつかい)は、憲兵隊が実験材料「マルタ」を731部隊に供給するための制度である。
憲兵は、特移扱でマルタを731にたくさん送れば、出世した。731部隊にとっては、大量の実験材料を速やかに入手できるものであった。
抗日活動家やソ連のスパイは裁判にかけられず、731部隊に送られた。
もちろん、無実の者でも、憲兵隊での脅迫や拷問下での取り調べの実情が、外部に漏れるのを防ぐために、731部隊に送られた人もいた。
「特移扱」文書
吉林省档案館発行の『「731部隊」罪業鉄証』には、戦争当時の憲兵隊の文書の写真が載っている。
そこには、工作名 イワン 「特移送スルヲ至当トミ認ム」と書いてある。
中国人 張生文は、抗日活動をしていたのだろうか?工作名イワンと名乗り、活動していた。そして、憲兵隊に捕まり特移送された。すなわち、731部隊に送られた。
731部隊に送られた者の数ははっきりしていないが、731部隊の総務部長や細菌製造部長であった川島清ハバロフスク(ソ連)裁判の供述調書に「強力な伝染病を囚人に罹患させる実験によって毎年600人以上が死んでいた」という証言を残している。
1939年から1945年の敗戦までには、少なくとも3000人が被験者とされ、殺された。
朱玉芬(しゅぎょくふん)の父と叔父
私は朱玉芬です。父は雲彤(うんとう)で叔父は朱雲岫(うんしゅう)です。2人とも抗日連軍(東北抗日連軍)にいました。憲兵隊に捕まって、731部隊に送られました。
2人とも731部隊で実験されて亡くなりました。
第3章
731部隊の人体実験
731部隊をはじめ、石井機関、陸軍病院その他の施設では、密かに人体実験が行われていた。
中国に作った日本の陸軍病院では、手術演習の名のもとに、生体解剖が行なわれた。
731部隊では、ペスト菌の毒力を増すために、ペスト菌の注射そして、その後に生体解剖、その他の菌でも、行われた。
また、細菌戦をやったところに赴いて、防疫活動の名のもとに、生体解剖を行なった。
軍医として中国・山西省へ
ペスト(黒死病)
平澤正欣軍医少佐の博士論文『「イヌノミ」の「ペスト」媒介能力ニ就テノ実験的研究』には、イヌノミがペストを動物に感染媒介する能力についての実験が報告されている。それによると、ペストに感染したイヌノミを3人の被験者に一匹附着すると、ペストになる人は0人で0%、5匹附着すると1人で33%、10匹附着させると2人で66%である。
ノミには14種類あり、その中でどのノミが細菌戦に有効であるかを研究していた。
その結論として、ケオピスネズミノミが一番感染力、抵抗力があることがわかり、このノミを細菌戦に使用することになる。
炭疽(Anthrax)
731部隊では、いろいろな細菌の培養をし、兵器化していた。
戦後、アメリカは、731部隊員から入手したデータを使って、731部隊員をアメリカに呼んで、3つの英文レポートを書かせている。Aレポート(炭疸菌)、Gレポート(鼻疽菌)、Qレポート(ペスト菌)である。
戦時中、731部隊ではいろいろな生体実験が行なわれたが、その中に炭疸菌の実験があった。
炭疸菌を皮下注射した場合、症例数1で、症例番号54番は7日で死んだ。
経口感染させたものは、症例数6で、318番、26番は3日で死に、320番、328番、325番、17番は2日で死んだ。
経口撒布感染させた者は12人で、411番は4日で死に、・・・・・
経鼻感染させた者は、4人で、380番は3日で死んだ。・・・・・
流行性出血熱
満州で原因不明の風土病がはやった。
そのとき、731部隊は調査隊を送って、人体実験をして原因を調べた。
1938年にソ連との国境地帯に不明疾患が続出した。死亡者は年々増加し、致死率は15%であった。この出血熱は、発病地の名前を取って、孫呉熱とか虎林熱と呼ばれ、731部隊は調査班を編成して派遣した。731部隊内には特別研究実験班を設置し、「特殊研究」を行わせた。
病原体は北満トゲダニから分離され、濾過性(ウィルス)と特定された。1942年12月に流行性出血熱と命名され、現在は腎症候性出血熱といわれる。
「特殊研究」とは人体実験のことである。
毒ガス実験
731部隊と516部隊(関東軍化学部)は、合同で毒ガスの人体実験を行っていた。
516部隊には、731部隊の分遣隊が置かれていた。石井部隊は背陰河時代に青酸の人体実験を行っていた。平房の本部は、毒ガス実験室を作り、ガラス張りの部屋に毒ガスを発生させて、中の「マルタ」を観察した。
瀬戸内海に浮かぶ大久野島では大量の毒ガス兵器が作られ、中国で使用された。当時、生産に携わった人の中には、そのときの後遺症で今なお治療を受けている人もいる。
また、戦時中、中国では、日本軍が使用した毒ガス兵器によって多くの人が死んだり、731部隊や516部隊の実験材料にされて、無残に殺された人も多い。
日本軍が敗戦で引き揚げるときに、多くの毒ガス弾を中国に遺棄したことによって、今の中国では、その毒ガス弾に触れたり、爆発によって被害が出て、日本で裁判も現在進行中である。
化学兵器廃絶を目指し、被害者を支援する ― 遺棄毒ガス問題ポータルサイト ―
遺棄毒ガス被害者家族の現状(ABC企画ニュース89号より)
相模海軍工廠(海軍毒ガス工場)
【真相】
