ウクライナ破壊は「途方もない間違い」 ロシア富豪が非難
日本は、なぜ、核兵器禁止条約締約国会議に参加しない??
戦前・戦後直後と同じ、トップは無責任!!
731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。
戦前・戦後直後と同じ、トップは無責任!!
731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。
「核兵器禁止条約」発効の意義と課題―今こそ、東北アジア非核兵器地帯を
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第6回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第7回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第8回
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・参院選挙に出ている核融合党の桑島康文と人事異動にある桑島謙夫との関係は?
実験医学雑報20巻 第1号(1936年)
河本教授逝去
元本所所員、長崎医科大学教授河本禎助博士には予ねて病気中であったが、薬石効無く去る1月5日(日)午後3時、長崎市伊良林の自宅に於て遂に逝去された。享年55歳であった。
教授は大正4年より本所に勤務、爾来昨年3月長崎医科大学教授に任ぜられる迄、20年の長きに亙り、化学部主任として研究並びに指導に尽力され、学界に多大の寄与を為すと共に、その間運動界その他各方面に幾多の貢献を為されたことは世人のよく知る所である。英敏なる頭脳と明朗闊達なる性格とは実に多方面に亙って多大な感化影響を及ぼしている。昨年輿望を負って、非常なる決意を以て長崎医大に赴任し、理想に邁進せられつつあったが、業未だ緒に就かざるに逝去せられたるは、誠に惜しみても余りあることである。
翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??
浜松一中の慰霊碑
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
大牟田「爆発赤痢」事件
北宏一郎
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)
第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)
5 戦時国際法における個人の権利の承認:戦時国際法の特殊性について
1899年の第1回ヘーグ平和会議で採択された旧ヘーグ陸戦条約(46条、52条、53条)、続く1907年の第2回ヘーグ平和会議で採択されたヘーグ陸戦条約は、当時の主要国家の大部分の参加の下、慣習法として存在してきた戦時国際法の規則を法典化した集大成をなすものである。
二月十八日
午前六時起床 晴 風なし 零下八度 衛生勤務 非常に愉快だ 幼稚園の小供が大勢遊びに来た
小供は天使
正直そうな瞳を兵隊さんに向けながら悪戯っ子らしい一人の男の子は元気よく語った。「先生はね、怒るとね、僕たちを物置に入れるんだよ だけどね 僕なんか平気だよ 窓があるんだもん 昇ってしまうからね」と、小供らしい無邪気さではないか。今一度帰ってみたいような気がしてならない。此処へ来ると先生に叱れるんだよ・・・・
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅲ 細菌戦部隊の周辺
戦時中の東南アジアの様子(731部隊員増田知貞が撮影したフィルム)
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
はじめに
注
*例えば、1925年のジュネーブ議定書では「窒息性ガス、毒性ガス、又はその他のガス、及びこれらと類似の全ての液体、物質又は考案を戦争に使用すること」が禁止されていたが、その中には、イペリット(英米圏などではマスタードガスという)・ルイサイト・ホスゲン・青酸・塩素などだけでなく、一般に「暴動鎮圧剤」と呼ばれている嘔吐性ガス(ジフェニールシアンアルシンなど。クシャミ性ガスという言い方もあるが、本書では嘔吐性ガスとよぶことにする)・催涙ガス(クロロアセトフェノンなど)も含まれる。このうち、催涙ガスの使用が違法であるかどうかは議論が分かれるが、1932年のジュネーブ一般軍縮会議での多数意見は違法とするものであった。1997年に発効した化学兵器禁止条約では、開発・生産・貯蔵も含めて禁止される化学兵器と、それが許される暴動鎮圧剤を区別しながらも、後者の戦争での使用は禁止している。
碑文
第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第12章 癒しがたい傷
毒ガスの焼却
こうして、甘い餌と威嚇によって、どうにかこうにかこの工場を取り壊したのである。ところが、これが、労働者たちの不安を一層掻き立てることになった。多くの労働者たちはこの時、自分が島で働いたことを証明できるすべての証拠を、同時に焼却してしまったのである。こうすれば自分もこの罪深い島との関係から抜け出せると思ったのだったが、この島との関係は一生かかっても断ち切れないものだということには思い至らなかったし、又思い至ることは不可能だった。
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く
核時代39年(1984年)5月初版発行
焼け火箸ー拷問の挙句に斬首
佐藤五郎
分隊員 上等兵
(旧部隊名)第59師団第109大隊
それを見た青山は通訳に目配せし、座った中年の男に近寄り、「どうだい、八路の事を言ったら帰してやるかが、言わないかい」と、なだめるように言う。青山の顔を睨みつけると、「鬼子、日本鬼子」鋭い声で叫んだ。連れてこられた農民風の男も何か叫んだ。
「よし言わねえか、最後だ、おい金本」通訳に目配せをする。金本は2人に近寄ると、「歩け」 かすれた声を張り上げた。
喚き立てる金本を見上げた2人の中年の男は中腰に立ち、近寄る金本の眼を睨みつけると立ち上がった。金本は体を後ろに引いた。足は地から浮いて震えだした。それを見た青山は「おい高田」「ハイ」返事をすると高田は2人に近寄り、農民の肩を後ろから引っ張った。