首相の伊勢神宮参拝反対!!
虐殺は、その前後で行われた!!
首相の伊勢神宮参拝反対!!
11月19日(金)
・まず731部隊展についてまとまった資料展を行われた関係各位に最大限敬意を表したいと思います。沢山のパネルによるまとまった展示を見るのは初めてです。改めて日本の侵略戦争の残虐性を知ることができました。今後私自身「731部隊・・・」の知識を深めていきたいと思います。
(70代、市外)
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第6回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第7回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第7回
日本学術会議(ウキペディアより)
学術研究会議を前身とし、GHQの影響化で1949年に発足。
研究者による直接選挙を実施し、当時は「学者の国会」と呼ばれた。
政府への勧告で多くのセンターや研究所の設立を実現し、原子力研究3原則を提言。
南極特別委員会で南極探検(★)にも貢献した。
1957(昭和32)年l月16日 日本学術会議
原子力平和利用の研究開発に関する声明
本会議は、わが国の原子力平和利用が原子力委員会等を中心として発展しつつあること喜ぶとともに、とくに長期基本計画が着実に実現されることに深い関心をもつものである。
しかるに昭和32年度原子力関係予算がきわめて大巾に削減されて、同計面の中の重要な部分が実行されず、あるいは延期されるのやむなきにいたるやに聞くことは憂慮にたえないものがある。
最近世界における原子力研究の発達とともに原子動力の利用は具体化の段階にはいっている。それとともにわが国における研究の体制を急速に整備し、海外の科学技術の発展の成果を自主的にとりいれ、将来においてはわが国独自の研究をもって世界に寄与しなければならない。
そのためには長期基本計面が実行でき、かつ放射線医学総合研究所等の国民の厚生のために必要な研究施設を設置するにたる予算面の措置が必要である。
本会議は予算の具体的な内容に立ち入って発言しようとするものではないが、政府が原子力委員会の意見をきき、わが国における原子力研究の長期的発展の見地から悔を残さないような予算措置を講ずることを希望する。
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
実験医学雑誌第18巻雑報
18巻11号(1934年)
学部と業務担任の変更
今回新館移転と阿部技師の満洲国衛生技術廠長就任に伴い学部及び業務担任の変更が
去る11月1日付を以て次の如く発表された。
疫学部
主任 技師 野邊地慶三
防疫学部(食品防疫、非病原性菌株保持)
主任 技師 遠山祐三
病理学部(病理解剖学、実験病理学、発疹チフス、ツツガムシ病、癌)
主任 教授 三田村篤志郎
寄生虫学原虫学部
主任 教授 宮川米次
獣疫学部(痘瘡、痘苗、狂犬病、脾脱疽)
主任 技師 城井尚義
衛生動物学部(伝染病媒介動物学、昆虫その他病害動物及びその撲滅法)
主任 技師 山田信一郎
化学部(生理化学、病理化学、治療化学、細菌化学、血清化学、抗毒素)
主任 教授 河本禎助
大動物免疫部
主任 技師 城井尚義
ワクチン製造及び包装部
主任 嘱託 西澤行蔵
毒素精製作業部
主任 助教授 細谷省吾
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
当事者目録(別紙1)
原告ら訴訟代理人
弁護士 藤浦龍治
同 森川明
同 吉田容子
同 在間秀和
同 池田直樹
同 石田法子
同 岩城穣
同 上野勝
同 梅田章二
同 大川一夫
同 太田真美
同 太田隆徳
同 岡田義雄
同 岡田和義
同 片見富士夫
同 冠木克彦
同 財前昌和
同 佐々木寛
同 重村達郎
同 城塚健之
同 相馬達雄
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難
「1931」斉藤準太郎の日記
四月二五日
理屈云った所で理屈は理屈として終わって仕舞ふ 之を知りながら、新聞或いは雑誌から丸吞みにして買った〇人ぶるに必要なる理屈とも何とも云へない言を云っては 二度と来ない時間を平然と捨てている。私は今考えることは 時間のみの問題なら世界の人達(通の者らしい事業家的な理屈屋)が云ひ合はした様な時間の事は 満期兵となった現在の私には一個の荷厄介な負担であるとさえ考える 何故ならば結論はいたって簡単だ 早く帰りたいのです 之が金であるべき時間を捨てた理由ですから あきれてものも云へない人があるかもしれない。
私はこの間から婦人公論を読んでいるが 何も心機一転して性の問題を研究したり 恋愛の道を覚えたり または労働問題や婦人解放問題を研究する為に読むような心持で読んでいるのではない。なぜならば私は軍人だ 帝国軍人だ 2ヶ年はたとえ自分と云ふ心の理想ではないし、想に黒布をかぶすだけでもよいから 絶対に考へたりわしてはならないのだと云ふことを自覚して極力行ふ様 否 行ひつつあるんだ。