石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言
郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)
Ⅰ ファインダーがとらえた地獄
―総務部調査課写真班 T・K
「新京陸軍病院衛生兵から731部隊員へ」より
毒ガス実験の撮影は命がけだった
・・・「丸太」は、1回に1人ずつ、特別班員によって中に連れて来られる。足かせをはめられ、後手に縛られて、ガラスのボックスの中に立ったまま入れられる。
じっと息を殺したような重苦しい時間が流れる。やがて、ボックスの中の「丸太」がまるで居眠りでもするように、次第に顔をうつむけていく。5分ぐらいたったろうか。「丸太」は、ひとつ大きな「あくび」のような息をして、ガクッとこうべを垂れる。絶命の瞬間だ。
1回の実験で、4、5人の「丸太」を次々とこうして毒ガスで殺す。
カメラを構えている私の近くの壁に、小鳥(カナリアだったか、十姉妹だったか)を入れた鳥かごがぶら下げてあった。よく見るとほかにも、2、3の鳥かごが同じようにかけてある。
「これ何のためですか」と聞くと、516部隊の将校が、「かごの中の鳥の様子に注意せよ」という。そして、小鳥の様子に異常を認めたら逃げろ、と指示された。
つまり、この実験で使用されたのは、無色無臭の窒息性毒ガスで、しかも実験設備では、毒ガスがもれる恐れがあるということなのだ。
O大尉に731部隊行きを誘われた時、40歳ぐらいまで気楽な軍属として働こうと思っていた私は、731部隊の想像もしていなかった危険な実態を、身にしみて感じ、はげしく悔恨のほぞをかんだが、もう遅かった。
毒ガス野外実験
陸軍の毒ガス研究開発は、関東軍化学部(516部隊)、第6陸軍技術研究所、陸軍習志野学校、浜松陸軍飛行学校などが担った。攻撃方法は迫撃砲などの砲弾によるもの、地上で撒布・放出するもの、飛行機による雨下(空中撒布)や毒ガス弾の投下などであった。731部隊では、毒ガスの人体に及ぼす影響を、人体実験を行い研究した。
1940年9月7日~10日にかけて、砲門4門(600発)と十榴8門(600発)のきい弾〔イペリット・糜爛性(びらんせい)ガス〕の射撃を実施。第1,2,3地域に分け、野砲偽掩体、壕、観測所、掩蓋MG(機関銃)座、特殊構築物などに被験者を配置した。被験者を毒ガスマスクを装着するもの、しないものに分けた。
赤ん坊への凍傷実験
シベリア出兵(1918年~22年)時には、全軍の3割が凍傷に罹った。ソ連軍との戦争を想定していた関東軍にとって、凍傷の治療は克服しなければならない課題であった。
吉村寿人(ひさと)班では次の手順で実験を行った。
1、零下20℃以下の屋外に被験者をしばりつけ、腕などに塩水をかけて人工的に凍傷を作る。
2、棒でたたいて、凍り具合を確認する。
3、凍傷になった腕を温度差のある湯につけて、回復具合を見る。時により患部が壊死・脱落して骨があらわになる。
吉村らはこれらの実験から凍傷のメカニズムを明らかにし、「治すには体温程度の温水につければよい」という画期的な治療法を発見した。石井はこの発見をことあるごとに誇っていたという。
生後3日、1ヶ月、6ヶ月の赤ん坊への実験。
なんと赤ん坊でも実験を行っていた。
・・・・「中指に針を埋め込み、摂氏0℃の氷水に30分入れ、皮膚内部の温度変化を調べた。生後3日から1ヶ月後までこの実験が毎日行われた。吉村はこの被験者は、共同研究者の二男だと弁解している。」
※もちろん、中国人の赤ちゃんなども、実験に使われていたのではないか?
吉村が自著『喜寿回顧』の中でも、モンゴル人少年の凍傷実験の様子を写した写真を載せている。反省など全く見られない。
戦後、吉村は、京都府立医大学長までなるが、日本生理学会において731部隊で行った凍傷実験を「私の研究遍歴」と題して発表し、学会からは批判も出ていた。
凍傷実験に被験者にされた人は、手が無くなったりしたが、死ぬまで何らかの実験に使われた。
医学者たちの独走
731部隊での実験は、細菌戦の準備とは無関係に医学者の好奇心だけで行われたものがほとんどである。
・乾燥器にかけて熱風を送る。
・何も食わせないで水だけ飲ませたらどのくらい生きるか。
・パンだけ与えて、水を一切やらなかったらどうなるか。
・ガラスチェンバーでのガス実験。
・梅毒実験。
・逆さ吊りにした場合、何時間何分で死に至り、身体の各部はどの様に変化するか。
・X線の長時間照射。
・チスフ菌入り甘味まんじゅう実験。
・手榴弾を、露出したマルタのお尻付近で爆発させ、破片の突き刺さり具合の調査。
・真空実験、減圧実験。
・ビタミンCの大量注射。
・A型からO型(血液)への輸血。
・右腕と左腕を取り替える。
・ロシア人母子への青酸ガス実験。
・・・・・・・・・
731部隊で人体実験が行われている時期に平行して、大学医学部や石井機関でも「治療」と称して人体実験が行われ、多くの被害者を出している。日本に於ける、731部隊と民間の人体実験への姿勢は無関係ではなく、同じ医学パラダイム内での行為である。
“過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる”
篠塚良雄さん!!
