核時代39年(1984年)5月初版発行
戦争に正義はない
森村誠一
だが祖国の(軍国主義が)犯した過ちを明らかにすることは痛みを伴う。その痛みに耐えても私達はそれを次代に語り伝えなければならない。記憶の風化に伴い先人が貴い犠牲によって学んだはずの教訓が忘れられていく。
なぜ今731なのか。それは前後30数年して、ようやく戦争の傷痕が風化しかけてきている事と、元隊員たちの口にかけられた固い閂(かんぬき)が解けかけてきたからである。「今から10年早くても守秘命令が生きていて語れない、10年遅ければ元隊員たちは大方故人になってしまうだろう。だから今なのだ」と取材に協力してくれた隊員の1人は言った。
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)
研究―四
三矢研究事前研究項目(対米関係事項)
基礎研究―4 別冊第2
作戦行動について
4 両者のボーダー・ラインとして考えられるもの
(ホ) 掃海についても 上陸作戦海域における掃海の如く戦闘行動と不可分の場合、日本の基地を出発するのは戦闘のための使用と言える。
(ヘ) 戦闘任務を与えられた陸上兵力を艦艇又は航空機により輸送するため基地を使用する場合、 戦闘地域に輸送する場合は戦闘行動のための基地の使用と言えるであろう。(敵の背後に上陸させる場合も含む)
第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。