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅱ 関連部隊・支部
香港難民の大量虐殺
ゲルトネル菌を飲用湯に投入して・・・・
丸山茂
8604部隊
(経歴)
1917年生まれ
1938年 朝鮮・龍山の歩兵79連隊に教育召集
1939年 南支那派遣軍防疫給水部(波第8604部隊)に転属。細菌検索班に所属
1943年3月 除隊。帰国
1945年 再召集
1945年8月 朝鮮で除隊
1945年10月 帰国
■この証言は731研究会の学習会での発言(1993年11月)、『短歌草原』(1992年8・9・10月号)所収「いかなる美名でも戦争への道は悪だ」よりまとめられたもの。
そういうことをして、生き残った人間まで使って細菌戦を行ったわけです。
Mは珠江のほとりで、私に彼がやっていたことを話した後、涙を流していました。そして「ずっと眠れなかったよ」と言いました。“五加皮(ウンカッピ)”という酒があるんですが、その赤い酒を洗面器に入れて飲んだけれども眠れなかったと、Mは言いました。
細菌兵器を使うことは、国際条約で止められていると、部隊の中で軍医によく聞きました。「そういうものを撒いちゃいかんよって」と言われました。
然し撤退作戦や何らかの時には、撒くんじゃないかと思っていました。自分たちがいる間は撒かなくても、引き上げるときにはやるんじゃないかと。というのも、ノモンハンの経験を誰かから既に聞いたいたからです。そういうことを2科の連中は、よく知っていましたから。
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
Ⅰ東北
2 華北
4 山西
菊地修一供述書(1955年3月12日)
問:砲兵大隊長になったのはいつか。
答:1945年3月に編成を開始し、4月上旬に正式に着任した。
問:砲兵大隊長在任期間の罪行を話せ。
答:1945年6月下旬、情報により惇(忄が山偏)県西南賈村において八路軍の工作員が活動しており、治安が悪いのを知った。彼らのを逮捕するため、私は部下を250余名と原平憲兵隊10余名、特務工作隊30余名を指揮し、早朝5時頃、西南賈村を急襲し、村の南で住民1名を射殺してから、続いて村を掃討した。この間住民を3名殺害し、40名を逮捕し、憲兵隊は拷問で3名殺した。また略奪を命じて藁800斤、豚2頭、鶏少なくとも30羽を得た。駐屯地に戻るとき憲兵隊は嫌疑を名目として住民4名を、特務工作隊も4名を連行し、同時に18歳位の女性も1人連行した。同日午後3時、談児庄で特務工作隊に命じて逮捕した住民2名を銃殺させ、ほかの2名は原平鎮に連れ帰り、そのうち1名は原平鎮陸軍病院へ送られ解剖された。ほかの1名は釈放した。
同年7月上旬、私は部下の1個中隊を惇(忄が山偏)県大漠村東南方一帯に派遣して「掃討」させ、住民4名を逮捕し、談児庄に連れてきた。第3中隊の士気を高めるため談児庄東南角で2名を刺殺し、2名を原平鎮に連行して、部下の軍医吉沢行雄大尉に兵営医務室で皮膚縫合手術の研究をさせたのち、釈放した。
(1)119ー2、12、1、第4号
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第7章なぜ日本軍は毒ガス兵器に依存して戦いを行ったのか
4 日中戦争をめぐる陸軍中央の動向と毒ガス戦
日中戦争の勃発と不拡大方針の設定
ところが1937年12月に南京が陥落すると、日本政府は講和条件を吊り上げて賠償や駐兵を求めたので中国との和平工作は決裂した。近衛文麿首相は1月16日に「帝国政府は爾後国民政府を対手をせず」との声明を発表し、外交交渉の道を自ら閉ざしてしまった。南京陥落後、蒋介石は武漢に後退して抗戦を継続した。
第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第8章 無辜の被害者
山西沁水県西山の毒ガス殺人
瞬時にして窒息性の毒ガスが住居内に充満し、人々は息苦しさを感じ始めた。この時、完全武装した日本軍は、獰猛な狼のような吠え声をあげ、外に出ようとする人々を押し返した。毒ガスにむせ返り戸口から走り出た人々は、銃剣ですぐさま刺し殺された。各部屋は毒ガスでいっぱいになり、哀れな民衆は生死の境でもがき、湿した布で口と鼻をふさいだ者もあったが、それを見た日本兵は部屋に飛び込んで猛然とその布を奪い取り中庭に投げ捨てた。
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く
●『三光』 中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)
核時代39年(1984年)5月初版発行
日本鬼子(リーベンクイズ)