あなたの貴重な勇気のある証言によって、私たちは戦争の恐ろしさを知りました!!
ありがとうございました!!
ご冥福をお祈りいたします!!
細菌戦(731部隊の蛮行)
【完全版三光】より
篠塚(田村)良雄・・・防疫診療助手 兵長
〈略歴〉
1939年5月 元関東軍防疫給水部本部(731部隊に入隊)
1943年3月 退職
1944年3月 元関東軍59師団32連隊に源へ現役兵として入隊
1945年8月 元関東軍125師団軍医部兵長
1946年9月 東北人民解放軍独立3師衛生部に混入
1952年6月 逮捕さる。河北省永年県において
・・・・年齢 35歳
「バレようがバレまいがそんなことに変わりがあるもんか、バレたとなりゃあ、もっと毒力の強い細菌を培養して、どんとバラまくだけの話だ。どうだ玉井、そうだろう!!」
「ああ、それで最近丸太が運ばれてくるんだな」、
さっきからみんなの話に聞き入っていた人事班の島田が、「ところで金井、特別班の色(エロ)パンフレットは刷らないのか」
「一部くれと言うんだろう、この助平野郎、写真班に行っては色写真をくれと言う!」
どいつもこいつも金井から色写真、色パンフレットをもらっているくせに、君子顔して笑い出しました。
部隊長石井四郎は二木班の性病実験のために、また、中国人の堅決(けんけつ)英雄的な細菌戦に対する反抗を恐れ、彼らを骨抜きにして実験を推し進めようともして、色写真、色パンフレットを作らせておりました。
「中国人にはどうにもならないんだ、色気が無いのか、パンフレットやっても色しゃしんやっても見もしないで引き裂いてしまうし、今じゃ色写真も色本も役立たずだ」
「本当に丸太というのは不思議だなあ、色気はないし、鉄砲玉も恐ろしがらないときては」「だから始末が悪いんだ、色気がありゃあ、少しぁ、おとなしくさせることもできるんだがなあ」
みんなそれぞれ残酷な生体実験を行なって、中国人を殺害しているので、同じようなことを言います。
篠塚良雄さん死去 旧日本軍731部隊員で証言者
細菌戦―731部隊の蛮行―
語り部フォーラム
闇に消えた虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)近藤昭二
フクシマの嘘 其の弐(隠ぺい・詭弁・脅迫)
長崎・広島市長、国連総長と会談 核禁止条約の署名渡す
解決へ「第三の声」を=慰安婦問題でシンポ―韓国
オバマ大統領、安倍首相の「サシ会談」提案を何度も拒絶―韓国紙
マンガ「美味しんぼ」への風評被害批判について。- 2014.04.29
デンマーク女王、「南京大虐殺記念館」訪問
「嫌いな男ワースト10」1位・安倍晋三について。- 2014.04.26
原子力機構調査「もんじゅ推進自信ない」について。- 2014.04.21
ふざけるな!《゜Д゜》腹が立ってしかたがありません!!(`・ω・´)
「満州国」・華北・華中の万人坑と中国人強制連行
大 同 炭 鉱 万 人 坑
清明節に南京大虐殺記念館で追悼行事 「国家追悼日」制定後初の民間活動=中国報道
日本人監督撮影のドキュメンタリー映画、南京大虐殺記念館で上映―中国メディア
(転載)
私たち南京への道・史実を守る会は、「南京・史実を守る映画祭」と題し、
2009年に『Nanking』『チルドレン・オブ・ホァンシー』『アイリス・チャン』
『南京・引き裂かれた記憶』の4本の映画上映を行い、2011年には陸川監督『南
京!南京!』の上映を行ってきました。
そして2014年5月17日(土)、私たちは『ジョン・ラーベ』(F・ガレンベルガー監督)の上映を行うことになりました。
本作品は、2009年のドイツ映画賞では主演男優賞・作品賞・美術賞・衣装賞を
受賞し、同年のバイエルン映画賞では最優秀男優賞・最優秀作品賞を受賞してお
り、また、撮影中には『ニューズ・ウィーク』誌に取り上げられるなど、世界的
にも注目を浴びた作品です。
日本でもインターネット上で上映を嘆願する署名活動が行われるなど、大きな
期待を受けていましたが、公開から早や5年の歳月が流れてしまいました。しか
し、私たちもこの5年間を無為に過ごしてきたわけでありません。映画会社との
交渉を幾度となく重ね、念願の上映許可を得ることになりました。
是非とも多くに皆様にご来場いただき、本作品をご鑑賞頂ければと思います。
そして、1937年の12月に南京でおこったことに思いを馳せ、平和の尊さについ
て考える機会を持っていただければと思います。
「南京・史実を守る映画祭」実行委員会
■日時・チケット
2014年5月17日(土)
第1回目 12:00開場 | 12:30上映 | 15:00シンポジウム
前売1500円 / 当日1800円
第2回目 16:30開場 | 17:00上映
前売1200円/当時1500円
※シンポジウムのパネラーは現在調整中です。
※前売り券について
インターネットまたは電話にてご予約いただき、セブン・イレブンでの発券とな
ります。代金はチケット受け取りの際にセブン・イレブンでお支払いただきま
す。ご予約時に発行される払い込み番号をセブンイレブンのレジにて提示するこ
とでチケットが発券されます。
必ずご予約後1週間以内に発券してください。1週間を超えるとキャンセル扱い
となります。
WEB予約 http://johnrabe.jp/
電話予約 0120-240-540 カンフェティチケットセンター
■場所 江戸東京博物館ホール
■交通
・JR総武線 両国駅西口下車 徒歩3分
・都営地下鉄大江戸線 両国駅(江戸東京博物館前) A4出口 徒歩1分
■お問合せ 「南京・史実を守る映画祭」実行委員会
MAIL. info@jijitu.com FAX 020-4624-0773
(以上、転載)
中国は731部隊遺跡の世界遺産への申請を通じて日本の恥をさらす、ロシア専門家が指摘―中国メディア
全人代代表、「教科書の『日本の中国侵略』に関する記述を増やすべき」と提議―中国メディア
旧日本軍731部隊遺跡を戦争遺跡公園に―中国
八王子・武蔵野「731部隊展」終了!!
「731部隊展」を終えて
今回の731部隊展を終えて感じたことは、大日本帝国実現の為に、兵器を作るのに熱中しすぎて、人間の倫理観は麻痺し、残虐な限りを尽くしたことだ。日本医学界は、上からの命令で動いたことや、アメリカが細菌戦のデータを重視し、隊員を買収してデータを集め、戦犯免責を与えたものだから、関わった者たちは戦後全くの反省することなく、自慢げに学会で発表する者すらいた。また、戦中・戦後、生体実験をもとにして書かれた論文に多くの大学が驚くことに博士号を授与した。
そして国体護持(天皇制護持)を条件に、降伏した日本は、アメリカの非人道的な2発の原爆投下を非難することはできず、731の残虐行為を隠蔽し心証をよくするため、日本医学界は全面的に、アメリカの原爆被害調査に協力し、治療はまったくしなかった。ただ、現地の医師たちだけが、患者に向き合い、治療した。
このことが、アメリカの核戦略を容認し、日本の科学界・医学界が、原子力の方向へ進むことになる。
中国、アジアで行われた医学界の残虐行為は、国家犯罪であり、日本医学界だけの問題ではなく、天皇を含め国家の上層部の責任が大きい!!日本医学界が謝罪できない理由は、こんなところにあるのかもしれない。
パネルを振り返りながらそれを見ていくと、
序章は、「薬害エイズと731部隊」
一枚目のパネルは厚生省の中庭に建てられた碑の写真から始まる。
その「誓いの碑」には、こう書いてある。
「命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する
千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した
平成11年8月 厚生省」
1980年代、アメリカでエイズが広がった。もしかしたらこのエイズも731部隊の研究成果を元に作られた可能性はある。人為的なもの?
アメリカは、血友病患者に投与していた非加熱製剤がエイズウイルス汚染されていることがわかり、いち早く加熱製剤に切り替えたが、日本は、非加熱製剤のトップメーカーであったミドリ十字に配慮して、加熱製剤への切り替えがアメリカに比べ2年以上も遅れ、さらに加熱製剤販売後も1年以上非加熱製剤を回収しなかったために、薬害エイズの被害が広がった。
なぜ、ミドリ十字に厚生省は配慮したのか。両者には、天下りを通して、癒着があり、厚生省のエイズ班長であった安部英(あべたけし)にも、影響を与えた。
それでは、テレビで初めて薬害エイズの件で土下座者謝罪したミドリ十字とは、いったいどんな会社なのか?
1950年、石井四郎の懐刀(ふところがたな)といわれた内藤良一(731部隊員、防疫研究室にいて、石井ネットワークにいろいろ指示を出していた)は、朝鮮戦争の犠牲者に対する輸血血液の需要を当て込んで、売血を目的に、日本ブラッドバンクを設立をする。そこには北野政次(731部隊2代隊長)ら多くの731部隊員が集まる。そして日本の輸血が売血から献血に切り替わると、日本ブラッドバンクは、ミドリ十字と社名を変更し、血液製剤メーカーとなっていった。
内藤は、多くの731部隊関係者をスカウトし、日本ブラッドバンク・ミドリ十字の中核を担わせていく。
内藤が731部隊の人脈と技術を引き継いでつくり上げたミドリ十字は、731部隊の気風をそのままに引き継いでいた。そのことが、薬害エイズ事件を引き起こす原因の1つになった。
※731部隊の気風・・・731部隊は本当に人命を軽視していた!!