2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス
●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
藤井治夫著
第2篇 自衛隊の機密
第1章 作戦用兵
1 軍令事項
開ざされた用兵面
この対象から除かれているのが、隊法第6章「自衛隊の行動」関係なのである。第6章では、防衛出動、治安出動、防衛出動待機、治安出動待機、海上における警備行動、災害派遣、領空侵犯に対する措置の実施について定めている。この7つの任務を遂行するための各種の行為が、『統合用語教範』にいう広義の作戦または行動に含まれている内容なのである。これが自衛隊における作戦用兵―軍令の対象であると考えていい。用兵の系列における基本的計画は防衛計画と呼ばれている。とうぜん「防衛計画に関する訓令」があるはずであるが、公表されていない。「秘」扱いの内訓とされているのであろう。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦
1、自衛隊の装備・訓練を探る
機動隊の催涙ガス作戦
ガス弾の直撃を受けて負傷した学生の言葉として、東大統一救援対策本部の石田統子さんは『告発』創刊号に次のような紹介している。「何か当たったと思った瞬間、爆風で吹き飛ばされ、仰向けに倒れた。頭が陥没したような気がした。体中が猛烈に熱く、水がどっと流れるように、血が出ているのがわかり、段々熱くなってぼうっとなってきた。目の前が真っ暗になり、周りにいたと友達が駆け寄って、『大丈夫か』『早く下に連れて行け』と言いながら運んでくれたのを覚えている。あとは意識がもうろうとしていた。」
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
監修者あとがき 2002年10月 吉田裕
本書の第1の特徴は、昭和天皇が、能動的君主として、次第に国策の決定や重要な軍事的決定に深く関与するようになっていった事実を、豊富な史料に基づいて具体的に解明していることである。その際、分析の手法としては、次の2点が重要だろう。1つには、ビックスが、昭和天皇の言動を記録した諸史料の分析を通じて、天皇の思想と行動の特質を明らかにしようとしているだけでなく、天皇に影響を及ぼすことのできる立場にいた人々の思想からも、天皇の思想と行動の特質を読み解こうとしていることである。具体的に言えば、侍従長、内大臣、「御学問所」で教師の役を務めた軍人や学者、「御進講」を担当した官僚や学者などである。こうした直接・間接の2つのアプローチを併用することによって、昭和天皇の行動の特徴、その背後にある彼の思想や思考様式、更には性癖に至るまでを、実に生き生きと描き出すことに、本書は成功しているといえよう。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.
731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!
日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
※私が考える、今の異常気象の要因は
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
4、自動車社会の排ガス
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
核実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フランス
サハラ砂漠での核実験
1960年2月13日 初の原爆実験(ジェルボアーズ・ブルー)。イスラエルの科学者が同席。事実上イスラエルとの共同実験。
1968年8月24日 初の水爆実験。
フレンチポリネシアでの核実験。
1966年から1996年1月までに約200回実施。
詳細は「フランスの大量破壊兵器」を参照
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future
●核融合もすべきではない!!
核開発に反対する物理研究者の会通信
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について
なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!
JCOの臨界事故
福島第1原発事故
●核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
●日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病
●731部隊(unit731)
●昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!