※ミドリ十字は、医薬品業界の合併を経て現在田辺三菱製薬になっている。
第1章 731部隊の創設
1931年9月18日、中国東北部の柳条湖で関東軍は、鉄道を爆破し、中国軍の仕業にして、東北地方の侵略を開始する。32年関東軍と南満州鉄道会社の支配のもとに清朝のラストエンペラー溥儀を擁立し、満州国を建国し、中国人を表の顔にするが、裏で日本人の役人が操っていた傀儡国家であった。安倍の母方の祖父、岸信介も満州国の役人であり、「満州5カ年計画」などの策定にかかわっていた。東條英機も、関東軍司令官として赴任していた。両者とも極秘裏に進められていた、731の計画も知っていただろう!!
その満州国の背陰河に秘密裡に東郷部隊を設置し、生体実験を繰り返しやっていたが、マルタ(被験者)の脱獄事件が起こり、これをきっかけに、脱獄できないもっと大規模な実験施設を平房に建設する。1938年頃主要な建物が完成する。
この巨大な施設は、議会の承認なしに、年間今のお金にして90億円が費やされた。もちろん天皇も陸軍も承認した施設であった。この施設には、今のIOCの会長の竹田の父親竹田宮恒徳王(竹田宮)は宮田中佐と名乗って、731に関与していた。
三笠宮・天皇もこの施設を視察したと言う証言もある。
安倍が秘密保護法をいち早く成立させた背景にはこういうことが関係があるかもしれない。
高杉晋吾 国策としての731部隊と原発
部隊全景
周囲8km四方を土塁と高圧線に囲まれ、部隊には鉄道の引込み線が敷かれ、物資やマルタ(被験者)を運び入れていた。飛行場もあり、専用の飛行機も数機有し、学校あり、神社、隊員の宿舎、運動場、テニスコートなどもあった。敷地内のロの字形をした研究棟(5階建てぐらい)の中に、7棟、8棟と呼ばれた特設監獄があり、そこにマルタと呼ばれていた被験者たちが収容され、いろいろな生体実験が行われていた。
731部隊の始まり
石井四郎は、京都帝大医学部を卒業後、軍医になり、1928年から2年余りヨーロッパやアメリカを視察旅行し、細菌兵器が資源の乏しい日本にとって、有効であることを確信し、永田軍務局長をはじめ、軍上層、天皇を動かし、細菌兵器の開発を傀儡(かいらい)国家満州で、取り掛かる。
731部隊組織表
731部隊には多いときで3000人の職員がいた。第1部から第4部まであった。
第1部では基礎研究でチフスやコレラ、ペストなどの細菌の研究をしていた。
第1部第3課のレントゲン班に宮川正の名前が見える。
1954年のアメリカの水爆実験のとき、被害を受けた船を第五福竜丸だけにした男だ。
そのとき、1000余り被曝したのだが、アメリカの意向を受けて過小評価した。
宮川正の軌跡
1944年3月4日、宮川は、関東軍防疫給水本部に配属され、731部隊のレントゲン担当となった。第1部細菌研究部第3課の吉村寿人の下には、レントゲン担当の二つの班ー宮川が班長を務める宮川班と在田勉(任期・1939年4月5日~1944年8月25日)が班長を務める在田班があった。
西野瑠美子が取材したレントゲン班の元隊員の証言によれば、男性用の収容棟と女性・子どもの収容棟にそれぞれ1ヶ所ずつレントゲン室があったとされる。細菌に感染させるマルタ(被験者)の健康診断のためのエックス線撮影が主な仕事で、部隊敷地内の隊員と家族のための診療所でもレントゲン診断を行った(西野瑠美子「731部隊―歴史は継承されないのかー元隊員を訪ねて」『世界』1994年4月号掲載)。健康なマルタの病変の経過を見ることが部隊の関心対象だったため、健康診断を受けさせ、健康と判定されたマルタだけが人体実験の対象になった。
レントゲン班でも、人体実験が行われていた。西野が取材したレントゲン班の元隊員の証言によれば、「レントゲンを肝臓に当てる実験に立ちあった」といい、レントゲン班では、細菌に感染したマルタのレントゲン撮影を一定の期間をおいて実施したとされる。
これと似通った匿名の731部隊班長の証言が吉永春子の書き下ろし『731 追撃・そのとき幹部達は」(2001年、筑摩書房)に収録されている。肝臓にレントゲンを照射して致死量を確認する実験を行ったという証言は、TBSテレビで1976年8月15日に放送されたドキュメンタリーのために吉永らが行ったインタビューの中で行われたものだった。内容から、匿名の証言者は宮川ではなく、もうひとつのレントゲン班の班長と推察される。
宮川は、戦後、亀井文夫監督の記録映画「世界は恐怖するー死の灰の正体」(1957年)の撮影に協力している。この映画には、宮川も理事を務めていた日本放射性同位元素協会(後の「日本アイソトープ協会」)や山崎文夫、村地孝一らの科学者も協力していた。映画には、放射線を長時間、実験用のマウスに照射して死に至るまで観察する実験が記録されている。ネズミへの放射線照射の映像は、映画の中では、あくまで放射線の恐ろしさを実感させる素材として使われているが、一面で731部隊が死に至る人体実験の様子をフィルムに記録したという証言を彷彿させるものだった。1960年8月には、茨城県東海村の日本原子力研究所で宮川らがネズミにガンマ線を照射し、被曝時の生体変化を観察する実験を実施すると報道されたこともあった。
宮川が731部隊でレントゲン班の責任者だったことは消せない事実だが、宮川が直接行ったとする人体実験の具体的な証言や記録は今のところ確認されていない。
・・・・これらの事例とは対照的に、宮川が公職追放を受けなかったのはいったいなぜなのだろうか。
・・・宮川正は、1949年「科学朝日」8月号の皆川理らとの座談会「放射能とは何か」に国立東京第一病院の医師として登場し、放射線の医学的な利用等について説明している。国立病院の勤務医になったことは、731部隊時代の行動について「お咎めなし」のお墨付きが得られていた証だろう。
・・・宮川は1953年に横浜医科大学の教授となり、やがて放射線治療の分野で名が知られるようになっていった。
・・・宮川と731部隊の関係者の繋がりは戦後もある時期まで、維持されたものと考えられる。
・・・第5福竜丸事件が起こると、宮川は4月から5月にかけて横浜・川崎両港に入港した民間船の放射能汚染調査と、5月からの横浜市内の上水道の放射性物質の測定を開始した。此れが評価されたためか、宮川は、10月に厚生省に設置された「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」の環境衛生部の委員に任命されることになった。
・・・1956年4月、宮川が東大医学部放射線医学講座の主任教授となった。宮川は、5月16日、原子力委員会の「国立放射線医学総合研究所設立準備小委員会」の5人の専門委員のひとりに任命された。
・・・宮川は、1956年に日本学術会議原子力問題委員会の放射線影響調査特別委員会委員に選ばれたのに続いて、翌年5月25日には原子力委員会の放射能調査専門部会(部会長・都築正男)委員にも任命された。宮川は、1958年9月1日、ジュネーブで開かれた第2回原子力平和利用国際会議にもアイソトープ・生物学関連のふたつのグループの責任者のひとりとして出席している。
731部隊関係者の中で、原子力行政にこれほどまでに、食い込んだ者は、宮川以外には見当たらない。そうした意味で宮川は部隊の元関係者の中では特異な存在だった。
『ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影』
堀田伸永著より
ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影【無料版】堀田伸永
※また福島事故後に有名になった医学者の一人に同じく東大出身で、東大病院放射線科の中川恵一準教授がいます。彼は、「福島で健康被害は出ていない、今後も出ない」と主張する学者の代表格です。私は中川医師の『被ばくと発がんの真実』という著書に、科学的な疑問点が100か所以上見受けられたので、質問を送りましたが、どれひとつとしていまだに回答をいただいておりません。
実は免責された731部隊は、放射線医療業界にも歴史的につながっています。例えば731部隊、レントゲン班でも致死量を当てる人体実験が行われ、リーダーのひとりであった宮川正は、戦後放射線治療の専門家になりました。第五福竜丸事件の後、福竜丸以外の船員が放射線障害で苦しんでいても、放射線障害ではないだろうという理論を展開し、800あったと言われる被曝船は、一隻とされたのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・
(XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より)
東大・中川氏 正しい放射線・放射能・被ばくに関する対応とは
崎山比早子先生 『御用学者・東大中川恵一を痛烈批判!』
陸軍軍医学校防疫研究室と石井機関のネットワーク
天皇の承認の元に、細菌戦の攻撃面の命令は参謀本部作戦第2課が行ない、研究は陸軍省医務局が管轄していた。細菌戦部隊はアジア各地につくられ、防疫給水という名称によって、隠された。ハルピンをはじめ、北京、南京、広東、シンガポールにつくられた。
防疫給水部全体のネットワークは石井機関と呼ばれ、陸軍軍医学校防疫研究室の内藤良一が采配を振るっていた。
大学教授は、防疫研究室の嘱託となって、弟子たちを731部隊に送り、731部隊に指示を出していた。731部隊に行った弟子たちは生体実験などのデータを防疫研究室に送って、情報の共有をはかった。
日本医学会総会軍陣医学部会
1942年の第11回の日本医学会総会は東大で開かれた、写真は東大の安田講堂の前で第9部微生物学分科会の記念撮影。
前列向かって左側に、731部隊初代隊長の石井四郎、右側には2代目隊長の北野政次、3列目の左には1644部隊長の増田知貞の顔が見える。いかに、この部会で細菌戦部隊が幅を利かせていたかがわかる。
部会では、多くの細菌戦部隊員が参加し、人体実験で得たデータを元に書いた論文を発表している。
石井軍医少将は「所謂孫呉熱ノ研究」を研究グループを代表して軍陣医学部会の最後に講演した。
第2章「マルタ」
ロ号棟(四方楼)に囲まれた特設監獄(7棟、8棟)に被験者は「マルタ」(丸太)と呼ばれ収容され、人体実験が行われていた。
憲兵隊と「特移扱」(特別移送扱)
憲兵隊や特務機関に逮捕された者は秘密裡に731部隊に送られた。人体実験の被験者は「マルタ」と呼ばれた。「丸太」という意味である。
「特移扱」(とくいあつかい)は、憲兵隊が実験材料「マルタ」を731部隊に供給するための制度である。
憲兵は、特移扱でマルタを731にたくさん送れば、出世した。731部隊にとっては、大量の実験材料を速やかに入手できるものであった。
抗日活動家やソ連のスパイは裁判にかけられず、731部隊に送られた。
もちろん、無実の者でも、憲兵隊での脅迫や拷問下での取り調べの実情が、外部に漏れるのを防ぐために、731部隊に送られた人もいた。
「特移扱」文書
吉林省档案館発行の『「731部隊」罪業鉄証』には、戦争当時の憲兵隊の文書の写真が載っている。
そこには、工作名 イワン 「特移送スルヲ至当トミ認ム」と書いてある。
中国人 張生文は、抗日活動をしていたのだろうか?工作名イワンと名乗り、活動していた。そして、憲兵隊に捕まり特移送された。すなわち、731部隊に送られた。
731部隊に送られた者の数ははっきりしていないが、731部隊の総務部長や細菌製造部長であった川島清ハバロフスク(ソ連)裁判の供述調書に「強力な伝染病を囚人に罹患させる実験によって毎年600人以上が死んでいた」という証言を残している。
1939年から1945年の敗戦までには、少なくとも3000人が被験者とされ、殺された。
朱玉芬(しゅぎょくふん)の父と叔父
私は朱玉芬です。父は雲彤(うんとう)で叔父は朱雲岫(うんしゅう)です。2人とも抗日連軍(東北抗日連軍)にいました。憲兵隊に捕まって、731部隊に送られました。
2人とも731部隊で実験されて亡くなりました。
第3章
731部隊の人体実験
731部隊をはじめ、石井機関、陸軍病院その他の施設では、密かに人体実験が行われていた。
中国に作った日本の陸軍病院では、手術演習の名のもとに、生体解剖が行なわれた。
731部隊では、ペスト菌の毒力を増すために、ペスト菌の注射そして、その後に生体解剖、その他の菌でも、行われた。
また、細菌戦をやったところに赴いて、防疫活動の名のもとに、生体解剖を行なった。
軍医として中国・山西省へ
ペスト(黒死病)
平澤正欣軍医少佐の博士論文『「イヌノミ」の「ペスト」媒介能力ニ就テノ実験的研究』には、イヌノミがペストを動物に感染媒介する能力についての実験が報告されている。それによると、ペストに感染したイヌノミを3人の被験者に一匹附着すると、ペストになる人は0人で0%、5匹附着すると1人で33%、10匹附着させると2人で66%である。
ノミには14種類あり、その中でどのノミが細菌戦に有効であるかを研究していた。
その結論として、ケオピスネズミノミが一番感染力、抵抗力があることがわかり、このノミを細菌戦に使用することになる。
炭疽(Anthrax)
731部隊では、いろいろな細菌の培養をし、兵器化していた。
戦後、アメリカは、731部隊員から入手したデータを使って、731部隊員をアメリカに呼んで、3つの英文レポートを書かせている。Aレポート(炭疸菌)、Gレポート(鼻疽菌)、Qレポート(ペスト菌)である。
戦時中、731部隊ではいろいろな生体実験が行なわれたが、その中に炭疸菌の実験があった。
炭疸菌を皮下注射した場合、症例数1で、症例番号54番は7日で死んだ。
経口感染させたものは、症例数6で、318番、26番は3日で死に、320番、328番、325番、17番は2日で死んだ。
経口撒布感染させた者は12人で、411番は4日で死に、・・・・・
経鼻感染させた者は、4人で、380番は3日で死んだ。・・・・・
流行性出血熱
満州で原因不明の風土病がはやった。
そのとき、731部隊は調査隊を送って、人体実験をして原因を調べた。
1938年にソ連との国境地帯に不明疾患が続出した。死亡者は年々増加し、致死率は15%であった。この出血熱は、発病地の名前を取って、孫呉熱とか虎林熱と呼ばれ、731部隊は調査班を編成して派遣した。731部隊内には特別研究実験班を設置し、「特殊研究」を行わせた。
病原体は北満トゲダニから分離され、濾過性(ウィルス)と特定された。1942年12月に流行性出血熱と命名され、現在は腎症候性出血熱といわれる。
「特殊研究」とは人体実験のことである。
毒ガス実験
731部隊と516部隊(関東軍化学部)は、合同で毒ガスの人体実験を行っていた。
516部隊には、731部隊の分遣隊が置かれていた。石井部隊は背陰河時代に青酸の人体実験を行っていた。平房の本部は、毒ガス実験室を作り、ガラス張りの部屋に毒ガスを発生させて、中の「マルタ」を観察した。
瀬戸内海に浮かぶ大久野島では大量の毒ガス兵器が作られ、中国で使用された。当時、生産に携わった人の中には、そのときの後遺症で今なお治療を受けている人もいる。
また、戦時中、中国では、日本軍が使用した毒ガス兵器によって多くの人が死んだり、731部隊や516部隊の実験材料にされて、無残に殺された人も多い。
日本軍が敗戦で引き揚げるときに、多くの毒ガス弾を中国に遺棄したことによって、今の中国では、その毒ガス弾に触れたり、爆発によって被害が出て、日本で裁判も現在進行中である。
化学兵器廃絶を目指し、被害者を支援する ― 遺棄毒ガス問題ポータルサイト ―
遺棄毒ガス被害者家族の現状(ABC企画ニュース89号より)
相模海軍工廠(海軍毒ガス工場)
【真相】
石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言
郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)
Ⅰ ファインダーがとらえた地獄
―総務部調査課写真班 T・K
「新京陸軍病院衛生兵から731部隊員へ」より
毒ガス実験の撮影は命がけだった
・・・「丸太」は、1回に1人ずつ、特別班員によって中に連れて来られる。足かせをはめられ、後手に縛られて、ガラスのボックスの中に立ったまま入れられる。
じっと息を殺したような重苦しい時間が流れる。やがて、ボックスの中の「丸太」がまるで居眠りでもするように、次第に顔をうつむけていく。5分ぐらいたったろうか。「丸太」は、ひとつ大きな「あくび」のような息をして、ガクッとこうべを垂れる。絶命の瞬間だ。
1回の実験で、4、5人の「丸太」を次々とこうして毒ガスで殺す。
カメラを構えている私の近くの壁に、小鳥(カナリアだったか、十姉妹だったか)を入れた鳥かごがぶら下げてあった。よく見るとほかにも、2、3の鳥かごが同じようにかけてある。
「これ何のためですか」と聞くと、516部隊の将校が、「かごの中の鳥の様子に注意せよ」という。そして、小鳥の様子に異常を認めたら逃げろ、と指示された。
つまり、この実験で使用されたのは、無色無臭の窒息性毒ガスで、しかも実験設備では、毒ガスがもれる恐れがあるということなのだ。
O大尉に731部隊行きを誘われた時、40歳ぐらいまで気楽な軍属として働こうと思っていた私は、731部隊の想像もしていなかった危険な実態を、身にしみて感じ、はげしく悔恨のほぞをかんだが、もう遅かった。
毒ガス野外実験
陸軍の毒ガス研究開発は、関東軍化学部(516部隊)、第6陸軍技術研究所、陸軍習志野学校、浜松陸軍飛行学校などが担った。攻撃方法は迫撃砲などの砲弾によるもの、地上で撒布・放出するもの、飛行機による雨下(空中撒布)や毒ガス弾の投下などであった。731部隊では、毒ガスの人体に及ぼす影響を、人体実験を行い研究した。
1940年9月7日~10日にかけて、砲門4門(600発)と十榴8門(600発)のきい弾〔イペリット・糜爛性(びらんせい)ガス〕の射撃を実施。第1,2,3地域に分け、野砲偽掩体、壕、観測所、掩蓋MG(機関銃)座、特殊構築物などに被験者を配置した。被験者を毒ガスマスクを装着するもの、しないものに分けた。
赤ん坊への凍傷実験
シベリア出兵(1918年~22年)時には、全軍の3割が凍傷に罹った。ソ連軍との戦争を想定していた関東軍にとって、凍傷の治療は克服しなければならない課題であった。
吉村寿人(ひさと)班では次の手順で実験を行った。
1、零下20℃以下の屋外に被験者をしばりつけ、腕などに塩水をかけて人工的に凍傷を作る。
2、棒でたたいて、凍り具合を確認する。
3、凍傷になった腕を温度差のある湯につけて、回復具合を見る。時により患部が壊死・脱落して骨があらわになる。
吉村らはこれらの実験から凍傷のメカニズムを明らかにし、「治すには体温程度の温水につければよい」という画期的な治療法を発見した。石井はこの発見をことあるごとに誇っていたという。
生後3日、1ヶ月、6ヶ月の赤ん坊への実験。
なんと赤ん坊でも実験を行っていた。
・・・・「中指に針を埋め込み、摂氏0℃の氷水に30分入れ、皮膚内部の温度変化を調べた。生後3日から1ヶ月後までこの実験が毎日行われた。吉村はこの被験者は、共同研究者の二男だと弁解している。」
※もちろん、中国人の赤ちゃんなども、実験に使われていたのではないか?
吉村が自著『喜寿回顧』の中でも、モンゴル人少年の凍傷実験の様子を写した写真を載せている。反省など全く見られない。
戦後、吉村は、京都府立医大学長までなるが、日本生理学会において731部隊で行った凍傷実験を「私の研究遍歴」と題して発表し、学会からは批判も出ていた。
凍傷実験に被験者にされた人は、手が無くなったりしたが、死ぬまで何らかの実験に使われた。
医学者たちの独走
731部隊での実験は、細菌戦の準備とは無関係に医学者の好奇心だけで行われたものがほとんどである。
・乾燥器にかけて熱風を送る。
・何も食わせないで水だけ飲ませたらどのくらい生きるか。
・パンだけ与えて、水を一切やらなかったらどうなるか。
・ガラスチェンバーでのガス実験。
・梅毒実験。
・逆さ吊りにした場合、何時間何分で死に至り、身体の各部はどの様に変化するか。
・X線の長時間照射。
・チスフ菌入り甘味まんじゅう実験。
・手榴弾を、露出したマルタのお尻付近で爆発させ、破片の突き刺さり具合の調査。
・真空実験、減圧実験。
・ビタミンCの大量注射。
・A型からO型(血液)への輸血。
・右腕と左腕を取り替える。
・ロシア人母子への青酸ガス実験。
・・・・・・・・・
731部隊で人体実験が行われている時期に平行して、大学医学部や石井機関でも「治療」と称して人体実験が行われ、多くの被害者を出している。日本に於ける、731部隊と民間の人体実験への姿勢は無関係ではなく、同じ医学パラダイム内での行為である。